「一番星はポラリス」第6話
1
期末テストも終わり、いよいよ夏休みだ。
受験勉強のため、ほぼ毎日のように図書館に通っていたけれど、今日の行き先は違う。
「綿貫さん!」
電車に揺られ、やってきたのは横浜はみなとみらい駅。様々な目的で降り立つ人々だが、今日は若い女性の姿が特に多い。
その中でもやっぱり、綿貫さんは目立っている。シンプルなワンピースは、彼女のすらりとした体型を際立たせているし、学校にいるときとは違い、控えめながら、メイクをしていた。そういえば、学校での彼女は、ほぼすっぴんだ。
今日はいつもよりも、うるうるつやつやの唇に、長く繊細な睫毛が美しい。
ぽーっとなっていると、「何よ」と、綿貫さんを怒らせてしまう。
慌てて首を横に振って、「なんでもない!」と言えば、彼女も今日は些細な私の言動なんて、気にならないのだろう。
何せ、ずっと楽しみにしていたコンサートの当日なのだから。
「こんな早いのに、本当にみんないるんだね……」
開場二時間前を指定されたときには、驚いた。電話でもう一度確認してしまったほどである。
開演までは一時間も余裕があるんだから、開場時間ジャストでいいのでは? と提案した私に、綿貫さんは「甘い!」と厳しかった。
「これから戦争に行くわよ」
彼女曰くの戦場は、グッズ売り場であった。
「わあ……」
声を上げてしまった。すでに、長蛇の列になっている。
「お金、多めに持ってきた?」
「う、うん。お年玉とかお小遣いとか。でも私、そんなに買うつもりないんだけど……」
事前に公開されたグッズ一覧を見て、買い物リストはスマホに入れてきた。ペンライトと外村くんの写真は欲しい。でも、Tシャツは着ていく場所もないし、うちわは一応手作りのがあるし、何よりも持って帰ってもどうすればいいのかわからない代物だ。飾る? うーん。
一通り私の意見を聞いた綿貫さんは、私の肩に両手を載せた。悟りを開いたような表情である。
なんだかデジャヴを感じると思ったら、「推しは推せるときに推せ」と言ってきた、千里子と同じ顔だ。
「あのね、田川さん……コンサート会場は、人の力じゃコントロールできない魔力に支配されているの。家では必要ないと思っていても、欲しくなっちゃうものなのよ」
経験者の滔々とした語りには、説得力があった。確かに、朝イチで並んで早々にグッズをゲットした人たちのほくほくした笑顔を見るにつれて、迷いが生じてくる。
「ど、どうしよう!?」
綿貫さんは頼もしかった。素人の私に、笑顔で親指を立てる。
「大丈夫。迷ったら、買え。これが鉄則よ」
そして、無責任だった。
オタクってみんなこうなの?
※※※
結局、彼女の言葉通りにうちわやTシャツを購入してしまった。とてもじゃないが外には着ていけない。部屋着がせいぜいである。
パンパンになったエコバッグを抱え、充足感に満たされながら、入場する。
もたもたしている私をフォローしてくれたのは、やっぱり綿貫さんだ。ふたりで来て、本当によかった。ひとりだったら、何もわからなかった。
私たちの席は、二階のスタンド席だった。メインステージやサブステージが正面にある、見晴らしのいい場所だ。綿貫さんは、「見やすくていいじゃない」と言いつつ、双眼鏡の調整を始めた。
綿貫さんは「よかったら使う?」と言ってくれたけれど、首を横に振った。
「そうだ。ちゃんとうちわできたの?」
「あ、うん。千里子にも手伝ってもらって、どうにか」
『スマホゲームのライブで、ちょっとね』
彼女は意外と手馴れているうえ、手先が器用なので、自分ひとりで作るよりは、マシなものができあがったと自負している。
綿貫さんと千里子は、直接一対一で会話をしたことはないが、それぞれに私と関わりがあるため、お互いを認識はしている。千里子の側は「ふーん」とスルー気味だが、綿貫さんはかなり意識しているようで。
「ふん、まあまあね! でも、私が手伝ったら、もっとちゃんとしたのができたんだからね!」
言いながら取り出したるは、それはそれは立派なものだった。
彼女の推しは瀧口藤馬。上の名前を選んでも、下の名前を選んでも、漢字では切り抜くのが難しい。実際、ちらほら埋まり始めた客席でも、瀧口くんファンは多く、うちわに書かれた文字は「トウマ」と、カタカナが多かった。
綿貫さんのうちわはゴージャスである。黒地に目立つ蛍光グリーンの字で、でかでかと「瀧」と書いてあるし、その隣には、彼がよく使う小物である、赤い薔薇のモチーフがついている。
「裏面にはファンサしてほしい内容を書くのよ」
投げチューして、という赤裸々なファンサービスをねだるうちわに、素人の私はちょっぴり引いてしまう。
「そういうのは、ちょっと……」
クラスメイトの男子に、そんな過激なの、要求できない。
私のうちわの裏面は、無地のままだ。もうちょっと、何か考えればよかったかな、と思う。それこそ、薔薇の花みたいに彼のトレードマークとかイメージカラー、好きなもののイラストなんかを貼るだとか。
でも、彼の好きなものって、いったいなんだろう?
ファンクラブ会員限定公開のブログも当たり障りがないし、趣味もカラオケとか、無難なものだ。
もしも次の機会があるとして、私はどんなうちわを作ろうか。
無言で悩み始めた私を、綿貫さんは機嫌を損ねたのだと思ったらしい。慌てて、
「で、でも、初めてにしては、すっごく上手にできてるわよ?」
と、見当違いのフォローを始めた。
「いや、うちわの出来云々は別に……」
口を開きかけた、そのときだった。
「うっわ。何アレ。下手くそ」
「ほんとだ。小学生でも作れるわ、あんなん」
人間の耳というのは不思議なものだ。教室なんかの比じゃないくらい、こんなにたくさんの人がいて、めいめいが好き勝手に喋っている中でも、自分に向けられた悪意の呟きだけは、はっきりと聞こえてくる。
私が声の主を確認するより先に動いたのは、綿貫さんだった。
「うるさい、ブス!」
振り向きざまに、ぴしゃりと言い放ち、睨みつける。
美少女の怒りは、すさまじく迫力がある。向けられたことのある私にはわかる。こっそりと彼女の陰から相手を覗くと、二人組の女性は、たじたじになっていた。
どちらからともなく、服の裾を引き合って、「行こ」と、足早に自分たちの席へと戻っていく。
「ちょっと! 謝んなさいよ!」
追いかけようとする綿貫さんを、私は必死に止めた。
「下手くそなのは、本当のことだし。だって初めてだもん。仕方ないでしょ? 私は気にしてないから」
そうは言っても、見知らぬ他人から、明確な悪意をぶつけられたのは初めてのことで、コンサートへの期待で上昇していた気持ちは、一気に下降した。
うちわの持ち手を握る手が震えないよう、ぎゅっと強く握った。力が入りすぎて、白くなる。
綿貫さんは私の様子をじっと見守りつつ、小さく溜息をついた。
「ごめんね。オタクがみんな、ああなわけじゃないからね?」
「うん。わかってる。綿貫さんみたいに、ステキなオタクもいるんだもん」
「田川さん……!」
次は一緒に作りましょうね、など、ひとしきり彼女は私のことを慰めて、それから最後にこう言った。
「たぶんあいつら、カイリのアンリーだと思う」
「カイリ? アンリー?」
知らない単語の羅列に、首を捻った私に、綿貫さんは用語を解説してくれた。
アンリーというのは、アンチ+オンリーの意味。
単推しを表すオンリーに、アンチを加えたアイドルオタク用語だ。
「要するに、特定の一人以外は同じグループのメンバーであっても全員叩く、みたいな人のこと」
根っこにこじらせたファン感情がある分、完全に部外者のアンチよりも厄介な存在だという。
「で、カイリっていうのは……ウェスタンクルーの円盤見たときに、いたでしょ? ほら、大地と背中合わせでデュオ曲歌ってた」
「ああ!」
そのときにも名前を教えてもらったはずだが、すっかり頭から抜け落ちていた。外村くん以外で名前を顔が一致しているのは、それこそ綿貫さんの推しである瀧口くんくらいだった。
「なんだっけ」
「内野(うちの)海里(かいり)。関西時代の大地のシンメだったクルーよ」
スマートフォンで見せられた写真は、あらゆる面で、外村くんとは対照的だった。
派手な色に染められ、無造作に伸びた髪の毛。ワイルド、というのだろうか。目つきは鋭く、挑戦的に画面外を睨んでいる。笑顔もどこか歪んでいて、嘲笑されている気分になる。
イケメンには違いないのだろうが、私はあんまり好きじゃない。
もしもまかり間違って、外村くんじゃなくてこの人が転校してきていたら、お近づきにはなりたくない。
「シンメって?」
「うーん。相棒、というか、相方、というか。まあ、そんなもんだと思ってくれていいわ」
彼女自身は、もっと崇高なものだと思っている口ぶりで、アイドル基礎知識を教えてくれた綿貫さんは、声を潜めて内野海里について語った。
「大地とは真逆のタイプ」
曰く、ファンに手を出したという噂が尽きない。才能があるのをいいことに、ダンスの手を抜く。レッスンをさぼる。しかもそれを得意げに語る。舞台上ではアドリブという名の好き勝手をする……。
「まぁ、そこがいいっていうファンもついているんだけどさ」
容姿も性格も、外村くんとは真逆なのにシンメ。そこが萌える! という奴なんだろうか。よくわからない。
私生活でもアイドルのイメージを崩さないよう、己を律している外村くんと、どうしてそんな人が? アイドルじゃなくても、彼の近くにいてほしくない人種である。
こう感じてしまうのは、私もアンリー思考に陥ってしまっているのだろうか。
いや、そんなことはない。私はあの人たちみたいに、見ず知らずの他人に向かって悪口を言うなんてこと、しないんだから。
「大地、中途半端な時期に転校して、東京所属になったじゃない? それを悪く取られちゃってるのよね」
外村大地は、長年のシンメである内野海里を捨てた。
「そんな……外村くんが、そんなことするわけないじゃない。何か事情が」
「でも、その理由を大地は誰にも言ってない。私もあなたも、知らないでし
ょ?」
そう、知らない。聞いても彼は、教えてくれない。きっと笑ってはぐらかすだけ。そんな気がする。
「あいつがちゃんと説明すればいいだけなんだけど」
「うん……」
外村くんの事情って、いったいなんなんだろう。
私の頭の中からは、あの意地悪な二人組のことは、すっかり抜け落ちてい
った。
2
軽快なBGMが、止んだ。それを合図に、会場の電気が消える。客席はにわかに緊張をはらみ、一瞬の沈黙が降りる。静かに上がっていくボルテージは、隣から伝わってくる熱によって、相互に増幅し合っている。
二階スタンドの私の席から見えるのは、光。
観客ひとりひとりが灯したペンライトは、様々な彩りを持って、揺れている。バラバラのリズムが、なのに一定の調和をもち、渾然となってうねっている。
光の波だ。そして私も、その波形の一部になる。
私という点が、風景という面に変わり、埋没していく。
目立たぬように、教室で息を潜めているのとは、似ているようでまったく違う。教卓から私の姿は見えるが、ステージからはどうだろう。「ファン」という群れとしてしか、捉えられないのではないだろうか。
宇宙の中で、名のある星以外は、注目されないように。
聞き覚えのあるイントロが流れ出した。その瞬間、いまかいまかと待っていた熱狂が、ワッと爆発した。
オープニングは、事務所の大先輩で国民的アイドルである、STORMの大ヒット曲だ。音楽に疎い私ですら、メンバーが主演したラブコメドラマの主題歌であることを知っているし、サビの部分だけなら、なんとなく口ずさむことができる。
外村くんが所属している事務所というのは、そういう場所なんだ。
人気のグループであればあるほど、老若男女、みんながその名前を知っているし、一挙一動に注目が集まる。
一方で、デビューできないままに退所していく人たちもいる。いいや、そちらの方が圧倒的に多いはず。芸能界で成功し、活躍し続けることができるのは、ほんの一握りでしかない。
「きゃ~! 藤馬~!!」
綿貫さんのお目当て、瀧口藤馬は中央でパフォーマンスしている。
万人が認める整った顔立ちに、高い身長とそれに見合った脚の長さでスタイル抜群。低音が心地よく響き、長い手足が映える振り付けのダンスは天下一品。
そのうえファンサービスも丁寧で、まさしく現代を生きる王子様、だとか。
なるほど確かに上手いし格好いいんだけれど、私の目はその後ろにいる人物に、すっかり釘づけになっていた。
あれは、誰?
ううん、わかっている。あれは紛れもなく、外村大地その人だ。
けれど、教室での彼とは違う。雑誌に載っていた写真とも違う。
きらびやかな衣装。普段は無造作ヘアだが、今日は前髪を上げて、顔がいつもよりよく見える。
一曲目ではソロパートはなかったけれど、二曲目の激しいダンスナンバーでは、話すときの声とは異なる、少し掠れた高音を会場内に響き渡らせた。
心臓が、ドキドキとうるさい。瞬きする暇すら惜しく、私は必死に、肉眼で外村くんの姿を追い続ける。
初めてだし、全体を見たいからと断ってしまったが、素直に双眼鏡を借りるべきだった。
すごい。すごいすごい!
くるくる変わる表情と声音で、曲を情感たっぷりに表現する。バラードは切なく歌い上げ、ポップなナンバーは満面の笑みでファンサービスを徹底する。
私生活からアイドルを徹底する外村くんが、より一層輝いて見える場所は、ステージなのだと、心の底から理解した。
曲の合間のMCは、瀧口くんがメインになって回していく。入所したばかりで、バックで踊っていた小学生くらいの小さな子にも話を振り、まだまだアウェー感の強い外村くんにもマイクを向ける。
『大地は東京でのコンサートは初めてだっけ? 大阪と違ってどう?』
『東京のお客さんは、みーんな優しいわ。大阪やと、さっきの悠人(ゆうと)のボケ、だーれも笑てくれへんわぁ』
『そんな!』
『まぁ、そんなキビシー大阪のお姉様方に鍛えられて、今の俺がおるわけですわ。ほんま、姐(ねえ)さん方、おおきに!』
大げさな声とリアクションで、プロトタイプな関西人を演じる彼。
演技だとわかるのは、あまりにも普段と違う、西のイントネーションを強く打ち出した喋り方だったから。少なくとも、私の前で話す言葉とは全然違う。やっぱり少しだけ怖いな、と思ったけれど、演技だと言い聞かせれば、肩のこわばりもほどけていく。
ラブバラードを歌うとき、たまたま目の前の通路に、外村くんが降り立った。
瞬間、目が合った気がした。でもきっと、これは気のせい。私の周囲一帯はみんな、同じことを考えている。綿貫さんと逆隣の人が、息を飲んだのが気配だけで伝わったから。
長い真夏の一日が、実は刹那の時でしかなかったのだと、後になって思い返す……そんな歌詞だった。
ラストのサビに入る直前、彼はマイクを持った手の甲を、口元に持って行った。
何をしているんだろう?
見守っていると、彼は私の方へと、拳を向けた。正確には、私のいるブロックへと。
ゆったりとした曲にふさわしくないほどの、黄色い悲鳴。他の子のうちわを持っている子たちも、もれなく溜息をついて、目の前の外村くんを、熱を帯びた目で見つめている。
「大地が投げチューするなんて、レアよ、レア!」
こっそりと綿貫さんが耳打ちしてくるけれど、私の耳にはほとんど入ってこなかった。
だって、気づいてしまったのだ。
アイドルのパフォーマンスのひとつでしかない、投げキッスを受けた。それが私だけに向けられたものではないことに、とても嫌な気持ちになった。
思えば、雑誌の企画で恋人役を演じた数枚の写真を見たときから、わかっていた。
綿貫さんと一緒にいるのを見たとき、もっと言えば、初めて彼の笑顔を見た、あのときから。
ああ、この気持ちが恋なんだ。
アイドルじゃない外村くんのことが好きなんだと、アイドルをしている彼を見て、気づいてしまった。
私に対する特別な感情は、彼の中にはない。ファンへの感謝とサービスのための行動は、私が求めているものじゃない。
外村くんが、アイドルじゃなかったらよかった。
けれど、クラスで笑う彼の根幹は、アイドルでありたいと願う心なのだということも、ちゃんとわかっている。
気がついてしまった恋心は、決して報われることはない。
私はペンライトを灯して、彼の見る光景の一部に溶け込むことしかできない。ステージで一等星のように振る舞う外村くんの傍には行けない。
春休み、地学準備室で感じた心地よさは、錯覚だった。星はやっぱり、遠くにあるものだ。決して触れられない。
彼は眩しくて、熱くて、不用意に傍に寄ったが最後、私が消えてなくなってしまう。
私にとってよかったのは、今歌っている曲が、胸に刺さる切ない曲だということだった。
泣いていても、周囲は感動しているのだと勘違いしてくれるから。
3
アンコールが終わっても、しばらく立ち上がることができずに泣いていた私の背中を、綿貫さんは優しく摩ってくれた。
ライブに感動しているのだと思っていることだろう。
「よかったね。大地のファンサは、きっと田川さんあてよ」
私は首を横に振って否定した。声を出したら嗚咽になってしまいそうで、
「私のことなんか、見えるわけないよ」と言うことはできなかった。
彼女に介護されながら、どうやって帰宅したのかも、記憶は曖昧だった。
夕方には家に着いたから、夕飯は食べたはずなのだが、食卓に何が上がっていたのか、覚えていない。
行ってよかった興奮と、行かなければ自分の気持ちを見て見ぬフリができたのにという後悔でぐちゃぐちゃになった頭は、覚醒と悪夢を幾度となく繰り返した。
結局、次の日は昼までベッドから起き上がれなかった。何度か母や弟が起こしに来た気がするけれど、全部無視した。
全身が痛い。何よりも、泣きすぎて目が腫れているし、眠りながらも涙をこぼしていたのだろう。乾いた跡がヒリヒリと引きつった。
「顔……」
洗わなきゃ。
枕元に置いてあったスマートフォンを見る。ぼんやりしていた意識が一気に目覚めた。
着信が一件。相手は金子くんだ。メッセージならまだしも、電話なんて初めてだった。
時間を確認すると、五分くらい前だった。すぐにかけ直せば、繋がるかな。
通話ボタンを押す。コール音が数回響いたあとで、「田川さん?」と聞こえてきたのは、金子くんの声じゃない!
だって彼は、私のこと呼び捨てにする。電話だからいつもとちがって聞こえるとはいえ、金子くんの声は、もっと低い。
「ぴゃ!」
声の主に思い当たった瞬間、私は変な声をあげて、思いっきり電話を切ってしまった。
どうしよう。絶対、そうだよね? あの名前を呼ぶ響きは、絶対。
ステージで、朗々と愛を歌い上げていたのと同じ、少しだけ甘い声が私を呼んだ。今まで意識していなかったのに、これからの学校生活、どうやって乗り切ればいい?
ああ、本当にどうしよう!
ブブブ、再びすぐにスマホが震え始める。やっぱり金子くんからの着信だ。迷いつつ、手に取る。
「も、もしもし?」
『おお、田川。ごめんな、急に。驚いただろ?』
驚いた、なんてものじゃない。なんで私のスマホから、外村くんの声が聞こえてきたのか。
『今、大地と一緒にいてさ。田川と話がしたいっていうから俺のスマホ貸したの。嫌かもしんないけど、代わるから話してやってくんね?』
嫌じゃない。嫌じゃないけれど、心の準備ってものが!
私の叫びは所詮、心の中だけのこと。口からは緊張で浅くなった息しか出てこない。
『もしもし? 田川さん?』
「は、はい。田川ですっ」
テレビ通話じゃないから関係ないのに、パジャマのまま、顔も洗っていない状態で外村くんと会話を始めたのを、「しまった!」と思う。
せめて寝ぐせだけはどうにかしなきゃ。頭のてっぺんの毛を押さえつけている間も、外村くんは私に話しかけてくる。
『昨日さ、コンサート、来てくれてたやんか。綿貫と一緒に』
えっ。
綿貫さんから聞いたのだろうか。
私がそう尋ねると、外村くんは小さく笑い声をあげた。苦笑している、その顔がはっきりと見えるようだった。昨日までよりも、解像度が高く、脳内で再現される。
『あんな、意外とステージから客席って、見えんねん。俺、目ぇいいし。二階の正面あたりに、ふたりでおったやろ?』
言い当てられて驚き、彼からは見えないのに、私は首をぶんぶんと振っていた。何も喋れない私の反応を流して、外村くんは言葉を継ぐ。
『俺さ、友達がコンサート来てくれたん、初めてやったんよ』
クラスで友達に囲まれている外村くんを思い出す。大阪に住んでいたときだって、彼の押しつけがましくない賑やかさや優しさは、多くの人を惹きつけていたはずだ。
なのに、ステージに足を運んだのは、私たちが初めて?
『行きたいって言うのはいたんやけどな、実際、関係者席用意しようかー、言うたら、男のアイドル追っかけてる男みたいになって恥ずいやんって、断られてばっかやった』
『女子は……うん、向こうじゃあんま、仲良うなかったしな』
九割以上は女性客だ。その中に、いかにも一般人然とした高校生男子が入るのは、勇気がいることだろう。覚悟がないなら、最初から行くなんて言わなければいいのに。
『せやから、わざわざ自分のお小遣い使ってチケット取ってきてくれたんが、嬉しかった。ほんま、ありがとう』
「外村くん……」
『ほな、また新学期にな!』
しんみりした空気を感じ取ったのか、外村くんはひときわ明るく言って、電話を切った。
通話が終わってからも、しばし魂が抜けた状態でぼんやりしていたが、ハッとした。
私、外村くんにコンサートの感想、何にも伝えてない! せっかくだから、ちゃんと言えばよかった!
「あああ……」
やってしまった。我ながら不覚である。頭を抱えて呻いていると、いよいよしびれを切らした母の怒声が、階下から響いてきた。
「はーい! 起きました!」
叫びつつ、急いで身支度を整える。
もうひとつ、聞きそびれたことがあることを思い出したのは、昼食のあとに皿を洗っているときだった。
拳での投げキッス。あれを私たちの方に向けたのは、偶然?
って。
でも、そんなこと聞けないよ……。
うーん、と頭を悩ませていると、母から「水、出しっぱなし!」と叱責され、慌てて蛇口をしめた。
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