「みんな愛してるから」第一章 夏織⑧
七月に入り、夏織は退職した。手渡された花束は、皆がカンパして購入したものだと言っていたが、その「皆」の中に、百合子は入っていないだろう。ありがたく受け取った。
それにしても、悪阻がこんなに辛いなんて思わなかった。退職して本当によかったと思う。
市役所には多くの人間が訪れる。彼らの体臭が混じり合った臭いは、夏織の喉を胃液で焼くのに十分な破壊力だった。
そんな状態だったので、互いの両親に挨拶に行くのは、遅くなった。
古河家は特に問題なく、ひとり娘の結婚は了承された。「娘はやらん!」なんてドラマみたいな展開はなく、終始和やかであった。
母に至っては、「肩の荷がようやく下りるわ」だ、そうだ。
そして今日、バスに乗ってやってきたのは、文也の実家であった。
ひとりならバスと徒歩で帰省するが、文也は夏織を気遣って、タクシーを使った。
「ここ?」
夏織が不安な目を文也に向けてしまったのも、仕方がなかった。
高い塀でぐるっと囲まれた浅倉家は、「屋敷」とか「邸宅」と言った言葉がふさわしいものだった。
夏織は古河家の慎ましい一軒家を思い返した。両親がやっとの思いで購入したマイホームだが、文也はあの家を見て、どう思ったのだろうか。粗末だと感じなかっただろうか。
「そうだけど……どうかした?」
「ずいぶん大きいな、と思って……」
劣等感を覚えているのだと気づかれないように気をつけて、夏織は答える。文也は「なんだ、そんなこと」と笑った。
門扉を開けて塀の中に足を踏み入れると、一軒だと思っていた邸宅の脇には、もう一軒、少し小ぶりなサイズの家が建っていた。
「母屋はもともと、祖父母が暮らしていてね。僕ら一家は、こっちの離れに住んでたんだ」
祖父母はすでに亡く、生前贈与などを駆使して節税に努め、ぎりぎりこの邸宅を維持しているのだと言う。
「広いだけのボロ家さ」
文也は勝手知ったる実家だからと、チャイムを押さずにドアに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
「母さん、ただいま」
玄関先で大きな声で呼びかけるが、応答はない。夏織は隣に立つ文也の顔を見上げる。夏織の父に挨拶をしたときとはまた違う緊張が、彼の表情からは見てとれた。
家のサイズに見合った長い廊下の先は暗く、気分のいいものではない。大きな家であればこそ、そこに温かみがなければ、恐ろしい。将来家を建てるときには、心がけておこう。現実逃避に、明るい未来のことを考える。
文也はもう一度だけ、「母さん」と奥に呼びかけるが、反応はなかった。諦めて、勝手にスリッパを取り出した。
ぺたぺたと廊下を歩く。掃除は行き届いてはいるが、やはり薄暗い、じめじめとした印象は拭えなかった。
最奥はトイレと風呂場だと教えられ、文也は途中にある部屋の襖に手をかける。いよいよご対面だ。夏織は勇気をもって、顔を上げた。
部屋の中の暑い空気が、むわりと押し寄せた。途端に、気持ち悪さが込み上げて、夏織は小さく呻き、よろめく。文也が察して、腰と背を支えてくれたので、倒れることはなかった。
七月の半ば、夏はぐっと気温が上がるこの街で、文也の母はエアコンもつけずに、扇風機だけで過ごしていた。
さすがの文也も我慢できなかったようで、怒った口調で「母さん! 冷房つけろって言ってるだろ! こないだ倒れたばっかりなんだから……」と言いながら、壁に設置されたエアコンのスイッチを入れた。
文也の母親は、夏織たちの方を見ようともせずに、テレビをずっと見ていた。バラエティ番組だったが、にこりとも笑わない。
おそらく、テレビが見たくて見ているわけではないのだ。夏織のことが気に入らなくて、目も合わせたくない。ただ、それだけなのだ。
早速の嫁姑問題にぶつかって、夏織は気づかれぬように嘆息する。救いは、文也が母親と妻の両方にいい顔をしようとする、愚かな男ではないということだった。
テーブルの上に投げ出されたリモコンを取り、文也はテレビの電源を切った。元の位置に戻さずに、自分の手元に持ったまま、彼は畳に腰を下ろす。夏織も倣って、彼の隣に正座した。
ようやく母は、自分の息子に目を向けた。若い頃はきっと美しかったのだろう容貌は、皺とシミによって衰えている。
年齢は、夏織の母親と同じくらい。皺もシミも等しくあるが、決定的に見た目の年齢が違っている。
文也の母親を醜悪に見せているのは、老いではなく、文也を軽蔑し、夏織を値踏みするような、卑しい目のせいだ。
「お前に言われなくたって、自分の身体のことは自分で面倒見られるよ」
彼女はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。ぴたっとしたシャツのせいで、肉が段になっている。
台所に引っ込んだ母親が持ってきた麦茶のグラスは、自分一人のものだけだった。
息子を自分から引き離す夏織を疎んじるのならば、わかる。だが、文也まで冷遇される理由がわからなかった。
文也は母の行動に呆れたのか、とっととやるべきことをやって帰ろうと決め、夏織の紹介をした。
「こちら、古河夏織さん。僕たち結婚するから」
「か、夏織です。これ、心ばかりの物ですが……」
この日のために悩んで購入した、和菓子の箱をテーブルに置いた。がさがさとその場で豪快に包みを開けると、彼女は面白くないという顔で、麦茶を飲み干す。
「羊羹、ねぇ。年寄りには和菓子でも与えときゃいいって?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「母さん! 何を持ってきても文句言うくせに、いつも結局全部食べるんだから、黙って」
何を手土産にすべきか文也には相談したのだが、どうせ何を持って行っても同じだから、好きな物にすればいいと言われた。そのときは、なんて頼りにならない人なんだろうと思ったが、彼の言葉は事実しか述べていなかったのだ。
息子の苦言を痛くもかゆくもないという顔で聞き流して、彼女は実際には、羊羹の箱を夢中で見つめている。
「とにかく、もう結婚することは決まってるから。お腹に子どももいるし。それだけ言いにきたんだ。もう、帰るよ」
一分一秒でもこの家にいたくない。夏織が文也の服の裾をぎゅっと掴んで引っ張ると、彼も頷いて、立ち上がった。
文也がリモコンをテーブルに置くと、彼女はすぐに、テレビをつけ直した。
冷房はようやく利き始めたところだったが、一刻も早く立ち去りたい。
部屋を出ようとした夏織たちの背に、母親の声がかけられた。
「離れには、行くんじゃないよ」
と。
文也は唇の一方の端を持ち上げて笑った。彼がそんな表情を浮かべるなんて、珍しい。
母親だけではなく、文也の方にも何らかの屈託がある。
当たり前か。自分を愛さない母に、無償の愛情を向けられるほど、彼は無力な子供ではない。自立した大人だからこそ、自分の母親を批判することができる。
「行かないよ」
そう言って廊下に出ると、文也はぴしゃりと襖を閉めた。
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