「一番星はポラリス」第8話
1
残りの夏休みは、散々だった。
母と娘の冷戦状態。最低限のことはしてくれるけれど、私が話しかけようとすると、さっと逃げる。
父に聞いてみたけれど、肩を竦めるばかり。
「お母さんは、由梨乃のことを自分の分身だと思っているからね」
確かに顔はよく似ていると言われる。自分が幸せだから、娘にも同じ生活を送ってほしいのだという。
だから、初めての反抗や自分との価値観の相違に戸惑っているのだ。 父はもう少し時間をくれと言った。
私は母にも、私の考えを理解して、応援してほしいと思う。母の説得は父に任せ、私はとにかく、勉強をするだけだ。
そして新学期、九月になるとはいえ、まだまだ真夏の気温が続く。
朝から太陽にじりじりと焼かれ、ぐったりしながら学校へ。教室にエアコンは一応ついているけれど、あんまり涼しいと思ったことはない。
久しぶりに会うクラスメイトたちは、夏休み前よりもさらに、分断されていた。
三者面談で、いよいよ進路がそれぞれに定まりつつあるためだろう。推薦入試組と一般入試組での温度差がある。お互いにお互いを無視する形になっていて、家も学校も冷戦だな、と溜息をついた。
そんな中でも、外村くんは一服の清涼剤のようだった。
「田川さん、おはよ」
「おはよう」
連絡先を知らないのだから当然だが、外村くんと会うのはあの日以来初めてだ。彼の顔を見ると、私のためだけに披露された弾き語りを思い出して、にやついてしまいそうになる。
少し唇を噛んで正気に戻ると、外村くんが心配そうにこちらを見ている。変な顔してたかな。ポーカーフェイスを気取ってにっこり微笑み返す。
「あー。田川さん、その、大丈夫?」
最後に会ったときに泣いていたから、外村くんはそわそわしながら聞いてきた。
大丈夫、とは言いがたい家の状況だけれど、笑って「大丈夫」と答える以外にできることはない。外村くんと我が家の事情は、関係ない。
「私のことなんかより、外村くん」
「ん?」
こういうときは話を変えるに限る。咳払いをして、改まって話し始めた私に、彼の意識が逸れる。
「ドラマ出演決定、おめでとう!」
つい数日前、秋クールに放送される学園ドラマにレギュラー出演することが発表されたのである。
少女漫画が原作で、訳アリで男装して男子校に通うことになってしまったヒロインの話だ。外村くんが演じるのは、主要キャラのひとりで、大阪出身の底抜けに明るい青年。
「いや、まあ、ナチュラルボーン関西弁ってだけで選ばれたんやけど」
なんて謙遜するけれど。
「でも……やっぱ、素直に嬉しい。ようやく認められたんやって」
「外村くん……」
ぐっと握りしめた拳を見つめる彼の目は、決意に燃えている。掴んだ仕事、それだけじゃない。その先を見据える瞳に、息をのむ。
一番近いところで見ていられる特権。隣の席だから、そんなに不自然じゃない。
でもそれも、あと少しで終わり。始業式の後に、席替えが待っている。くじ引きで偶然、再び隣の席になる確率ってどれくらいのものなんだろう。数学は苦手だから、計算できない。
「あ、せや。その件で田川さんに頼みたいことあってんけど」
「え? 何? 私にできることなら……」
ぼんやりと感傷に浸っていた私の意識を引き戻すのもまた、外村くんだった。
彼に頼られるのは、やっぱり嬉しい。ただのファン、ただの友達じゃなくて、他の子よりも特別な気がする。
外村くんは、頼み事をなかなか口にしなかった。そわそわと落ち着かない様子の彼を、じっと辛抱強く待つ。
ようやく口を開いた彼の頬は、少しだけ赤い。
「原作の小説版、持ってへんかな? ほら、前に会った幼なじみっちゅう……秋月さん、やっけ? あの子漫研らしいやん。心当たりないか、聞いてみてほしいんやけど」
原作漫画が完結したのは、かなり前のことだ。ノベライズ作品に関しては、あまり売れなかったせいか、電子書籍にもなっていない。かといって中古で買うには、値段が高騰している。
普通の人は漫画だけでも十分だと考えるだろうけれど、人一倍プロ意識の高い外村くんである。小説版も読んで、キャラの造詣を深めようとしているのが、彼らしくて、好きだなあと思う。
「小説版なら、千里子に頼まなくても、私が持ってるよ」
実は原作のファンなのだ。
「ほんまっ?」
感謝の気持ちが衝動的に露わになった結果、外村くんは私の手を握った。
うわっ!
青年らしく骨張った手が、ぎゅっと強く私の手に密着する。芸能人とファンの感覚での握手では、決して叶わない密度である。
一瞬にして汗が噴き出すのを感じた。外村くんに手汗、バレてないかな?
真っ赤になってもじもじしていると、ようやく彼は、自分の行動に気づき、手を離した。
「ご、ごめん!」
外村くんの頭の中が、手にとるようにわかる。私も同じで、音楽室や地学準備室での記憶が一気に蘇ってきたから。
私はふるふると首を横に振って、「それじゃ、すぐ持ってくるね」とだけ約束をした。彼はとても嬉しそうに頷いた。
「大地ー。ちょっと」
「おん。今行くー」
外村くんが隣のクラスの男子に呼ばれ、彼の意識から完全に私が外れたその瞬間を狙って、背後から忍び寄るのは、
「たーがーわーさーん?」
地獄の底からの呼び声。
「わ、綿貫さん。久しぶり!」
彼女とは、コンサートの日以来、ご無沙汰だった。連絡は取り合っていたけど。変わらず美少女だし、アイドルオタクの過激派でもあった。
綿貫さんは私の首に手を回した。
「なーに話してたのかしらぁ?」
外村くんに手を握られたのは、バッチリ見られている。きゅっと絞まる感覚に、腕を叩いて「ギブアップ」の意志を見せ、洗いざらい白状する。
話の内容的に、外村くんのアイドルイメージを損なったりとかではないから、許してくれるはず。たぶん。
「……ってわけで、本を貸す約束をしただけ!」
「ふぅん」
唇を尖らせて、ようやく綿貫さんは私を解放してくれた。ホッと息をつき、私はさらに言い募る。
「心配しなくても、外村くんは私のことなんて、なんとも思ってないから、手を握ったりできたんだよ。ただの友達だもん」
強く言葉に出して、自分に言い聞かせる。彼は気を許すとひとたび、スキンシップが多くなるタイプの人間だと。特別な意味はない。
期間限定の関係を、波風立てずに過ごさなければならない。外村くんの、これからの輝かしいアイドル人生のためには。
笑っても泣いても、あと半年。気づいてしまった恋心を伝えて、困らせるつもりはない。友達として、ファンとして、クラスの中で支えることができたら、それで満足だ……。
「本当にそれでいいの?」
「え?」
意味深なセリフとともに、綿貫さんは私をきつく睨み下ろす。仲良くなってからは、割と愉快な一面ばかり見ていたけれど、彼女はそもそも、苛烈な美少女であった。
思わず固まる私に、
「自覚ないなら、それでもいいけど?」
と、綿貫さんは言い捨てた。
タイミング悪く戻ってきた外村くんは、私たちの間の微妙な空気を感じ取って、「なんや。またいじめられとんのか、田川さん?」と、微妙に失礼なことを言って、交互に視線を向けた。
「私が田川さんのこと、いじめるわけないでしょ!」
そう言って、綿貫さんは自分の席に戻っていく。不機嫌に肩を怒らせた彼女の後ろ姿を見送って、外村くんはこっそりと、私に耳打ちをした。
「前科あるくせに、なぁ?」
春の呼び出し事件のことを言っているのだろう。さすがにあれを前科というのは重すぎる。私は苦笑いとともに否定しつつ、綿貫さんの席をちらりと見やった。
友人グループに囲まれて微笑む彼女はいつも通りだったけれど、どうしても去り際の一言が気になって、私はその日一日、綿貫さんのことしか考えられなくなった。
2
「あのさあ、田川さん。大地のこと、好きだよね?」
呼び出されたいつもの裏庭。日陰からはみ出さないように小さくなって、ペットボトルの麦茶を飲んだら、急にそんなことを言われたものだから、噴き出しそうになった。
「……は」
うまく否定ができなかった。そんなことないよ、とへらへらするが、彼女はまったく笑っていない。
「嘘つかなくていいから。責めたいわけじゃないの」
真剣な瞳に、私はどうしたらいいのかわからない。
なんで?
私だって、気づいたのは最近なのに。
そっと首を動かす。息を詰めていた彼女は、はーっと息をついて、掴んでいた力をやや緩めた。離してくれないのは、いまだに逃げると思われているからだろうか。
「好き、だけど、綿貫さんが恐れている事態にはならないよ」
この想いを伝えるつもりはない。振られるのがわかっている、勝率ゼロパーセントの勝負を仕掛ける意味はない。私が彼女の嫌う「匂わせ女」になることは一生ない。
だから、離して。
じっと見つめると、渋々綿貫さんは、私から手を引いた。
「なんでそう、卑屈になるかなあ」
卑屈になんてなってない。事実として、外村くんは誰とも付き合わないと公言している。
淡々と告げる私に、綿貫さんは「だーかーら」と、頭を掻きむしった。長い髪の毛が、サラサラと流れていくのを、ぼんやりと見送る。
「あなたなら、たとえ大地と付き合ったって、絶対匂わせたりなんかしないでしょ? アイドルの大地のことも好きなんだから」
「それはそうだけど……でも、好きなんて言えないよ」
想像してみる。
例えば地学準備室、二人きりになった瞬間。
『好きです。付き合ってください』
何のひねりもない告白。私の中に、愛の語彙はほとんどない。何せ、本気の恋は初めてだった。飾った言葉は、漫画や小説からの借り物に過ぎない。そんなの、私の本当の気持ちじゃない。
私の告白に、外村くんの顔が歪む。わかりきった答えを告げる。
『俺はアイドルやから』
すでに一度、そうやって断っている姿を直接見ているし、綿貫さんと一緒にいるときにも宣言されている。それなのに自分の恋愛感情を優先して、今の友人関係を壊そうとする私を、外村くんはどう思うだろう。
他の人たちに対してと同様、笑って断ってくれればいいけれど、「何回言わすねん」と、苛つかせてしまうかもしれない。
怖い。私が彼に「好き」と言うことで変わってしまう何もかもが、怖い。
私の顔色を見て、綿貫さんはいろいろ悟ったに違いない。深い溜息とともに、頭を撫でられた。
「恋人として付き合えなくたって、想いを伝えることで変わるものだって、あるわよ」
変わるもの? そんなの、必要ない。今までが全部プラス方向への変化だったからって、これからもそうとは限らない。それなら、このままでいい。
ちょっとしたことでドキドキする。そういうスパイスだけで、お腹いっぱいだ。
「私は大地たち、アイドルのファンだけど……あなたの友達でもあるんだからね」
「え?」
聞き返した私のことは無視して、「言いたいことはそれだけ。じゃ、帰るわね」と、綿貫さんは早口に速足で、裏庭から出ていこうとする。その耳の端が赤いのは、さて、暑さのせいだけか。
要領のいいことに、彼女は鞄を持ってきている。私もそうすべきだったと後悔していると、綿貫さんが振り返った。
「あ、そうだ。大地、教室で田川さんのこと待ってたよ?」
「待ってるってなんで……あ」
そうだ。ノベライズ版を貸すのに、持ってきたんだった。さすがにクラスメイトたちの前で、いかにも「少女向け」という表紙の文庫本のやりとりをするのは、袋に入れてあるとはいえ、恥ずかしいだろうという気遣いのもと、まだ渡していないのだった。
時計を確認すると、すでに四時を過ぎている。
「そういうの、早く言って!」
言い捨てながら、私は速足で歩き始める。誰も見ていないから、廊下を走ったっていいのだけれど、優等生で通っているという自尊心が邪魔をする。
ようやく辿り着いた教室。放課後、部活やバイトや予備校に散り散りになったクラスメイトはいない。中に入ろうとして、私は外村くん以外に人がいることに気がついて、手を止めた。こっそりと扉についた小窓から、中を覗く。
女の子だった。俯く顔の加減からいって、これは紛れもなく、告白シーンである。
私、なんでこんなに間が悪いんだろう。二度も出くわすなんて。しかも、自分の好きな人が告白されている場面である。気まずいどころじゃない。
廊下からは、女子の顔が見えない。外村くんも私にギリギリ気づいていない。しゃがんで隠れ、扉にもたれかかる。
音楽室のような高い防音効果はない。中の会話は、よほどのひそひそ話でもなければ、丸聞こえであった。
すでに告白は終わっていたらしく、聞こえるのは外村くんの声だけ。
「気持ちを伝えてくれたんは嬉しいんやけど、ごめんな」
優しい声音の関西弁が、やんわりと拒絶する。
普通の子は、この時点で振られたことを受け入れて、踵を返すものだが、今日のお相手の女の子は、どうも様子が違った。納得がいかない、というのを隠さず、堂々と「どうしてですか?」と言い放ったのである。
どうしてもこうしても、外村くんはアイドルだからだ。それ以上でも以下でもない。常日頃から彼女が欲しいと嘆き、告白されたら、好みであればYESと返す男子とは違う。綿貫さんですら、可能性はゼロだと言い切るのだ
から。
「ばれなきゃよくないですか? 私、隠しごと得意ですよ」
振られてもめげない少女は強く、タフだった。
「先輩、恋愛ドラマとか出たりするでしょ? そのときに、恋愛経験のひとつもなかったら、上手くできないかもしれないじゃないですか。私を練習台にしてくださいよ」
自らを踏み台にしろと言ってのける彼女は、綿貫さん以上の自信家だ。仮のお付き合いでもいいから始めれば、外村くんを夢中にさせてみせるという気概が、声から感じられた。
「試しに付き合ってみませんか? 一ヶ月付き合ってダメなら、別れてもらってもいいんで」
なんだか、イマイチ真剣味が足りない。一時の関係がステイタスに通じるとでも思っているような、自己満足に巻き込もうとしている。
いっそのこと、何も気づいていないフリで踏み込んでやろうか。
「それとも、他に好きな人でもいるんですか?」
立ち上がった私が、実行に移さなかったのは、「好きな人」のフレーズに反応した、外村くんの返答のせいだった。
「せや。付き合うことはできへんけど、好きな子くらいはおる。少なくとも、見ず知らずの君でないことは、確かやな」
好きな人が、いる。
初耳の情報に、頭が真っ白になった。
そうだ。恋人を作らないと決めていることと、恋心を抱かないということは、イコールではない。当たり前の事実を忘れていた。
外村くんは、誰かに恋をしている。決して叶わぬ、いや、叶えてはいけない恋。
どれだけ我慢しているだろう。どれだけ苦しいだろう。私が抱くのとよく似た、けれど全然違う胸の痛みを抱えて、外村くんは笑っている。
呆然としている間に、もう一方のドアから少女は出て行った。外村くんと、その後何をやりとりしたかは知らないが、走り去っていく足音で、我に返った。
小窓を通して外村くんと目が合ってしまった。一瞬気まずい顔をした彼が近づいてきて、扉を開ける。
「……見てた?」
私は咄嗟に、首を横に振った。
「今来たばっかりだから。ごめんね、待たせちゃって」
と、嘘をつく。ごまかすために、慌てて私は、自分の机の中から、文庫本が三冊入った巾着袋を取り出した。中身を見せて、
「二冊目だけでも読んで。外村くんがやる、三上(みかみ)蓮(れん)が主人公の話だから……」
そう、目も合わせずに説明した。すぐに帰ろうとするが、外村くんに手首を掴まれてしまって、できなかった。
「やっぱ、見てたやろ?」
まっすぐな目に射貫かれる。蛇に睨まれたカエル。外村くんは蛇とは似ても似つかないけれど、他に上手い例えが見つからない。
追及の目は、瞬きひとつしない。竦んで、私は小さく頷くことしかできなかった。
「で、でも、私には関係のない話だから……」
語尾が小さく掠れた。
外村くんの、片恋の相手。それはきっと、私の知らない誰か。
彼の世界は、私と違って、広い。大阪時代の友達、仕事で知り合った芸能人。
少なくとも、彼のお相手は、私とは重ならない世界の人に違いないのだ。
「いつか、好きって言えたらいいね」
なんて、心にもない慰めの言葉を口にする。本当は、誰かに愛を囁く外村くんなんて、ドラマや映画の演技ですら、見たくもない。
手首を掴んでいた外村くんの力が緩んだ隙に、さりげなく振りほどく。こんな場面、誰かに見られたら大変だ。
「……せやな。いつか」
眉根をぎゅっと寄せて、痛そうな顔をする彼に、私はぎこちなく、微笑みを浮かべてみせた。
外村くんは瞬きで情けない表情を打ち消して、その後、いつも通りの笑顔になった。
「んじゃ、駅まで一緒に帰ろか」
「……うん」
友達の距離感。けれど、心の距離はそれ以上に開いたと感じる。
私たちは貸した本の話でさっきまでの空気をごまかしながら、教室を後にした。
私が変えたくないと思っても、変わってしまうものがある。好きと言えなくたって……。
もう二度と、彼の手が私に触れることはない。
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