「一番星はポラリス」第5話
1
梅雨に入り、毎日がどんよりと重苦しい。
一回目の定期テストもつつがなく終わった私は、小休止。母の言いなりになるのは癪だが、今後どこか別の大学の推薦を受けるとなったときのために、テスト勉強はそれなりに頑張った。真面目にコツコツは得意だ。
ただでさえ憂鬱な月曜日、しかもテスト明けと来ては、授業中でも気が抜けて、ぼんやりしてしまう。
「こら」
空模様に気を取られていたら、タイミングよく先生の叱責が飛ぶ。慌てて居住まいを直したけれど、先生の標的は私ではなくて、隣の席だった。
「そーとむらー。起きろー? お前、もう古典の時間だ」
日本史の教科書が出しっぱなしの机の上を見て、先生は深く溜息をつく。クラス中の視線やクスクス笑いが突き刺さっても、外村くんはしばらく、ぼんやりしていた。
ようやく目の焦点が合ってきたかと思えば、「あれ? 木村(きむら)先生? あれ?」と、なぜ自分の記憶にあるのと違う先生が、目の前にいるのかわからないでいる。
二度目の溜息は、諦めを色濃く含んでいた。
「クラスメイトの勉強の邪魔だけはするなよ」
口調はあくまでも優しかったけれど、それは表面的なものだ。本当に外村くんのことを思う先生ならば、もっとガツンと叱っている。
芸能界への道をひたすら突き進む外村くんは、学校の異分子だ。卒業後の多様な進路を謳っていても、結局一番重視されるのは、難関大学への進学実績。
そこに一ミリも貢献しない外村くんを、一部の教師は持て余している節があった。
「はい。すんません」
外村くんがペコリと頭を下げることで、授業はようやく始まった。この時点で、五分以上押している。
日本史の教科書をしまって、古典の準備をし始めた外村くんだったが、ガサゴソと机の中、それから鞄を漁ったが、目当てのものは見つからなかったらしい。私とは逆サイドの男子に小さく声をかけるも、舌打ちひとつ返されて、無視されてしまう。
困った外村くんは、私に向き直った。本当は、男子に見せてもらいたかったに違いない。
「教科書、一緒に見てもええ?」
無言で頷いて、自分から机をくっつける。他意はない。そう、他意はないのだ。
だから、鋭い視線を送らないでくれるかなぁ、綿貫さん……。
昼休みには、彼女と裏庭で待ち合わせる予定になっている。そのときに、何を言われることか。和解したとはいえ、不用意に外村くんに関わるのは、彼女の逆鱗に触れる。
背後に「ごめんなさい」「何もしていません」「誤解です」などと書いた紙を貼りつけたい気持ちになる。
教科書を覗き込むついでに、外村くんの横顔も目に入った。
くっきりと二重のラインが刻まれた目蓋は、普段よりも重たそうだ。どうにか目を開けて文字をなぞり、瞬きをする。けれど、どうも頭の中には入っていない様子。
頬杖をついて、彼は頭を右手に預けている。思いのほか長い睫毛に気を取られかけて、その下の青黒く疲労感を押し出す隈に、ハッとする。
コンサートまで、あと二ヶ月。
去年の秋まで関西にいた外村くんのホームグラウンドは、大阪にある小規模の劇場だった。同じウェスタンクルーの仲間たちとともに、演劇やコンサート、事務所主催のステージに立ち続けていた――という話を、綿貫さんから聞いていた。
『あれで大地、関西じゃあちょっとした人気があったのよ。だから、なんで東京に来たのかなって』
アイドルオタクの彼女の分析でも、それなりに順調だった外村くんの移籍の真意はわからなかった。東京は、彼にとってアウェーの地だ。小学生ならいざ知らず、高校生にもなれば、必ずしも親の転勤についていかなければならない、ということもないだろう。
上京は、彼自身の意志だ。
東京所属としては、初めての公演。関西の他のクルーの名前はない。
私には想像できないプレッシャーがあるに違いない。レッスン量も増え、その合間に学校に来ているようなもの。休み時間は話しかけられるし、気の休まる暇はない。
本当に、大変なんだ。
外村くんが気になり始め、綿貫さんの萌え語りに付き合うようになってから、彼の先輩アイドルがテレビに出ると、今までとはちがった目で見るようになった。
きらびやかな世界で、明るく笑っている彼らもまた、寝る間を惜しんで努力をしてきたのだろう。
外村くんの今後を思うと、胸の奥がぎゅっとなった。
何か、私にできることはないだろうか?
もちろん、コンサートに行ったり掲載されている雑誌を買ったり、ファンとしての行動は当たり前にするけれど、もっと他に何か、学校の友人としての私が、できることは。
せめて、ひとりでゆっくり休息できる場所が、学校にもあればいいのに。
授業そっちのけで頭をフル回転させて、私はひとつの答えを導き出した。
机がくっついている、今のうちだ。
サラサラと教科書に短くメッセージを書きつける。それから、本格的に船をこぎ始めた外村くんの腕を、ツンツンとシャープペンシルの頭でつついて起こす。
「ん……」
声を出さずに、「外村くん」と呼びかけ、教科書を指した。
寝ぼけ眼の彼は、私の指先に書かれた言葉を見て、二度、三度瞬きをした。驚きで眠気はすっきりと覚めたらしい。
『ええの?』
いつもは大きく動く口を、周囲をはばかって彼は控えめに動かした。
『放課後や昼休みに、地学準備室を使ってくれていいから。開け方、わかるよね?』
私の提案した文章の下に、外村くんはさっと書き込みをした。後ろから見ても、不自然にならないように素早くペンを動かし、すぐに離れる。
『ありがとう』
正直、小学生のうちの弟の方がよっぽどきれいな字を書くと思う。「り」は「い」と間違いそうなくらい、左右の線の長さが揃っている。
初めてまじまじと見た文字は、彼らしい。伸びやかに見えて、けれどどこか、窮屈そうでもあり。
私はそっと、外村くんに気づかれないように、その文字をなぞった。
大学に入っても、社会人になっても、この教科書は一生捨てることはできないだろうと思った。
2
「ねぇ、さっきの古典の授業中だけど!」
来た。
裏庭に遅れて到着したと思ったら、開口一番、四時間目の授業中のことを尋ねてくる。予想通りだった。
「外村くんが教科書忘れたから、一緒に見てただけです。逆隣の子に、無視されてたから」
準備していた回答を、一息に言った。綿貫さんは、視線を中空にさまよわせて、座席配置を思い出していた。ああ、と納得したのを見て、緊張を解く。
「あのガリ勉相手じゃ、しょうがないわね」
そう言う綿貫さんも実は、テストの点数がいい。天は二物を与えないというけれど、彼女の場合は当てはまらなかった。頭もいい、顔もいい、それから運動神経もいい。まさしくスーパーヒロイン。
ただし性格はいいとはいえない。いい性格だとは思うけど。でも、そういうところも嫌いじゃないと、最近思えるようになってきた。
もっと本性を露わにして生きていっても、いいんじゃないか。
彼女の秘密を共有するようになってから、私はそんな風に感じている。
大好きなアイドルの話をしているときの綿貫さんは、教室ですましているときよりも、よっぽど輝いている。もちろん、勢いとマニアックな知識に引いてしまう人もいるだろうけれど、逆に興味を持って近づいてくる人もいると思う。
あたたかい目で見つめていたのだろう。綿貫さんは、「何よ?」と、変わらず高飛車に胸を張り、私を問い詰めてくる。
彼女のこういう仕草を見ると、どうしてこれまでオタクだと見抜けなかったのか、不思議だ。千里子と同じくらい、大げさな動作なのに。
何でもないと首を振って、「そんなことよりも」と、スマホを取り出し促した。
「結果、一緒に見るんでしょう?」
綿貫さんの顔が、にわかに緊張した。私もまた、似たような顔をしているだろう。ううん、初めてのことだから、もしかしたら彼女以上かもしれない。
今日は、外村くんが出演するコンサートのチケット当落発表日だった。登録したメールアドレスに、昼の十二時に届く。
現在時刻、十二時半過ぎ。
件名とアドレスで、とっくに届いていることは確認済みだが、開封はまだ。綿貫さんが、「一緒に見て!」と、すがりついてきたから。
研修生だけど、その人気はデビュー済みの先輩たちに劣らない。特に、綿貫さんイチオシの瀧口(たきぐち)藤馬(とうま)は絶大な人気を誇る。
綿貫さんの推測によれば、彼がクルーの一員としてステージに立つのは、今年が最後。絶対的リーダーである瀧口藤馬を見なければならないと、ファンたちは熾烈なチケット争奪戦を繰り広げる。
ファンクラブ先行とはいえ、ゲットできない可能性が高い。そんな脅しを受けていたため、私の手は微かに震えている。
「い、いくわよ」
同時にメールを開封する。深呼吸のせいで、ワンテンポ遅れてしまった。その間に、綿貫さんは「ああああ」と、崩れ落ちる。どっちの反応なのか一瞬わからなかったけれど、スマートフォンを投げ捨てたので、おそらく。
「はずれた!」
やっぱり。
ファンクラブに入って四年あまり経つという彼女の名義でも当たらないのだから、期限ギリギリに入会した私の名義でなんて、無理だろう。
それでも動悸は収まらない。タップして開けたメールを、恐る恐る目を細くして見る。
「どうだった……?」
しゃがみこんだ綿貫さんが、気遣うような視線で見上げてくる。 私は目を瞠ったまま、固まっていた。そして、「あの、これ……」と、彼女に画面を見せる。
「当選、って、書いてある……よね?」
おめでとうございます。第一希望当選です。
ただそれだけの文言が、光って見えた。
綿貫さんは呆けて口を開けていたが、次の瞬間、跳ね上がって私の肩を叩いた。
「おめでとう!」
自分は落選したというのに、彼女は素直に祝福してくれた。その言葉に、じわじわと実感が広がっていく。
そうか。私、ステージに立つ外村くんに会えるんだ。
いつも隣の席にいる彼とは違う、もうひとりの外村大地。夢に向かって努力する彼の、晴れ舞台だ。
隣の綿貫さんは、「まだまだ復活当選の可能性もあるし、とりあえず、転売屋たちを通報するわよー!」と、意気込みながら、早速拾い上げたスマホを弄っている。
「あの、綿貫さん」
私は当選画面をスクロールして、突きつけた。訳がわからないという顔の彼女に、指で該当箇所を示す。
「わ、私、二枚で申し込んだの。だから……」
二ヶ月前には、まさかこんな風になるなんて思っていなかった。険悪な関係だった彼女を誘うのは、千里子に付き合ってもらうのとは違って、勇気が必要だった。実際、教室の中では堂々と話すことは、いまだにできない。
でも、彼女のアイドルへの情熱は本物だし、私はもっと近づきたいとも思い始めている。
「一緒に、行きませんか?」
自然と右手が前に出るし、頭が下がる。高嶺の花の美女をデートに誘う気分だった。
私なんかと一緒に、会場に入りたくないと言われてしまうかな。
そんな不安は、杞憂だった。
差し出した手に触れられたかと思うと、ぐっと強く引かれた。バランスを崩して倒れかける私を、綿貫さんはハグした。
「心の友よ」
どこかの漫画のキャラクターみたいなことを言って、感謝の気持ちを全身で表してくれるのは嬉しいんだけど、さすがに苦しい。背中を叩いてギブアップの意志を伝えても、彼女はしばらく離してくれなかった。
「あのね、綿貫さん。私、何もかも初めてだから、いろいろ教えて」
「喜んで」
綿貫さんはにっこりと、誰もが認める美しい笑顔を浮かべた。
3
外村くんに地学準備室を明け渡して以降、私はご無沙汰だった。
なにしろ、密室でアイドルとふたりきりになるなんて、よくない。発覚した瞬間に袋だたきだ。当然、私が。
外村くんも、その辺は心得ている。わざとらしく大きな声で、「今日はレッスン休みやねん」などと、放課後の予定を友人たちに喋って、教えてくれ
る。
私がこっそりと目配せすると、ばっちりと視線がかち合い、微かに頷く。放課後に予定が入っていないということは、地学準備室に滞在している可能性が高いため、その日は近寄らない。
「急にダンスレッスン入りおった……」
「え~? またかよ。大地、今日買い物行く約束だったじゃん」
「おん。すまん。でもこれ出んと、コンサート出してもらえへんのや」
外村くんがちらりとこちらを向いた。
週の真ん中、水曜日。図書室通いも慣れたし、推薦に最も重要視される一学期の期末テストも二週間後に迫っている。さすがに母も、この時期は勉強していても何も言ってこないけれど、やっぱり家は居心地のいい場所ではない。
外村くんがいないのなら、久しぶりに私が行ってもいいよね。
そっと彼を見て、すぐに逸らす。手にしたノートに目を落として、長梅雨の真っ最中だというのに、久しぶりに清々しい気分になった。
「あ」
そして放課後。誰もいない特別教室棟は、静かだ。廊下を歩いていて、目で見るよりも先に、音で雨が降り出したことを察知する。
小さな雨粒が、やがて大きなものになり、壁に窓にうちつける。ぼんやりと見やり、小さく息をついた。
目に見えなければ、雨は嫌いじゃない。刻一刻と変化する雨音は、耳に楽しい。図書室には大きな窓があるから、嫌でも曇天が目に入ってしまうけれど、地学準備室には、光を採り入れるための小さな窓しかない。そういうところも、気に入っている。
最上階の一番端、誰も来ないことは知っていても、一応辺りを見回すことは忘れない。先生が見回りに来ないとも限らないし。開かずの教室だと思われている場所に出入りするところを見られたら、大変だ。
この場所を託してくれた先輩は、私を信頼して任せてくれたのだから、裏切るわけにはいかない。
……まぁ、外村くんに明かしてしまったのはイレギュラーだが、彼は誠実な人だから。
誰もいないことを確認し、私は思い切り、扉の右端を蹴る。同時に引いて、ドアを開けると、そこには。
「……外村くん?」
どういうことだろう。今日は急なレッスンが入ったと言っていた。だから、久しぶりにひとりの時間を満喫しようと思ってやってきたのに、まさか遭遇するなんて。
私が扉を蹴り飛ばした音にハッとして、急に立ち上がったらしい外村くんの周りには、紙が散らばっている。お互いに「なんでここに?」という顔で固まった。我に返ったのは、私が先だった。
いつまでも開けっぱなしにしているわけにはいかない。一度中に入って、閉める。それから、外村くんが散らかした紙片を手にしようとして、
「あ~! それ、大丈夫やから! 触らんといて!」
と、大声で制止された。
でも、時すでに遅し。彼の落とし物は、私の手の中に握られている。
ただのプリントか、コピー用紙だと思っていたそれは、五線紙だった。手書きの音符は不揃いで、先日初めて見た、彼の文字を彷彿とさせた。
「これって……」
手製の楽譜と外村くんの顔を交互に見ていると、彼は不自然に、視線を逸らした。ふくれっ面は、怒っているのではなく、照れている。
「……今、俺の作ってる曲」
「外村くん、作曲もできるの!?」
素っ頓狂な声が出た。
え? 待って? 歌って踊れるうえ、作曲までするの? 才能の塊じゃない?
驚きと賞賛は、心の中でとどめているつもりだったけれど、うっかり声に出ていたらしい。外村くんは耳まで真っ赤になって、それからちらり、こちらを窺うような視線を向けた。
「実は、作詞も」
「えええ……すごい!」
真正面から褒められて、外村くんの機嫌は上昇した。まだ照れが勝っているようで、頬は赤かったけれど、堪えきれずに口元は緩んでしまっている。
すごいすごいと繰り返すと、満更でもなさそうな顔だ。
興奮して忘れていたけれど、はたと気づく。
もしかしなくても現在、室内に二人きりだ。しかも、外からは方法を知らなければ開けられない、特殊な部屋。
あらぬ疑いをかけられても仕方がない条件が整ってしまっている。
一気に血の気が引いて、私は五線紙を外村くんの胸に押しつけた。
「ご、ごめんなさい! 私、帰るね!」
予定変更が相次いで、外村くんの放課後は結局、暇になったのだ。それを私が聞いていなかったか、彼が伝えていたつもりになっていた。すれ違いの結果が、二人きりの密室(仮)である。
わーっと恥ずかしくなって背を向けて逃げようとする。
けれど、外村くんの反射神経は、私の動きよりも素早かった。
「待って」
語尾の「て」が柔らかく上がる、独特のイントネーション。
そして手首を掴まれて、私は逃走に失敗する。
振り返り、「離して」と言いかけて、できなかった。あまりにも強く、強く、捕らえられていた。真剣な目で私を見つめる外村くんに、言葉は失われた。
「俺の予定がコロコロ変わったんが悪いんや。田川さんがここ、使い。もともと田川さんの秘密基地やろ」
「や、でも。私はいつだって来られるからいいの。外村くん、作曲に集中したいんでしょ? 私が出てくからいいよ」
押し問答。お互いに相手がここを使うべきだと主張し合う。しかもそうしている間も、彼と私は繋がれたままである。
手首は、脈を測るときに指を這わせる部位だ。そのせいだろうか。彼の力の強さや、骨張った節々、少しささくれ立った指の腹、すべてを敏感に感じ取ってしまう。
私の心拍数は上がっていくばかりで、たぶん顔も真っ赤になっているだろうに、外村くんは譲らない。きっと、自分が握っているものが私の手だということも、忘れている。
「あ、あの、外村くん……わかった、わかったから」
「おん」
嬉しそうな返事はいいけれど、
「手、離してくれる……?」
「? あっ」
怪訝な顔を見せた外村くんは、ようやく自分の状況に気がついた。短く声を上げて、すぐに離してくれた。勢い余って、二、三歩後ずさる。
「ご、ごめん」
うん、とだけ頷いて、気まずい沈黙が落ちる。かき集めた五線紙は、順番はバラバラになっていて、彼は鞄の中にそれらをしまい込んだ。そのまま退出しようとする外村くんの手を、今度は私が掴んで引き留める。
咄嗟の行動だったので、自分も焦ってしまう。触れる手のひらにじんわり滲む汗は、私のものだろう。
「と、とりあえず今日のところはお互い、帰ろうか?」
外村くんの様子からして、今日は作業に集中できなさそうだ。私だって、勉強なんてやっていられない。
耳の端を赤くして、彼は頷いた。
※※※
一緒に帰るのは初めてではないが、そのときとはまた、心境が違う。私があまり喋らないのはいつものことだけど、今日は外村くんも、口数がいつもより少ない。いや、いつもが多すぎるんだ。
雨が傘を叩く音だけが聞こえる。帰るタイミングはどうとでもずらせたはずなのに、なんで一緒に出てきちゃったかなあ、もう。
「あれ、由梨乃じゃん。今帰り?」
声をかけられた瞬間、「救世主!」と叫びそうになった。オタクとばかり付き合っていると、こちらまで侵食されるらしい。友人のオタク・その一である千里子は、部活帰りだった。
「う、うん。一緒に帰ろうよ!」
ふたりきりじゃなくなることに安堵して、彼女を誘った。千里子はすぐ傍に立つ外村くんの存在に初めて気づき、「ふーん」という顔をした。
「いいよね、外村くんも!」
「ん」
これ幸いと乗ってくれて助かる。一件落着……と思いきや、
「あっ! あたし今日、用事あるからバスだった~」
と、千里子が急に言い出した。
「え? 千里子?」
「ごっめーん。由梨乃。先帰って! ね!」
眼鏡の奥の目が、ばちーん、とウィンクを決める。両方瞑ってしまっているのは、ご愛敬。
千里子は私が止めるのを無視して、走り去ってしまった。
残されたのは、結局ふたり。外村くんは、小さな溜息をついてから、私に向けて微笑む。
「……帰ろっか」
「は、はい」
つかず離れず、勘違いされない距離を保とうと心がける。でも、男女の友人同士に見える距離って、どのくらいだろう。考えれば考えるほどわからなくて、私の歩みはゆっくりになる。
「田川さん?」
自分のペースで歩いていた外村くんが、振り返り、立ち止まってくれる。
「あ、えっと、どうぞ、ひとりで歩いて、ね?」
へらっと微笑むと、外村くんは大股で私の方に向かってくる。
「なーんか変なこと考えとらん? 大丈夫やって。俺が彼女作らんって公言しとるんは、学校じゃ有名だし。俺と田川さんは友達。それ以上でも以下でもない」
だから、楽しくお喋りしながら帰ろうや。
いつもの調子に戻った彼に誘われては、抵抗できない。
しずしずと彼の隣を歩き、話しかけてくれるのに、相づちを打つ。
「あ。そうだ。あんな、俺が作曲とかしとんの、誰にも言わんでもらってええ?」
「いいけど……カッコいいのに、どうして?」
外村くんは、頭を掻いた。折りたたみ傘は少し小さくて、はみ出た肩が濡れ、学ランの色が変わっている。
「中途半端な状態で見られんの、嫌やから。どうせなら、完成形で見せたいし」
アイドルは、きらびやかなだけじゃない。
水鳥は優雅に湖面を泳ぐとき、実は、水中では休むことなく足を動かし続けている。
それと同じで、アイドルであろうとする外村くんは、ひたむきに努力している。しかし、外に見せてはならない。あくまでも表向きは、あっさりと完璧でなければならないのだと、彼は思っている。
私は外村くんの矜持を傷つけないために、頷いた。
「言わない。でも絶対いつか、聞かせてね?」
「おん。コンサートでいつか歌ったるんや」
コンサート、の五文字にドキリとした。
私はまだ、外村くんに夏休み中に開催されるコンサートに行くことを伝えていない。
だって、恥ずかしい。毎日会っている男の子を、お金を払って見に行くなんて。
私は話を逸らすべく、他の話題がないか、頭の中を一生懸命に探して口を開きかけた、そのときだった。
ピロロロロロ……。
「ご、ごめん」
スマホを慌てて探す。先に行ってかまわないのに、外村くんは隣で私のことを待っていてくれる。
探し当てたスマホの画面には、弟の名前があった。今日は塾が久しぶりに休みだから、遊びに行くって言っていたような気がするが、いったいなにごとだろう。
「もしもし、智之?」
『あ、お姉ちゃん?』
この一言だけで、後ろめたい用件だとわかる。何せ、弟は私のことを、普段は「ゆり姉」と呼ぶ。もしくは「ねぇ」という呼びかけのみ。
「……どうしたの」
自然と声が固くなった。
『鍵、忘れた』
「はぁ?」
母は今日、親戚の家だ。泊まりになると言っていた。父はいつも、帰りが遅い。
『だから、お願い! 早く帰ってきて! 雨降ってるし!』
「え? あんた、もう家に着いてるの?」
はぁ、と呆れて溜息をつく。軒下に入ってはいるだろうけど、それでもこの天気の中、外にいるのは辛い。
「わかった。すぐ帰るから。濡れないようにね?」
弟の素直な返事を聞いてから、通話を切った。
外村くんはずっと待っていてくれて、「弟さん?」と、声をかけてくれる。
「そう。普段はしっかりしてるのに、変なところで抜けてるの。家の鍵、忘れたんだって」
「あらら。そりゃ大変や。はよ帰ったり」
外村くんと一緒にいる時間が短くなるのは、少し残念だった。私が早足になると、彼も速度を合わせてくれる。
駅まであと少しのところで、外村くんの喉が震えた。笑っている。思い出し笑い、という様子に、私は思わず彼のことを見上げた。
「ああ、悪い悪い。田川さん、弟さん相手だと、ほんまお姉ちゃんみたいになるんやなって思て」
「お姉ちゃんみたいって」
実際、お姉ちゃんなんですけど?
小さく唇を尖らせた私の機嫌を取るように、彼は、
「だから、ごめんって。褒めてるんやで? しっかりもんのお姉ちゃんで、弟さんがうらやましいわぁ」
あいにく私は、外村くんのお姉ちゃんになるつもりはない。
だって私は、外村くんの……。
そこまで考えて、はたと思い直す。
私は外村くんの、なに?
歩みを止めた私に、外村くんもすぐに気づいて立ち止まる。
「田川さん?」
「あ~……ううん。なんでもないの。あっ、そういえば、外村くんは兄弟とかって、いるの?」
思考をリセットするために、私はそんな風に質問を投げかけた。昔の雑誌を調べたり、歩くアイドル辞典・綿貫さんに尋ねればわかるだろうけど、せっかく弟の話をしていたので、聞いてみた。
他意のない、純粋な質問だった。
「外村くん?」
一言、「おらん」「おるよ」と、簡単に返されるとばかり思っていた私の予想は、悪い意味で裏切られた。
彼は、私を見ていない。遠い目をしている。今目の前に映るものではなく、別の世界を見つめるようなまなざしを、不審に思う。
もしかして、複雑な家庭だったりするのかしら?
ドラマ化もされた、一族の遺産を争うドロドロのサスペンスを思い出す。あれは確か、使用人の少女が実は前当主の隠し子だったんだよね……。
妄想でハラハラしていると、彼はゆっくり瞬きをした。次に目が合った瞬間には、いつもの外村くんだった。
「姉ちゃんが、ひとり、な」
私はそれ以上、突っ込んだことを聞けなかった。
彼の笑顔は、いろんな人を惹きつける力があると思っていた。実際、彼は一部を除いてクラスの人気者だ。いつだって、人だかりができているし、そうじゃなきゃ、アイドルなんて務まらない。
けれど私は、別の効力も知る。
完璧なスマイルは、鉄壁の防御でもあるのだ、と。これ以上の詮索は許さないと、いきなりシャッターを下ろされた気分だった。
「ほら、はよ帰り。弟さん、待っとるで」
「あ、ああ、うん」
じゃあね、と小走りに駅への道を急ぐ。
ちらり振り返った外村くんは、もう私の隣を歩く気はないようで、立ち止まっていた。
気づかず踏み入った水たまりの飛沫が足を濡らして、気持ち悪かった。
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