見出し画像

「みんな愛してるから」第一章 夏織⑨


 家の外に出ると、文也は「行かない」と言った離れに、どんどん近づいていった。

「ちょ、ちょっと! いいの? お義母さんに怒られるわよ?」

 このセリフも母親に聞かれたらアウトだ。夏織は声を潜めて、文也の行動を咎めた。だが、文也は「いいんだよ。こっちがもともと実家なんだから」という理屈で、こちらも鍵のかかっていない離れのドアを開けた。

 家に上がり込み、迷うことなく彼は、二階へと向かう。急な階段に夏織が閉口していると、文也は察し、「君はそこで待ってて」と言った。

 軽快な調子で階段を下りてきた文也の腕の中には、アルバムが数冊あった。卒業アルバムの類ではなく、家族のアルバムだ。

 アルバムを広げながらの文也の話を聞けば、彼がこの家に住んでいたのは、約二年と短い期間であったことがわかる。都内の大学に進学した文也は、寮生活を送った。

 その後、就職してこちらに戻ってきたのは、家族のためだったが、彼はマンションで一人暮らしを続けた。その理由も、あの母親を見ていれば、よくわかった。

 現在、この離れには、大学生の弟が一人で生活している。

 年の離れた弟のことを話す文也の表情は、母親を相手にしていたときとは異なり、明るかった。仲のよい兄弟なのだろう。

おさむは大学で、コンピューターを使って人間の脳の働きだとかの研究をしてるんだ。僕にはよくわからないけど、理系の心理学って感じかな」

 弟の通う大学は偶然にも、夏織の母校でもあった。学部が違うし、新設の学部のために聞き覚えはなかったが、こじんまりとした大学なので、キャンパスは一つしかない。

 懐かしい話が聞けるかもしれない。そう前向きな発言をした夏織に、文也は表情を曇らせて、首を横に振った。

「理は人見知りなんだ。特に、女性に対しては」

 どうやら浅倉家で人当たりがいいのは、文也だけらしい。彼は慌てて、「まぁ、母さんほど感じ悪くはないけれどね。君のことを話したら、ちゃんと『おめでとう』って祝ってくれたから」と付け足した。

 その理の姿はなかった。リビングは冷房がつけっぱなしだったので、きっとコンビニにでも行っているのだろう。

 文也がめくったアルバムを、夏織は興味津々に覗き込む。

「わぁ、可愛い」

 あの母親が、きちんと息子の写真を整理しているのか気にかかったが、幼い頃の写真は、きちんとアルバムに収められていた。

 手書きで「文也、生後六か月」と丁寧にキャプションも書かれており、ふくふくした美味しそうな頬っぺたの赤ん坊に、夏織は目を奪われた。

 お腹の中の子も、この子のように可愛くあってほしい。腹を撫で、切に願う。

 そしてふと、会っていない家族の存在に、夏織は気がついた。幼稚園の入園式や卒園式、小学校の入学式のときに、めかしこんだ文也の隣に立っている、今の文也によく似た男性の姿だ。

「あの、文也くん」
「うん?」

 写真の中の男性を指して、思い切って尋ねた。

「お義父さまは?」

 言ってから、後悔した。それまで懐かしい思い出に目を細めていた文也の顔が、明らかに強張った。地雷だった。

 ごめんなさい、と謝ると、彼はふっと息を吐いた。

「ああ、いや、いいんだ。話してなかったよね。ごめんね」

 力ない笑顔で語られた真実に、夏織は言葉を失った。

「父親は、僕が高校生、理が小学校のときに行方不明になってしまってね」

 姿をくらましてから七年経つと、失踪宣告が適用され、死亡したことにできる。その期限はゆうに過ぎていて、文也の父親は、すでに亡き者となっていた。

「樹海の近くに車が捨てられていたらしいから、たぶん、そういうことなんだと思う」

 なんて言葉をかけていいのかわからずに、夏織はアルバムに目を落とした。

 息子の晴れ姿に誇らしげな笑みを浮かべている男性は、誠実そうで真面目そうで、決して自ら蒸発するような人には見えなかった。いいや、真面目だからこそ、ということもあるのだろうか。

 しんみりとした空気に、無言でアルバムをめくり続けていると、ちょうど弟の理が生まれた辺りの年齢で、文也の写真が激減したことに気がついた。

 単独のものはゼロになり、理と一緒に映っている写真しか、残っていない。小学校の卒業式の写真はなく、そもそも式自体がなかったかのような扱いだ。理の写真は、直近の大学入学式まですべて揃っているので、なおさら違和感がある。

 母親のあの態度にも、少し納得がいった。勿論、許されることではないと思うし、理由も想像つかないが、彼女はとにかく弟にのみ愛情を注ぎ、兄である文也のことは受け付けなかったのだ。

 おそらく、夏織が離れに足を踏み入れることを嫌がったのも、愛する次男と得体の知れない女が、顔を合わせるのが気に入らなかったからだろう。

「お父さんは、文也くんに優しかった?」

 ぽつりと尋ねると、文也は寂しそうに微笑んだ。そうだね、と言ったきり、黙りこくる。

 切なさと愛しさが込み上げてきて、夏織はぎゅっと、文也に抱きついた。初心うぶな彼は、「か、夏織さん!?」と上擦った声を上げたが、夏織は彼の着ているシャツに、顔を擦りつけた。

 自分を可愛がってくれた父親が失踪し、弟ばかりを愛する母親の元に残されたとき、彼はどんなに悲しかっただろう。心細かっただろう。

 高校生は、大人じゃない。まだまだ子供だ。

「幸せな……幸せな家族になろうね」

 きっとなれる。文也が相手なら。

 腹に手を当てながらの夏織の言葉に、彼は「うん」と頷いた。手を夏織の頭に載せて、子供をそっとあやすように、優しくぽんぽんとリズムを取った。

「……ちょっと」

 聞き慣れない声に、夏織は文也から離れて、顔を上げた。

 部屋に突如現れたのは、文也よりも背の高い男だった。ぬぼーっと突っ立っている様子に、夏織は背筋に冷たいものを感じた。

「兄さん、ここでいちゃつくのやめてよ」

 文也への呼びかけで、この青年が彼の弟の理だということが判明する。悲鳴を上げるのをとっさに我慢してよかったと思った。

 溺愛する弟を不審者扱いして、文也の不興を買いたくない。

 ぼそぼそと早口なのは、典型的なオタクの特徴だ。前髪は長く、目を隠している。ファッションではなくて、ただ美容院に行くのが面倒なせいだということは、一目瞭然だった。

 背筋を伸ばしていればいいのに、理は猫背だった。それでもひょろりと背が高いのがわかる。

「おかえり、理」

 予想通り、理はコンビニエンスストアのビニール袋をぶら下げていた。

 夏織は立ち上がるタイミングを失っていて、下から彼を見上げる形になっていた。理が見ているのは、文也の方ばかりで、夏織はそもそも存在しないものとなっている。

 文也は立ち上がり、夏織の手を取った。その手を借りて、夏織も起立した。こうして見ても、理は背が高い。

「古河夏織さん。話しただろ?」

 よろしくお願いします、と夏織は軽く頭を下げた。そこでようやく、理はしっかりと夏織の姿を視界に捉えた。

 そのとき夏織が感じたのは、なぜかわからないが、恐怖だった。ぞくりと背筋が震える。

 ただただ不気味だった。祝福しているわけでなく、兄の妻になる女を値踏みする、下種なものでもない。

 冷酷で、感情の籠らない目に、夏織は凍りついた。しかし、隣の文也はその様子に気がつかない。

 文也は大学での学問について尋ねていた。ぽつぽつと呟くように答える理の話は、夏織にはちんぷんかんぷんだった。

 文也も夏織と同じく文系だから、理の専門分野については無知のはずだが、彼は弟の話を聞きながら、ふんふんと頷いていた。

 愛想のない声音だが、まともに会話をするだけ、文也にとって理は、母親よりも心を許せる相手なのだということは、わかる。

 しかし、夏織は母親よりも理の方が理解できなかった。

 怖かった。母親と違い、文也が弟を可愛がっているから、夏織も関わらざるをえないのが、憂鬱さを増す。

 強張った夏織の心と身体をほぐしたのは、やはり文也の手だった。彼に肩を優しく抱かれて、ようやく夏織は、理の恐怖から逃れてほっとした。

「そろそろ帰ろうか。母さんに見つかったら、面倒だし」

 玄関で靴を履いた背中に、声をかけられた。夏織さん、と名を呼ばれた。一瞬気づけなかった。

「あ、はい」

 彼が兄ではなく、夏織を呼び止めるとは思わなかった。

 理は変わらず、感情の籠らぬ目で、「SNSって何か、やってますか?」とぼそぼそ喋った。

「え……えぇ」
「使い方によっては、危険な物ですからね……気をつけて」

 言葉だけを捉えるなら、それはこれから家族になる人間に対する不器用な思いやりに聞こえる。

 実際、文也はにこにこ笑って、「そうだね。理はそういうの詳しいから、何か困ったことになったら相談するといい」と言った。

 しかし、夏織には見えていた。気をつけて、と告げた理の唇が、奇妙に歪んだ。嘲笑だ。夏織はそう感じた。

「理の奴、本当に人見知りでさ。ごめんね」

 あなたの弟、なんか変よ。

 夏織は文也に言えなかった。ううん、と首を横に振って、「仕方がないわよ」と、棒読みにならないように注意して、文也を慰めた。


いいなと思ったら応援しよう!

葉咲透織(はざきとおる)@いろ葉書房 いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。