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【動画付短編小説】【JACK】断章/帰る道

糸のような雨が、街の輪郭をぼかしている。

刑務所の門が、軋んだ音を立てながら閉じる。
南雲は、振り返らなかった。

小さな鞄が一つ。
腕は、まだ軽かった。

時計はまだ、鞄の中にあった。
あの夜を境に、彼の腕を離れた相棒も戻った。

灰色の空。
遠くで、電車の音だけが響いている。

男が立っていた。
五十代。色褪せたコート。

「南雲さんですか」

穏やかな声だった。

「……あんたは」

男は頭を下げる。

「保護司です。指導ではありません。伴走です」

南雲は、何も言わない。

ただ、一つ息を吐いた。

黒いセダンが停まっている。

「送ります」

「どこへ」

保護司は微笑む。

「帰れる場所へ」

沈黙。

「……そんなもの、まだ残ってますかね」

「ありますよ」

男は即答した。

「帰れなくなった人間を、待っている場所が」

雨が強くなる。
南雲は、ゆっくり歩き始めた。

――数か月後。

夜。
都内某所。

黒いセダン。
運転席に、南雲が座っている。
助手席には、若い女性。両手で鞄を抱えていた。

「南雲さん」

「なんだ」

「前科持ちは、再就職に非常に苦労すると聞いていたのですが」

ワイパーが、一定のリズムで雨を切る。

「会社勤めなら、勿論そうだろう」

赤信号。
南雲は、前だけを見ている。

「俺の場合、SPを辞めてからは、元々個人事業主みたいなものだった」

「ボディーガードですか?」

「運転手。相談役。必要なら盾にもなる。」

小さく息を吐く。

「……守る相手が、少し変わっただけだ」

女性は、窓の外を見る。

「怖くないんですか」

「何が」

「私を守ること」

信号が青になる。
南雲は、アクセルを踏む。

南雲は、前を見たまま答えた。
「怖いさ。」

少しだけ間を置く。

「守れなかった後悔のほうが、ずっと怖い。」

沈黙。

やがて、低く続けた。

「昔は、国家を守っていた」

「今は、居場所を失った奴を、帰れる場所まで送ってるだけだ。」

千夏は、それには答えず、しばらく窓の外を見ていた。

「……南雲さんは」

少し間。

「帰る場所、あるんですか」

南雲は、答えなかった。

信号が、また赤に変わる。

「私は、ないんです」

淡々とした声だった。

「実家は、もう誰も住んでません。仕事も辞めました。今日、鍵を返したところです」

膝の上の鞄を、少し強く抱え直す。

「だから、これ一つで」

南雲は、しばらく黙っていた。

「……荷物、それだけか」

「はい」

「軽いな」

「はい」

短い沈黙。

「俺も、そうだった」

千夏は、初めて南雲の横顔を見た。

南雲は、前を見たままだった。

「鞄一つで、門を出た」

それだけだった。

車は、雨の中を滑るように進んでいく。

――時計の針は、二十時を少し回っていた。

JACK。

カラン。
扉が開く。

神宮寺が、グラスを磨く手を止めた。

「おかえり」

南雲は、濡れたコートを脱ぐ。

「……ただいま」

五島が、煙草に火を点ける。

「随分、長い散歩だったな」

南雲は、カウンターへ腰を下ろす。

「飯が不味かった」

氷が鳴る。カポン。

神宮寺が、グラスを差し出す。

「仕事は?」

「便利屋だ。」

「何の?」

南雲は、グラスを見つめたまま答える。

「個人ハイヤー。」

「送迎専門だ。」

「ちゃんと許可は取ってる。」

五島が、煙を吐く。

「そのやり方じゃ、割に合わないだろ?」

「元々、金のためにやってねえ」

紫煙が揺れる。

南雲は、腕時計へ目を落とした。

出所の日、返還された相棒、チューダーのブラックベイだった。

一年半止まっていた針は、ゼンマイを巻くと、何事もなかったように今日を刻み始めた。

南雲は、もう銃を持たない。

だが、
帰る場所だけは、
今日も、
密かに守り続けている。

雨は、いつの間にか止んでいた。

助手席には、まだ鞄を抱えたままの女がいる。

行き先は、まだ決まっていない。

――【JACK】─断章 帰る場所 完

行き先だけが、まだ、宙に浮いたままだった。


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