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「一番星はポラリス」第7話


1

 店の中は、冷房が効きすぎている。外が暑かったからアイスにしたけれど、ホットにすればよかった。時間が経つにつれて寒くなってきて、私は持ってきたカーディガンを羽織った。

 私とは対照的に、千里子は向かいの席で、平気そうにフローズンドリンクを啜っている。

 ただしその表情は、不服そうだ。誘ったのは千里子の方なのに、なんで不機嫌な顔を見なきゃならないのか。

 相談に乗ったり乗ってもらったりはお互い様だ。千里子の協力なしには、満足のいくうちわはできあがらなかったのだし。

 うちわから連想して、外村くんの顔が浮かんで、チクッとする。コンサートの翌日に電話で話して以降、顔を合わせていない。夏休みだから当たり前なんだけど。

 一応、ファンクラブ会員だけが見られるブログは、二、三日に一回は更新されている。ファンに向けて書かれているので、写真も一緒にアップされる。自撮りは苦手らしく、たまに事故が起きたものも、そのまま掲載されているのがまた、彼らしい味を出している。

「由梨乃?」

 ストローでドリンクを掻き混ぜてぼんやりしていたら、千里子の声にハッと我に返った。

 目の前の親友をないがしろにしている場合じゃない。今日は、彼女の方から誘ってきたのだ。コラボカフェや映画など、オタ活以外で遊びに行こうと言われるのは久しぶりだ。それだけ話したいことがあるのだろう。

「なんでもないよ。それより、どうしたの? 急に呼び出したりなんかして」

 千里子は、「よくぞ聞いてくれました!」という顔で、聞こえよがしに大きな溜息をついた。わざとらしいけど、そういう演技でもしないと、この子は弱音を吐かない。

 最後までフローズンドリンクを飲みきってから、彼女は話し始めた。

「なんか、大学に行かなきゃならなくなった」

 ぶちぶちと唇を尖らせる千里子に、私は目を丸くした。

「え? だって、専門学校行くって、ずっと言ってたよね?」

 入試のために猛勉強する必要はないからと、夏休みは漫画三昧だったという千里子。

「それで持ち込みしたら、ようやく担当さんがついてくれて」
「えっ、すごい!」

 素直に賞賛すると、満更でもない笑みを口元に浮かべて、「ありがと」と言った後、再び大きく息を吐く。

「でもねぇ、その編集がさぁ」

 持っていたドリンクの空き容器が、ベコボコと音を立てて握りつぶされていく。

「とんっでもないクソ野郎でさぁ……!」

 少女漫画の編集部にいるからって、若い女性とは限らない。

 千里子が持ち込みをしたときに見てくれたのは、若い男性だった。表情ひとつ変えずに読み込んで、「なるほど」と言い放ち、千里子に名刺を渡した。

「そのときは嬉しかったんだけど」

 千里子は自信満々に新作のプロットを作り、彼女の言うところの「クソ野郎」に見せた。鼻をひくつかせて、プロットを一瞬で読み終えた彼は、そのまま突き返した。

「『原稿を見たときにも思いましたが、秋月さんには圧倒的に、人生経験が足りていません』だって。あったりまえじゃん! こちとら十代のJKじゃ!」

 何度も話し合ったが、新作は次の段階へ一向に進まなかった。千里子はまだアマチュアだし、向こうはプロ。イライラしながらも、黙って従っていた千里子だったが、先日、彼に進路について口出しをされたそうだ。

『絵そのものやストーリーの組み立てに問題はないので、大学に進んで、勉強やサークル活動に励んだ方がいいです』
『そうですね。あとは、少女漫画でテーマが恋愛なのに、全然ときめきがないんで、もっと恋した方がいいですよ、秋月さんは』

「って、あのクソ眼鏡ー!」
「まぁまぁ、落ち着いて」

 言いつつも、女の子だから恋をしろなんて、セクハラだと私も思う。

 少女漫画だって、今は恋愛モノに限らない。人気があるのは恋愛をテーマにした作品なのは確かだが、部活モノやゆるい日常系など、多岐に渡る。
千里子はどちらかといえば、後者の作品を描きたいのだ。少年漫画が好きだけど、絵柄はそちら向きじゃない。だから、少女漫画誌の中でも、挑戦的な作品が並ぶ雑誌でのデビューを目指していたのだ。

「恋なんて何度もしとるわ! 男は二次元に限る!」

 二次元の男の子との恋愛は、いつもプログラム。選択肢さえ間違えなければ、必ず結ばれることがわかっている。

 リアルな恋愛は、楽しいことばかりじゃない。絶対に叶うことがないと、最初からわかってしまっている片思いに、どう決着をつけるべきかなんて、誰も……漫画だって教えてくれない。

 胸がチクチクするのに耐え、拳を震わせる千里子の肩に手を載せて宥めた。

「しかもあの男、うちの親にまで電話しちゃってさ。親は専門でいいって言ってたのに、ころっと載せられて大学行けって。おかげでこないだの三者面談、大変だったんだから」

 三者面談。

 その四文字熟語に、ドキッとした。私は明後日だ。

 一応、父親に来れないか確認したけれど、渋い顔をして謝られてしまった。仕方がないので、母親と一緒に学校へ行く。

 きっと私の話を聞く気はないし、担任の先生が説得をしてくれるとも思えない。そして私も、あの母と戦う気力があるかどうか。

 夏までにはどうにか! という春の決意も、結局ずるずると来てしまい、予備校にも行けていない。

 憂鬱な気持ちになって、自然と私まで溜息が出てしまう。

 今日の千里子は自分のことで一生懸命なので、私の悩みには気づかない。

 嘆く彼女をよそに、私は適度に相づちを打ちながら、意識を明後日に飛ばしていた。

2

 久しぶりに制服に袖を通した。今日も一日中晴天で、太陽が目を、皮膚を突き刺してくる。

 電車の中でも、母は口やかましかった。

「いい? ちゃんと先生に伝えるのよ。推薦がいいって。この女子大に行くって」
「評定は足りてるでしょうけど、由梨乃は本番に弱いタイプだからね。面接の練習いっぱいしてほしいって頼まないと」

 一切返事をしなかったけれど、母には私が頷いているように見えるらしい。電車が揺れているだけなのに、結局何も見ていないし、わかっていないのだと思うと、悲しいくらい滑稽だ。

 学校に着き、実際に面談室に呼ばれても、予想通りの展開だった。

 母は私の成績表を一瞥してから、指定校推薦枠のある大学一覧を、鬼のような形相で熟読した。

 その間、先生はおっかなびっくり話しかけようとしたけれど、母の気迫に圧倒され、困ったような顔で私を見た。

 助けを求められても、逆にこっちが助けてもらいたい立場なのだ。首を横に振って肩を竦めた私に、生田先生の顔は絶望へと変わった。そういえばこの先生、三年の担任は初めてだったっけ。

 学校と生徒、親と子の同意がすべて得られた状態で三者面談に臨む家庭なんて、ほとんどない。千里子の家は親子喧嘩を経て、先生の説得を聞き入れて決着したけれど、我が家の場合は。

「先生、うちの子絶対に推薦もらえますよね?」

 勢い込んで、身を乗り出す母。一歩引く娘の私。先生は遠慮がちに、「ええ」と小さく頷きながら、

「けれど、田川さんは努力家ですから、一般入試でもっと上を目指すことも考えてみては」

 いかがですか?

 と、最後まで言うことなく、担任は黙らされた。血相を変えた母が、低い声を出したせいだ。

「先生。うちの子には幸せになってもらいたいんです。女の子に余計な学力があっても、不幸にしかなりません。イメージのいい大学へ行って、将来性のある男子学生と愛を育み、何の心配もない家庭を築き上げていってほしいんです」

 女の幸福を結婚だと決めつける古い価値観を、母は大真面目に力説した。担任は呆気にとられ、目を瞬かせるも、面と向かって戦うつもりはないらしい。

 両手を振って、適当に母を宥め、視線だけで「二学期、個人面談な」と伝えてくる。最終的に母を説得するのは私だけの役目なのだ。

 最終的に進路が女子大に定まるのは、構わない。極端な話をすれば、他の大学全部落ちてしまった結果だったら、きっぱりと諦められる。浪人してまで行きたい大学は、今のところないのだから。

 もやもやしているのは、私が何も選んでいないからだ。高校までは限られた範囲での選択だから、悩むこともほどんどなかった。自分の学力に見合った、通うのに不都合がない範囲の普通科の高校。

 けれど、この先は違う。大学に行くということは決めていても、じゃあどこに? という話になると、急に自信を持って宣言することができなくなる。

 やりたいことがない。将来の夢がない。母の「女の幸せ」への志向は強固で、明確な人生の指針がない私が反発したところで、説得力がない。ないないばっかりだ。

 千里子は三者面談で盛大に親子喧嘩を繰り広げたというが、それは彼女が、「絶対に漫画家になる」という強い目標を持って、それに従って行動しているからできること。

 じっと黙って、母の激高をやり過ごしていると、次の生徒の順番がやってくる。母は時計を見ると、ピタッと自らの主張を振りかざすことをやめ、
「それでは先生、これからも由梨乃のことをよろしくお願いします」と、頭を下げた。

 私も一緒に礼をしたけれど、ちらっと窺った先生の表情は、あからさまにホッとしていた。

 あれだけ大暴れした割に、並んで廊下を歩く母親は、穏やかだった。

 私の成績が、十分推薦を受けるに値すると確認できたし、女子大を選ぶ子も少ないと聞き、指定校で進学できると確信したからだろう。

 上機嫌で、「今日の晩ご飯、何にする? ああ、昼ご飯もどこかで食べて帰ろうか。智之は塾だし」と、提案してくる。

「うーん……」

 これがシミュレーションゲームだったらよかったのに。三択で選ばせてくれれば、大きく失敗することもない。母の気に入る回答をしないと、途端に彼女の機嫌は急降下して、黙りこくってしまう。

 かといって何も言わなければ、それはそれで嫌な顔をされるし。

 悩んでいると、向かい側からやってくる親子に気がついた。

「外村くん?」
「おー。田川さんも三者面談やったんや。久しぶり」

 夏休み中に会えるなんて、ラッキー。一学期と変わらぬ制服姿なのに、彼はどこか大人びて見えた。

 母は怪訝そうな顔をしていたが、一応礼儀として、外村親子に一礼した。

「お母さん。こちら、外村大地くん。同じクラスなの」

 値踏みする視線に、芸能界で大人との付き合いが格段に多い外村くんが、気がつかないはずもない。不躾な母の態度に、彼は気を悪くすることなく、
「初めまして」と、微笑んだ。

「外村です。初めまして」
「ああ、どうも……」

 明らかに気のない態度である。そんなうちの母親とは対照的に、外村くんのお母さんは、エネルギッシュにぐいぐいと迫ってきた。

「田川由梨乃です。外村くんには、お世話になっています」
「やぁだ。こんなしっかりしたお嬢さん、うちの息子が世話しとるわけないやないの。どうせ大地の方が迷惑かけてるんやろ?」

 派手なボタニカル柄のワンピースは、高校生の息子がいるとは思えないほど若々しい彼女には、とてもよく似合っていた。

 彼女は自分の息子の頭をぐいぐいと押さえつけて、もっと深く礼をするように強要した。

「いてぇ! やめえって、オカン!」

 外村親子のやりとりは、漫才さながらのテンポの良さだった。思わずクスッと笑うと、隣の母が軽く睨みつけてくる。私に負けず劣らずの人見知りなのだ。一刻も早く、この場を離れたいのだろう。

 けれど、外村くんの母は、空気を読まずに話しかけてくる。

「もう、ちょっと聞いてくれる? 大地、三者面談なんて必要あらへんって言うて、締め切りギリギリまでプリント出さんかったんよ?」
「だって、進学せんのやからいらんやろ」

 遠慮のない母の鉄拳が、外村くんの後頭部にとんだ。自分よりも背の高い息子を、まだまだ幼い子ども扱いである。

「アホか。進学の話だけやなくて、あんたの日頃の生活について知る機会や
ないの!」
「別に、普通やって……なぁ?」

 会話の速度についていくだけで精一杯だった私は、外村くんに話を振られて、目を白黒させて、「ええ」と頷くことしかできなかった。

「ほら、オカン。先生が待っとるから、行くで」
「あら、ほんまやね。それじゃあ田川さん、これからもうちの子、よろしゅうね」
「あ、はい……」

 嵐のように去って行く親子の背を見送り、私は自分の母に、「帰ろうか」と声をかけた。

「あの子、大学行かないの? 専門とか?」
「ううん。外村くんは、芸能の仕事をしてて……」

 卒業後は、芸能活動に専念すると、外村くんは教室でも、堂々と宣言していた。

 昨今は、アイドルでも学歴はアピールポイントだ。クイズ番組の解答者をはじめ、ニュース番組のコメンテーターやキャスターを務める芸能人は、軒並み高学歴だが、外村くんはその路線は選ばなかった。

『勉強するよりも、歌ったり踊ったり、曲作ったりしてパフォーマンスのレベルをアップする方が、俺には向いとる』

 私は彼の選択が間違っているとは思わない。得意不得意を冷静に見極めて、自分の夢に向かって努力すると決意した外村くんのことを、尊敬している。

 やりたいことが明確で、すごいよね。外村くんもそうだけど、千里子も。

 そう続けようとしたが、鼻で笑われた。

「芸能界なんて、水モノじゃない」
「お母さん」

 母は止まらない。

「だめよ、由梨乃。大学出て、あんな高卒男に引っかかったら、意味がなくなるわ」

 まるで私の秘めた恋心を見透かしているような物言いに、ぞっとする。

 母はべらべらと、外村くんたちの悪口を言った。

「まったく、ここは東京なのよ? 下品な関西弁を使うなら、ずっとあっちにいればいいのに。ねぇ?」

 もう、我慢できなかった。

 母は歩き始めていたけれど、私は立ち止まったままだ。しばらく歩いて、後ろをついてきていないことに気づき「由梨乃?」と、ようやく振り返った。

 私はぎゅっと、スカートを握っていた。皺になろうが関係なかった。廊下を睨みつけていた。

「お母さんは」

 振り絞った声は、母には届かなかった。「は?」と、聞き返してくる。

 顔を上げた。目は涙で曇っていたけれど、私はまっすぐに母を見て、続きを口にした。叫んだ。全力疾走したときと同じくらい、心臓が爆発しそうになっている。

「お母さんの方が下品だよ! どうして私の友達の、しかもお母さんのことまで悪く言うの!?」
「由梨乃っ!」

 おとなしい娘、育てやすい娘、言うことを聞く娘だった私の反抗は、母に衝撃を与えた。反応が遅れた母を置いて、私は廊下を全力ダッシュする。

「由梨乃、待ちなさい!」

 声をかけられても、一切振り返らなかった。

 早くひとりになりたかった。涙が頬を伝い、床に落ちて濡らす前に。

3


 完全にひとりになることのできる場所など、一カ所しかなかった。

 うっかり強めに蹴りすぎて、いつもよりも大きな音がした。壊してしまったかと一瞬ひやっとしたけれど、地学準備室のドアは無事だった。

 開かずの教室なんだから、もともと壊れているようなものか。

 そう思い当たって、思わず口元に笑みが浮かぶ。同時に、大粒の涙が溢れる。

 情けない。外村くん親子を見て、悪意を垂れ流す母はもちろんだが、それをしっかりと諫めることができず、言い逃げてしまった私も。

 ひっく、と大きくしゃくり上げる。椅子に座って、顔を覆い隠して泣き続ける。

 他の教室でも面談をしていた。あんな風に叫んでしまって、失敗した。何事かと驚かれただろう。おそらく、外村くんにも私の大声は届いてしまった。

 聡い彼はきっと、私の母親が自分にいい印象を持っていないことに、気づいていた。そこに私の怒声である。おおよその予想はついているだろう。

 私が謝らなきゃ。できれば、彼のお母さんにも。うちの母が態度悪くてすみません、って。ああ、でも私の顔を見るのも不愉快だったりするのかな。

 同じ学校、同じクラスで過ごせるのだって、あと半年あまりしかない。恋心を明かすつもりはゼロだが、友人としての付き合いは続けたかったのに。

 外村くんと、話しづらくなっちゃうな。ただでさえ、二学期は席替えがあって、物理的に離れるのに。

 ぐるぐる悩んで、どれくらい時間が経ったんだろう。

 ドゴン、と扉を蹴飛ばす音がした。慌てて顔を上げて見れば、そう、この部屋を開けられるのは、ひとりしかいない。

「外村く……」
「やっぱり、ここにおった」

 微笑みを浮かべて近づいてくる彼に、くしゃくしゃで真っ赤な泣き顔を見せるのは恥ずかしい。

 顔を伏せて、指で涙を拭うと、「擦ったらあかんよ」と、優しい声と同時に、タオルハンカチが手渡された。

「じ、じぶん、の」

 ハンカチも持っていない女の子だと思われるのは最悪だ。自分のものを使うと主張して、鞄に手を伸ばすけれど、外村くんは強引に、ハンカチを握らせた。

「ええから」

 おずおずと渡されたハンカチを目元に押し当てると、彼は安心したように頷いた。

「気になって、下駄箱見たらまだ帰っとらんかったから、ここかなって」

 そう言うと、外村くんは私の向かいに腰を下ろした。

 言わなきゃ。まだ少し、涙のダメージが残っていて、まともに声が出せるかどうかわからなかったけれど、それでも。

「あ、あの。ごめん、なさい」
「うん?」

 首を傾げ、私の話の続きを促しつつも、ゆっくりと待ってくれている。

「うちの、母、が、失礼な、こと、言った、の」

 彼は、

「なんだ、そんなん気にせんでええのに」

 そう、カラリと笑った。

「ええんよ。慣れとるし」

 特に私が、母が言っていた陰口について告げなくても、なんとなく彼は何を言われていたのか、理解している様子だった。

 大阪にいた時代から、外村くんの周りには、彼の生き方をコントロールしようとする人間が大勢いたそうだ。

「大学行った方がええとか、そんなん散々言われたわ。ま、当たり前やな。芸能界なんて、成功できるんは一握りや。できる限り、保険はかけといた方がええ」
「保険……」

 デビューできなかったとき、あるいはメジャーデビューしたとしても、結果を出せなかったとき、食べていくには芸能の仕事から離れなくてはならなくなる。そのとき、高卒と大卒ではやれる仕事が違うのだ。

「って、生(いく)ちゃんにも言われた」

 彼は頬杖をつきながら、私を見つめる。慈しむ、という言葉がぴったりの眼差しに、頬が熱い。さりげなく、涙を拭くフリで顔を隠した。

「でも俺は、どうしても芸能界でやっていくって決めとるからって、生ちゃんの提案は却下した。大学なんか行くよりも、俺にはもっと必要な学びがあるんや、って」

 外村くんは、自身の失言に気づいたらしく、「あ」と言葉を切って気まずそうにした。

「別に、大学行く人んことを馬鹿にしたつもりはあらへんよ!? ただ俺にとってはあんまり意味のないとこやって……」

 取り繕おうとすればするほど、なんだか安易に大学に進学しようとする人間を非難しているような気になって、焦っている外村くん。少しだけ落ち着いた私は、「わかってるよ」と言う気持ちを込めて小さく微笑んだ。

 安堵した外村くんは、その先の言葉を紡いだ。

「せやから、俺は気にしとらん! もちろん、田川さんが俺んこと見下しとるんやったら、それはべっこりへこむけどな」
「見下すわけないじゃない!」

 言葉尻にかぶせて叫ぶ。それまでグスグス泣いているばかりだった私の剣幕に、彼は「お、おう……」と、わずかに身を引いた。

「外村くんは、私の、私の……!」

 あ、ダメだ。衝動的に、想いが溢れてしまいそう。

 私は一度唇を噛みしめて、抑える。

 好きな人、なんて言えない。言ったら最後、彼は私のことを遠ざける。これまでの友達付き合いなんてなかったことにして、ただのクラスメイトとしての立場を崩さなくなる。

「あ、憧れの人、だからっ」

 言葉の言い換えは成功した。張り詰めていた空気はほどけて、あからさまに外村くんはホッとしていた。やっぱり、告白されると思ったのだろう。友達として好き、は恋に近すぎる。憧れはちょうどいい。

 私はそれから、母との関係について外村くんに暴露した。赤の他人の親子問題なんて、高校生が受け止めるには重すぎる問題なのに、彼は嫌な顔ひとつせず、うんうん頷きながら聞いてくれた。

「それで、私も外村くんみたいに迷いなく自分の進む道を選べたら、明確な理由があったら、お母さんの思い通りにはならないのに、って」

 私が彼のことを好きな理由のひとつに、外村くんは困ってしまったみたいだった。

「うーん……俺も別に、全然迷わんかったわけやないけどなぁ」

 頬を掻いていた彼は、「そうだ」と顔を上げた。

「なあ、田川さん。ちょっと付き合ってくれへん?」

※※※


 職員室に立ち寄ってから向かったのは、音楽室だった。借りてきた鍵を、まるで自宅の扉を扱うように堂々と開錠する。

 特別教室というのは、どこも独特の匂いがするものだ。保健室や理科室の薬品の匂い、家庭科室に残る、おばあちゃんちの夕食時みたいな、どこか安心する匂い。

 音楽室の匂いは、木の匂いだ。グランドピアノをはじめとする楽器や、防音材の入った壁が、他の教室とは違う空気をもたらしている。

 選択芸術が書道の私は、音楽室に入るのは一年生以来だった。

 好きなところに座るように言われて、私は一番前の席に着く。外村くんはといえば、グランドピアノの椅子に座り、「ちょっと待って」と、指慣らしを始めた。

「うちにはキーボードしかあらへんから、部活ないときは借りとるんよ」

 やっぱでっかいピアノはちゃうなあ、と朗らかに言った彼の指は止まらない。座っていると、彼の動きは見えない。スムーズな運指は、耳で捉える。

 ぶつぶつと「こんなもんか」と独り言を言い、彼は咳払いひとつ、喉の調子を調える。鞄の中から折りたたんだ紙を取り出し、開いた。

「あー、あー……うん……そんじゃ、いくで?」

 優しい、ゆったりとしたリズムで奏でられるイントロ。

 流行りの曲に疎いけれど、これは先輩アイドルの曲か何かだろうか。

 でも、それにしては拙いというか、洗練されていないというか。持っていた楽譜も、ちゃんとしたピアノピースではなくて、ぺらっとした紙片だったし。

 そう考えて、ふと思い出した。外村くんは、作詞作曲もできるんだった、と。

 地学準備室で散らばった五線紙のことを思う。

 あのときの曲かもしれない。

 前奏が終わって、いよいよ歌が入る。途端にゆっくりになったのは、弾き語りに慣れていないせいだ。時折ミスタッチがあるものの、止まらずに演奏は続く。

 甘く優しい、そして伸びやかな高音を持ち味とする外村くんの歌声は、バラードによく合うと、コンサートのときも思ったっけ。

「これ、は……」

 美しいメロディラインだけじゃなく、言葉によく耳を傾けてみれば、まさしく私のためのエールに聞こえた。

 ううん、私だけじゃない。

 見えない壁に囲まれて、息ができない。答えのない世界で、ふと立ち止まって振り向いてみると、真っ暗闇しか見えない。

 でもそんな状態でも、前へ。迷いながらでも、手にしたものが答えだから。

 どんな道を選んでも、間違いなんかじゃないのだ、と。

 生きる意味を見失いかけた人、全員への応援歌に、引っ込んでいた涙が再び、あふれ出す。

 ラストのハミングからのビブラートを長く、長く。そして静かな後奏に、ピアノの残響が後を引く。

 陶酔した顔で歌っていた外村くんが、はにかんだ笑みを浮かべて、鍵盤から手を離す。こちらに向き直った瞬間、ぎょっと焦った表情を見せた。

「え、ちょ、またなんで泣いて……!」

 心配して近づいてくる彼は、自分が周囲にどれほどの影響を与えるのか、わかっていない。

 借りたままのハンカチで、私は目元を押さえる。さっきと違って、ポジティブな要因で泣いているからか、すぐに涙は収まった。笑顔を作って、

「ありがとう。これってもしかして、あのとき作ってた曲?」

 そう尋ねれば、外村くんは照れた顔をして視線を外し、頷いた。

「ん。せやけど、ボツんなってな」
「嘘。こんなにステキな曲なのに?」

 事務所のスタッフか誰か知らないけれど、「聞く耳」がないんだな、と思う。

 外村くんの作った曲は、同世代の若者へのエールであり、結局答えを見つけられずに大人になってしまった人たちへの答え合わせであった。

 大人にはわからない曲だ、なんて思えない。外村くんは、「バラードなら、まずは恋愛をテーマにしろって」と言った。

「田川さん。俺だって、最初から本気でアイドル目指しとったわけやない。成り行きで始めたことやったけど、いろいろあって、俺の、俺だけの夢になったんや」

 私は黙って、外村くんの言葉に耳を傾けた。

「今はしっかりした形じゃなくてもええと思う。それこそ、自分の道は自分で選びたいっちゅうのも、立派な夢やろ?」

 そんな風に考えたことはなかった。勉強したい学問だとか、将来なりたい職業だとか、そういうことばっかりに捕らわれて、「今」自分がどうしたいのかを蔑ろにしていた。

「お母さんの言うことを聞きたくないっていうのは、わがままじゃない?」

 外村くんは首を横に振ってくれた。

「田川さんのはわがままやない。成長やろ」
「成長……」

 ぽろり、最後に落ちた雫をそのままに、私は外村くんを驚きの目で見つめていた。

 そんな風に考えたことはなかった。父を支え、一生懸命私たち姉弟を育ててくれた母の言うことを聞けないのは、罪深いこと。だからこそ、説得に十分な材料を必要としていた。

 理由なんてなくてもいいのだ。彼は教えてくれた。それこそ、答えなんてあとからついてくるもの。

 外村くんが、私の頭にぽん、と手を載せた。にっと笑って、私の目を覗き込む。

「大事なんは、後悔しないこと。俺も、あとから『ああすればよかった!』って思いたくなかったから、東京まで来たんや」

 断片的に明かされた上京の理由を突っ込んで尋ねることはできなかった。
 
 わしゃわしゃと頭を撫でまわす手は、犬か猫に対する雑さだ。驚きにわっと声を上げると、彼はようやく、自分自身の行動を顧みて、慌てだす。

「わっ、わ! ごめん!」

 無意識だったらしい。すっかり乱れた私の髪を、謝りながら直していく。見上げる外村くんの顔が、耳まで赤くなっている。

ドキドキしているのは、私だけじゃない。彼も同じだった。

 外村くんは私の手から自分のハンカチを奪うと、代わりに紙を押しつけてきた。

「あげる」

 いつもよりぶっきらぼうなのは、あからさまな照れ隠しだ。

 なんだろうと中身を確認して、頭なでなでと同じくらいの衝撃に、私は慌てる。

「これっ」

 こんなもの、もらえない。

 外村くん直筆の楽譜なんて。彼の字で歌詞も書いてある。外村くんの胸に押しつけ返すと、彼は一応受け取ってくれはしたが、

「田川さんがもらってくれへんかったら、このままゴミ箱にボッシュートんなるだけなんやけど?」

 そう言って、ひらひらと楽譜を見せびらかす。ちらりと送った視線の先には、ゴミ箱がある。

「だ、だめ!」

 外村くんの手から楽譜を取り戻して、胸の前に抱える。血相を変えた私が面白かったのか、冷静さを取り戻した彼は、プッと噴き出した。

「田川さんだったら、大切にしてくれると思って」

 そりゃ、大切にしますよ! 好きな人が心を込めて作った曲だもの。
ラミネート加工する機械を千里子が持っていたはずだから、貸してもらおうかな。ああ、その前にコピーか。何部いるかな。

 楽譜を見つめて唸っている私を見て、今度こそ外村くんは、ゲラゲラと声を上げて笑った。

「ま、煮るなり焼くなり、好きにしてくれや」

 それから、ごく自然な動作で、「ほな、帰ろか」という言葉とともに、すれ違いざまにもう一度、ぽん、と頭に手を置かれた。

「鍵閉めるで」
「っ、はい!」

 あまりにも自然な動作で、もしかして外村くん、慣れている?

 再び混乱に陥った私を、「たーがわさん?」と、呼びつける彼。

 訳がわからないままに、楽譜をきちんと鞄にしまって、私は彼の後ろをついて、音楽室を出た。

4

 ほどよい距離感を保ちつつ、ホームで喋る。私が先に乗り込むときも、小さく手を振ってくれたので、こちらも目を合わせて振り返す。

 友達として当たり前のやり取りなのに、照れくさく感じるのは、さっきの余韻のせいかもしれない。

 ぽーっと思い出しかけて、ハッとして頬を小さく叩く。気持ちを切り替えなければ。

 家に着くと、「ただいま」も言わずに、私は自室に籠もった。

 怒鳴ったり泣いたり笑ったり、それからドキドキときめいたり、忙しい一日だった。だが、疲れたからといって、ベッドにそのまま横たわって夕飯まで居眠り……なんてことはできない。

 机の中身をひっくり返し、これまでの模試の成績表だったり、取り寄せた大学の資料を積み上げた。その中には、母が進学を勧める女子大学のものもある。

 あんまりきちんと目を通せていなかったものもあり、ページを捲って学校のカリキュラムや卒業生の進路などを見比べる。

 そうやって過ごしていると、弟が夕飯に呼びにやってきた。智之の塾は、午前中から行って、夕方には帰ってくる時間割になっている。家族全員で食卓を囲む夕食は、学校のある日だと難しい。

 私は資料を手に、ことさらにゆっくりと階段を踏みしめていく。

 持ってきた資料は、ひとまずリビングの方へ。キッチンに行くと、汗をかきながら母は食事の支度をしている。

 メインはアジの南蛮漬け。それから作り置きのおかずを適当に、皿に盛りつけていく。

 私が来たのをちらっと横目で確認しても、無言だった。今日の学校での喧嘩が自分のせいだとは、ちっとも思っていない態度だった。

 ちょっとでもすまなそうな顔をするかな、なんて思ったのが間違いだった。

 私もまた無言で、出来上がった料理を、テーブルへと並べていった。

 父がシャワーから上がってきたタイミングで、全員が揃った。

「お父さん」

 食べ進めて半分くらいしたところで、呼びかけた。

「どうかしたのか、由梨乃?」

 私は箸を置いた。

「食べ終わってから、お父さんとお母さんに、話があるの」

 まだ本題にすら入っていない。相談をしたいという気持ちを伝えるだけなのに、ドキドキして、今さっき食べたカボチャの煮物が口から出そう。

 真剣な私に、父はすぐに微笑を浮かべた。少しだけ肩の荷が下りて、小さく一口、食事を運ぶ。

 母は黙ったままだった。首を動かすことすらしない。気を遣って父は母に話しかけるけれど、何の反応もない。ただ、私のことを恨みがましい目で見つめるだけだ。

 正直、夕飯の味はよくわからなかった。苦行ともいえる時間を経て、後片づけを済ませた後、熱いお茶を三人分淹れる。弟は塾の宿題をするため、自室へと籠もった。

 まず一口お茶を飲んで、気分を落ち着かせる。興奮して喚くだけじゃ、私の気持ちは伝わらない。とにかく淡々と、冷静に。

 大丈夫。母とふたりきりの話し合いじゃない。中立という立場で、父が私の味方をしてくれるはずだ。

 自分の模試の成績表や、大学案内を取り出した。返却される度に見せてはいるけれど、母はあまり興味がなく、突き返されるだけだったものだ。推薦に模擬試験の結果は関係ないから。

 私はとある大学の合格判定の部分を指して言った。余裕のA判定だ。

「お母さんが受けろっていう女子大、私、受けるよ」

 思ってもいなかったのだろう、母は顔を上げて、私の目を覗き込んだ。

「もしも他のところ全部落ちて、ここしか受からなかったら通う。別に、悪い大学じゃないって思ったし」

 世間的に名が通っていて、就職サポートも手厚い。悪くはない。だけど、私には魅力的に映らないだけだ。ひょっとすると、母の猛プッシュのせいで嫌になっているだけかもしれない。

「でも、やりたいことも特にないんでしょう? なら、結婚するときのことを考えた方が」

 首を横に振る。母の顔は、心なしか青い。

「やりたいことが見つからないからこそ、いろんな価値観の人と出会い、多くの学問に触れられる場所に行きたいの!」

 母が勧める女子大のほとんどは、文学部のみの単科大。あるいは隣接する領域の文系学部しかない学校ばかりだ。

 私はこれまでに出会った人たちのことを思い出す。

 自分の好き嫌いがはっきりしている千里子。クラスの中心にいる金子くん。綿貫さんは美少女だけどドルオタっていうギャップ、真剣にアイドルを推している姿が眩しい。

 そして、外村くん。

 決して交わることがなかったはずの人。高校で出会えたのは奇跡で、彼がいなければ、私はこうやって、母に抵抗しようなんて思わなかった。

 学生数の多い大学に行けば、きっともっと、面白い人たちと出会う。多様な価値観に触れ、時には反発し合ったりして、そうやって私は、成長する。やりたいことを見つけられるはず。そういう四年間を送るのが、今の私の夢なのだ。

 頭の中ではいろいろな思考が巡るのに、口に出すときは拙い言葉に成り下がるのが残念だ。一生懸命に話す私を、父は黙って見守ってくれる。

「私がやりたいのは、いろんな人に会って、話を聞くこと。そして文系も理系も関係なく、知識に触れること。だから、もっと大きな大学、偏差値の高い大学を狙いたい、です。応援して、ほしい」

 ぎゅっと膝に置いたままの手を握りしめる。父は大きく頷いて、「親ができるのは、子どもの進む道を応援して、必要に応じて手を貸すだけだ」と言ってくれた。肩から力が少し抜ける。

 けれど。

「……」

 母は無言で、席を立った。

「お母さん!」

 私の呼びかけを完全に無視して、母は寝室へと逃げ込む。追いかけようとした私を、父が引き留めた。

「お母さんも、混乱しているんだ。あとは任せなさい」
「でも」
「由梨乃」

 母と比較して、何でもお願いを聞いてくれる理解のある父ではあるが、ここぞというときは頑として譲らない。

 じっと見つめ合い、諦めたのは私だった。視線を外して小さく溜息をつき、「よろしくお願いします」と、頭を下げる。

「お父さんとお母さんは夫婦だからな。ちょっと時間はかかるかもしれないが……お前に迷惑はかけないよ」

 そう言って、父は笑った。どうも情けない、自信のなさそうな表情だったけれど、そこも含めて、父なのだと思った。


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葉咲透織(はざきとおる)@いろ葉書房 いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。