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「みんな愛してるから」第二章 百合子⑨

 その後、百合子は病院へ行き、診断書をもらった。だが、課長を通じて下されたのは、警察への通報は待てという命令であった。

 あんな凶暴な女を野放しにしてはおけない。

 百合子は主張したが、上は大きな事件にしたくないのだろう。文也が夏織と百合子の両方を説得して、示談に持ち込んでくれれば、と希望を抱いているのだ。

 だが、事件は新たな局面を迎える。

 病院帰りに買ったスナック菓子を抱え、百合子は自宅でテレビをつけた。ちょうど夕方のワイドショーの時間で、普段見ることのないアナウンサーが、ニュースを読み上げている。

 全国区の番組のため、地元のローカルなニュースが取り上げられることは少ない。ぼんやりと見るとはなしに眺め、一.五リットルのペットボトルに直に口をつけて、コーラを含んだ瞬間、アナウンサーが神妙な顔をして、「次のニュースです。※県S市で……」と読み始めた。

 あら、この街じゃない。珍しい。

『……S市の中心街で、午後二時頃、妊婦が刺殺されるというショッキングな事件がありました』

 夏織による傷害事件以外にも、近くでこんな事件が起きていたなんて。S市の中心街といえば、市役所からそれほど離れていない。歩いて行ける。

「いやだなあ」

 と独り言を言う。それでもまだ、他人事だった。アナウンサーの声とともに、被害女性の名がテロップに載るまでは。

『死亡したのは、古河夏織さん、二十八歳。彼女は妊娠六か月の妊婦で、今月末、二十九歳の誕生日に、婚約者と入籍をする予定でした』

 百合子はショックを受けて、テレビを食い入るように見つめた。アナウンサーは淡々と、しかし興味を煽るように事件を報道する。

 目撃者も多い、白昼の事件だった。犯行時刻から推察するに、百合子を傷つけて市役所から逃走してからすぐである。

 犯人の名前もテロップに流れた。無職・長谷川彰、三十三歳。知らない男だ。

 だが、アナウンサーが「元交際相手」と枕詞をつけたことで、百合子はあの日、夏織と会っていた男の顔を、鮮明に思い出した。

『痴情のもつれが原因とみて、警察は捜査を進めています……』

 テレビから、そう聞こえてきて、百合子は唇を笑み曲げた。

 そうか。やはり、あの男と切れていなかったのだ。どうにかして、男は夏織の住む場所を知った。そして押し問答の末に、殺したのだろう。

 自分の推測が当たっていたことに、百合子は高笑いした。スマートフォンが震えている。きっと、この事件について誰かが連絡してきたのだろう。確認する気にもなれなかった。

 いい気味だと爽快感すら味わっていた百合子だが、コメンテーターの言葉に、笑いを引っ込めた。

『古河さんは、婚約者の男性の目の前で……なんて惨い』

 文也の目の前で殺されたというのか、あの女は。夏織には一切同情しないが、文也があまりにも可哀想だ。

 百合子はスマートフォンを取り上げて、文也の番号を呼び出した。電源が切られている旨のアナウンスがされて、百合子は小さく舌打ちする。

 百合子は胸の内に、使命感が沸き上がるのを感じた。めぼしいニュースがないところに起きた、大事件の当事者だ。メディアに追い回されて、泣くに泣けずにいるかもしれない。

 あなたの力になりたい。慰めてあげたい。抱き締めて、私の胸で思い切り泣いてほしい。

 その気持ちに、打算がないとは言い切れない。弱った男を自分のものにしたい。

 百合子は電話を諦めて、メッセージを送った。

 返信は深夜まで待ってみたが、なかった。


 百合子は夏織の葬儀に参列した。涙は一ミリも流れなかったが、元同僚の突然の死に、参加しないわけにはいかなかった。

 古河の家の両親の隣で、文也は焼香を済ませた参列者たちに、頭を深く下げていた。入籍はまだだったが、一緒に住み、子供も生まれる予定であったから、愛する妻を亡くした夫として、遺族の末席に立っている。

 たった数日しか経過していないが、文也はやつれており、葬儀に参列した人間たちの涙を誘った。

 焼香を終えた百合子は、彼の前で一礼するときに、「辛かったらなんでも話してね」と小さな声で言った。文也の反応はなかった。

 何も聞こえていない様子だった。ほとんど機械的に礼をしているだけで、まだ彼は、婚約者を失ったショックのさなかにいる。

 席に戻り、百合子は夏織の遺影を睨みつけた。

 文也の心を、この女はあの世に連れて行ってしまった。

 焼香の際に、大号泣している女がいた。ごめん、私のせいで、と叫んでいた。職場の人間ではないから、夏織の友人だろう。私のせい、とはどういうことだろうか。

 聞いてみたいと思ったが、彼女はあまりに錯乱していて、話にならないだろう。

 結局、その女には近づくことすらできないまま、葬儀は終わり、百合子は帰宅して、喪服を脱いだ。

 邪魔な夏織は、幸運なことに消えた。あとは文也の心の傷を癒し、彼のすべてを手に入れるだけだ。なのに、どうしてこんなにもやもやするのだろう。

 部屋着に着替えるのも億劫で、下着姿のまま、百合子はベッドに寝転んだ。身体は疲れているが、線香の独特な匂いが沁みついて、頭は妙に冴えている。

 百合子は傷痕に触れた。夏織が殺されるという大事件が発生してしまったため、彼女が起こした傷害事件のことは、百合子以外は皆、忘れてしまった。

 あの日のことを思い出す。鬼気迫る夏織の表情にぞっとした。本当なら、今日葬儀が行われるのは、自分だったかもしれないのだ。大ぶりなカッターは、殺傷能力が充分にある。百合子は震えた。

 ぎゃあぎゃあと喚いている言葉の半分くらいは、興奮のしすぎで何を言っているのかわからなかったが、一つ気になる単語があった。

 手紙。そう、手紙だ。あの女は確かにそう言った。

 お腹の中の子供は、文也の子ではないというのはただの中傷文だ。だが、夏織は一笑に付すことができず、心を病んだ。

 いったい誰が? 

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葉咲透織(はざきとおる)@いろ葉書房 いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。