【動画付短編小説】【JACK】断章/夜景のあとで
夜風は、少しだけ涼しかった。
仕事は終わった。依頼人も、無事だった。街には、いつもの灯りが戻っている。今夜は、もう誰も狙われない。
南雲はエンジンを掛けた。千夏は助手席で、大きく息を吐く。
「終わったね。」
「ああ。」
しばらく沈黙が流れた。カーラジオだけが、小さく鳴っている。
千夏は窓の外を眺めた。
「……もっと広い場所で休みたい。」
南雲はハンドルを握ったまま、小さく笑う。
「依頼人には手を出さない主義なんでね。」
千夏は吹き出した。
「誰も、そこまで言ってない。」
南雲も少しだけ口元を緩める。
「じゃあ。」
「少し休むか。」
「一杯くらい、付き合ってよ。」
南雲は腕時計へ視線を落とした。
「……わかった。」
「少し付き合う。」
暖簾をくぐる。年季の入った居酒屋だった。仕事帰りの客で賑わっている。焼き鳥の煙。枝豆。唐揚げ。
店員が注文を聞きに来た。
「生、一つ。」千夏が言う。
南雲は少しだけ考えた。
「ノンアルコールビールを。」
店員が去る。千夏は首を傾げた。
「飲まないの?」
「今日は運転手だからな。」
「もう依頼は終わったのに?」
南雲はジョッキを受け取り、小さく笑う。
「……癖だ。ハンドルを握っていると、まだ誰かを守っている気がするからな。」
千夏も笑った。
「南雲さんらしい。」
二人はジョッキを合わせる。
「乾杯。」
「乾杯。」
事件の話はしなかった。護衛の話もしなかった。焼き鳥が旨いとか。昔見た映画の話とか。好きな季節とか。そんな他愛のない話だけが続いた。
気が付けば、一時間近く経っていた。
店を出る。夜風が心地よい。
千夏が空を見上げた。
「帰る?」
南雲は首を横に振る。
「少し寄り道する。」
「え?」
車は、都心の喧騒から離れるように走り出した。繁華街を抜ける。坂道を登る。やがて、高台へ辿り着く。
眼下には東京の夜景。無数の灯りが、宝石のように煌めいていた。
千夏は思わず息を呑む。
「……すごい。」
南雲は街を見つめている。
「昔。」
「ここから街を見たことがある。」
「その頃から?」
「ああ。」
「守る価値はあると思った。」
千夏は夜景ではなく、南雲を見た。
「今も?」
「今もだ。」
風が吹く。千夏の髪が、わずかに揺れた。二人とも、しばらく何も話さなかった。
「人を守る仕事って。」
千夏が、ぽつりと聞く。
「報われる?」
南雲は夜景から目を離さなかった。
「どうだろうな。」
少しだけ考える。
「出所した男を知っている。」
「今は歌舞伎町で客引きをやってる。」
「……違法行為だけどな。」
「背に腹は代えられないそうだ。」
「この前、外国人グループに殴られた。」
「それでも翌日には街に立っていた。」
夜風だけが吹く。
「塀の中を出ても、人生は終わらない。」
「だが、始まりもしない。」
千夏は静かに言った。
「……それでも、生きてる。」
「ああ。」
時計の針は、零時ちょうどを指していた。
「送る。」
南雲が言った。
「タクシーじゃなくて?」
「車がある。」
「それに。」
「送ると言った。」
千夏は小さく笑った。
「命令みたい。」
「職業病だ。」
二人は車へ戻る。
住宅街の外れ。千夏が今、仮住まいにしている小さなアパートの前で車が止まる。古い建物だった。玄関灯が一つ、頼りなく灯っている。
千夏はシートベルトを外す。
「今日はありがとう。」
「礼なら依頼人に言われ慣れてる。」
千夏は首を振る。
「違うの。」
「今日は依頼じゃない時間もあったから。」
南雲は少しだけ目を伏せた。
「……そうか。」
千夏はドアを開ける。降りる前に振り返る。
「また会える?」
南雲は少し考えた。
「……縁があれば。」
千夏は笑う。
「その返事、ずるい。」
「そうか。」
一拍。
「何かあれば、また声をかけてくれ。」
ドアが閉まる。千夏は、誰も待っていない部屋へ向かって歩いていく。その背中が、玄関灯の中に消えるまで。
南雲は、車を発進させなかった。灯りが消えるのを見届けてから、ようやくアクセルを踏んだ。
行き先は、まだ決めていない。それでも今夜は、不思議と――孤独ではなかった。

それで十分だった。
【動画付短編小説】『JACK』断章/夜景のあとで
— 隼人 (@hayato_watches) July 30, 2026
夜景のあとで。
本当に残るのは、景色ではない。
誰と過ごした夜だったかだ。https://t.co/dkgnmt5aZR pic.twitter.com/wrEExHL3lb
