「みんな愛してるから」第一章 夏織③
職場から離れた店を指定した。同時に庁舎を出ては意味がないので、文也には悪いが時間を潰してもらって、夏織は先に出た。
バスに乗って、十分少々。待ち合わせの喫茶店に、先に入店する。
ここは学生時代、友人とよく通った店だ。今も、彼女と会うときはここだ。紅茶が美味しいのと、適度に離れた座席に高めの衝立が、内緒話をするのにうってつけだった。
昼はいいが、夜はやや肌寒い。温かい紅茶を注文してから、すぐに「着いたよ」とメッセージを送った。
既読マークは付くものの、返信はない。庁舎を出て、バス停に向かっているはずだ。早く来てほしい。
何をどう話すべきか。自分の過失に違いないが、どうにかうまく、誰かのせいにできないか。すなわち文也に責任を押しつけることになるが、さすがに彼も怒るだろう……。
そわそわと文也の到着を待ち、紅茶を飲むことも忘れていた。気づいたときには、ポットの中で渋くなってしまっていた。
砂糖でごまかしながら、夏織は冷めつつある紅茶に口をつける。
苦さに頭が冷静になる。やはり正直に謝罪するほかない、か。
チリン、とドアに設置されたベルが鳴ったので、はっとして夏織は入口を見た。
スーツ姿の文也が、きょろきょろと辺りを見回して、夏織のことを探していた。夏織は彼に見えるよう、手を高く挙げた。
こちらに気づいた文也は、店員に一声かけてから、向かい側に腰を下ろした。
コーヒーを注文して、彼は手を組み、夏織の話を聞く態勢を取った。
「緊急事態だって聞いたけど、何かあったの?」
トークアプリでのやり取りはもどかしいし、かといって電話だと、誰が聞いているかわからないから、彼にはまだ詳細を知らせていない。
運ばれてきたコーヒーを、まずは一口飲むことを勧めた。きっと話を聞けば、味なんて一つもわからなくなる。
夏織の言葉に従って、文也はブラックのままのコーヒーに口をつけた。夏織はじっと、彼の喉が動き飲み干す様子まで見守ってから、話し始めた。
「百合子さんに、ばれた」
溜息のような小さな声での報告に、文也は、「まさか」という表情を浮かべた。夏織の真剣な目から、真実であるということを知ると、顔を覆った。
「一応人違いって言ってはおいたけれど、ごまかされてくれたかどうか……」
渡辺百合子が浅倉文也に執心していたのは、職場のほぼ全員が知っている事実であった。
きっかけなんて、文也ですら覚えていないという。就職して数か月経過した頃からずっと、文也は百合子に言い寄られていた。
こうなる前は、特別に彼を意識していたわけではない夏織ですら、オクターブ高い声で「浅倉くぅん」とドスドス接近していた姿を、何度も見たことがある。
気の毒だなあ、と見つめていたが、我がこととなると、非常に厄介である。
「百合子さん、何か言ってた?」
「ううん……でも、午後の業務は心あらずって感じだったし、明日、何を言われるかわからない」
夏織はターゲットから外していたからよく知らないことだったが、文也はこれで、よく女性から好意を寄せられていた。
見るからに草食男子なところが、特に年上の女性陣には美味しそうに見えたのかもしれない。上手く丸め込めば、結婚まで持っていけると思われていた節がある。
男慣れしていないおとなしい女性からも、男臭くないところが気に入られていた。女の社会では、大人になってもそういう話が耳に入ってくるものだ。
だが、百合子の熱烈なアプローチに、文也狙いの女たちは振り落とされていった。ボリュームのある身体を無理矢理捻じ込んで、彼女は文也を食事に誘った。
人前で堂々とデートの約束を取り付けるのは、押しに弱く、優しい気性の彼の善意を逆手に取ったやり方だ。文也は女性に恥をかかせてはいけないと思っている。
無論、夏織も目の前でそんなシーンを繰り広げられたことがある。文也の顔は見るからに引きつっているのに、百合子はまったく気にしないのだ。
人の顔色を窺うという、日本人に必須のスキルが彼女には備わっていない。また、自分の感情を隠すスキルも。
文也を前にした百合子の顔は、性欲丸出しで周囲をドン引きさせるほどだった。
一回くらい負けて、ホテルに行ったことがあるんじゃないかと疑ったけれど、文也は珍しく、烈火のごとく否定した。
しばらく文也は、掌で顔を覆って考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「夏織さん」
「は、はい」
その目がいつもとは違っていて、夏織の胸を震わせた。おどおどした優柔不断さは、かけらもない。
強い意志を宿した、勇気と男気に満ち溢れた目に見つめられて、夏織は頬が熱くなったのを感じ、思わず手で触れて確かめた。
「明日、百合子さんに僕が直接話す。その後に何かされたら、言ってほしい」
夏織の中の、頼りない男という評価が覆っていく。この男は、こんな表情もできるのか。
「私も一緒にいた方がいい?」
本当に頼っていいのか、上ずった声で尋ねた夏織に、文也は首を横に振った。
「これは、僕が百合子さんをちゃんと拒絶しなかったせいだから。僕が決着をつけるよ」
冷たく突き放すことのできなかったツケを、今こそ払わなければならない。
そう主張する彼は、頼もしい。夏織は肩の力を少しだけ抜くが、不安は拭えない。
あの百合子が、おとなしく振られてくれるだろうか。夏織は文也の手をぎゅっと握った。
「ごめんね。私があんな目立つところで、キスしちゃったから……」
キスシーンさえ見られていなければ、ごまかすことができた。百合子との直接対決を、引き伸ばせたのに。
夏織の謝罪に、文也は途端に真っ赤になって純情を露呈させた。先ほどまでは格好良かったのになぁ、と夏織はがっかりする。
「いや、でも、その……僕は、嬉しかったから、えっと、キス」
「文也くん……ふふっ」
はにかみ戸惑いながらも、文也ははっきりと言った。キスが嬉しいと思ってもらえる程度には、自分は好かれているのだ。
そう思うと夏織もまた、胸に温かいものが広がって、自然と口元を綻ばせていた。
翌朝、出勤してきた百合子を待ち構えて、文也は人目につかない場所へと呼び出した。
はらはらと見守っているのは夏織だけではなかった。昨日の食堂での一件は、思った以上に目立っていたようで、文也と百合子の向かった方向を眺めている人間が多かった。その後、夏織に複雑そうな視線を向けるのもセットである。
始業間近に戻ってきた百合子は、明らかに泣いていましたよ、という風情を醸し出していた。
だが、慰めに行く者はいない。君子危うきになんとやら。
夏織はわずかな罪悪感を抱きながら、周囲と同じように、百合子を遠巻きにしていた。
はあぁ、と大きな溜息をこれ見よがしに吐いた百合子は、首をギギギと動かして、赤く腫らした目を、夏織に向けた。
うっかり直視してしまった夏織は、慌てて背を向けた。見えないが、彼女がまだ自分を睨みつけているのを感じた。視線が突き刺さって痛い。初めての経験だった。
その日は、まともに仕事にならなかった。
住民票を入れた封筒を手渡すのに、何度か落としてしまったし、呼び出しの番号を間違えて、叱られたりもした。
気にしすぎだ。仕事中なのだから、百合子が自分をずっと睨んでいるなんて、ありえない。夏織は深呼吸して、気持ちを切り替える。
窓口の人間は、昼休みにもやってくる市民の対応のために、交代で休憩を取ることになっている。
これ以上、百合子を刺激するのは避けたい。夏織は彼女とも文也とも顔を合わせずに済むよう、外でランチにすることにした。
あと数日我慢すれば、ゴールデンウィークだ。そう思えば、このタイミングでばれたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
休暇中に、百合子も機嫌を直してくれたらいいな、と淡い期待をしながら、公園のベンチにハンカチを敷いて座る。
それにしても、今日は天気がいい。このままのんびり、ひなたぼっこでもして過ごしたいという誘惑に駆られる。
ぼんやりと積極的に現実逃避に励む夏織の向かい側のベンチに、青年が一人やってきて、座った。
夏織は、見るとはなしに彼を見ている。他に動くものもなく、見るべきものもなかったからだ。
彼は夏織が立ち寄ったコンビニエンスストアと同じビニール袋の中から、サンドウィッチとペットボトルのお茶を取り出す。
あ、と思った。それは、夏織が持っているのとまったく同じだったからだ。
別に両方とも、珍しい物ではない。だが、コンビニで扱っている食料品は何種類もある。おにぎりだって、若い男の胃を満足させる、大盛りの弁当だって。
――完全一致する確率って、どの程度なのかしら。
夏織は考えてみたが、学生時代から、数学は得意ではなかったので、すぐにやめた。
青年を観察する目に、好奇心が宿る。細く尖り気味の顎は、肉を噛み切るのには向いていなさそうだ。
それだけ見れば、リアル草食系男子とでも言えるが、夏織は彼の目の中にある、消しきれないギラギラした何かを、敏感に感じ取っていた。
文也からは、ついぞ向けられたことのない、熱いまなざし。
そちらに意識を引っ張られながら、無意識的にペットボトルに口をつける。そのとき、目の前の男もまた、お茶を飲んだ。
「あ」
小さな声が出た。彼に聞こえてしまったか。夏織はぱっと視線を逸らす。動揺した。
試しに髪の毛を触ってみると、ちらと見やった青年もまた、同じことをしていた。やっぱりそうだ。いよいよ確信した。
この男は、私の気を引こうとしている。
爽やかなイケメンだが、この男は見た目以上に女を誘惑する技術に長けている。
探るように見つめていた夏織に、青年はばっちりと目を合わせた。にっ、と唇を吊り上げて微笑みかけられて、夏織は慌てて立ち上がった。
魅力的な男だ。有体にいってしまえば、文也などよりもよほど、夏織の好みに合致した。
フリーであれば、きっと誘いに乗っていた。自分から声をかけて、連絡先を交換していたに違いない。まずワンナイト。相性がよければ、二度三度。
けれど今の自分は、残念ながら、恋人のいる身だった。ただの恋人ではない。プロポーズはまだだし、指輪ももらっていないが、婚約者という立場に近い、男がいる。
後ろめたい気持ちに拍車をかけたのは、震えたスマートフォンだった。文也からのメッセージの着信を通知している。
他の男に気を取られていたというばつの悪さを抱えながら、開く。真っ先に目に飛び込んできたのは、謝罪のスタンプだった。
『ごめん! GWなんだけど、母親が倒れて、実家に帰らなきゃならなくなった』
文章での文也の口調は、多少崩れるようになった。顔を合わせて喋るときには、いまだに時折敬語が混じるのだ。
連休中は、テレビで見た日帰り温泉施設に行こうとか、初めて彼のマンションを来訪したりだとか、そういう二人きりのイベントの計画を立てていた。
だが、母親が倒れたのであれば、仕方がない。
いいよ、と笑顔のスタンプとともにメッセージを送り、ふぅ、と息を吐いた。
視線を目の前のベンチに戻すと、すでに青年の姿は消えていた。
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