「一番星はポラリス」第3話
1
綿貫さんに目をつけられた私は、早々にクラスから浮いていた。
去年やおととし同じクラスだった子、仲良くしてくれていた子は、私とよく似ていた。
つまり、よく言えば平和主義。自分の周りに波風を立たせたくない。綿貫さんの逆鱗に触れるのを恐れた結果、私にはなるべく触らないという決定を下した。
別に、恨む気持ちはない。私が彼女たちの立場だったとしたら、同じ行動を取っただろう。
昼休みは千里子と一緒だし、放課後は図書室に行ったり、地学準備室で過ごすから、あまり気にしていない。
綿貫さん本人は、始業式の日の呼び出し以降、目立った行動は起こしていない。問題は、彼女の友人たちだ。孤立している私を、あからさまに見下し、嘲笑する。
困ったことといえば、他にも。
「あ、田川さん。進路調査書、もう提出したん?」
隣の席の外村くんは、私がひとりぼっちでいるタイミングで、話しかけてくる。私は一瞬、答えに窮する。気を遣ってくれているのはありがたいが、逆効果ではないか。
ちらりと一番後ろの席の綿貫さんを窺う。本人の表情は見えないけれど、取り巻きよろしく彼女をかばうご友人たちは、舌打ちをしている。さらに目をつけられる結果になっている。これはもう、諦めるしかない。
「まだ。外村くんは、もう出したの?」
それでも私が、外村くんに「やめて」と言わないのは、ひとえに彼の「友達」という言葉に応えたいから。冷淡な態度を取れば、彼はひどく落ち込むに違いない。
実際、会話を続ける意志を見せると、外村くんの表情は和らぐ。
「俺はもう出したで」
「なんて書いたの?」
二年生までと違って、三年生の進路希望調査書は、真剣だ。同じ志望校の子は友人でありライバル。指定校推薦の枠がある場合は、もっと熾烈だ。あちこちで、相手の志望校を知ろうとする駆け引きが行われている。ただ、外村くんに限って言えば、純粋に私の興味本位だった。
「俺? もちろん就職、アイドル一本や!」
無邪気な顔で、指を二本出してブイサイン。セリフは「一本」だったから、おかしくて笑いを嚙み殺した。
「だと思った」
胸を張って主張する彼が微笑ましくも、うらやましい。
それから二、三の雑談を交わして、私は鞄から取り出した文庫本を開く。それが終了の合図だ。外村くんはすでに心得ていて、気分を悪くすることなく、別の生徒に話しかける。
男女の区別なく、彼はフレンドリーだ。しかしよく観察すれば、ちょっとだけ態度が違うのがよくわかる。
女子に対しては、一歩引いている。私のように、すでに「友達」と認定した子については、その限りではないけれど、それでも男同士とは違う。
私は外村くんの存在を、一度頭から追い出した。
鞄の中に入れたままの進路希望調査書。親ともきちんと話し合って、今月中、つまり連休前までには提出するように言われている。
書いては消し、消しては書きを繰り返して、紙はもうぐしゃぐしゃだ。新しい用紙をもらわなきゃ。
私の反抗心がバレないように。
放課後、職員室に行って、新しい紙をもらった。強く擦って破れてしまったのだと言うと、担任は「仕方ないな」と苦笑した。
「田川は提出物をすぐに出す方だけど、今回は締め切りギリギリになりそうだな」
なんとはなしに投げかけられた言葉に、私は喉を詰まらせる。
「締め切りまでには、必ず」
素っ気ない言い方で、私は先生に頭を下げ、職員室を後にした。
2
「ただいま」
お帰り、はキッチンから聞こえてきた。母は長く専業主婦をしていたが、今年になって、近所のスーパーで働き始めた。私の大学進学や、弟の中学受験に備えてのことである。シフトに入っていない日は、一日中台所にいて、パートのフラストレーションをぶつけるように、凝った料理を作っている。
いつもなら、まっすぐ自室へと向かうのだが、今日はちゃんと話をしなければならない。帰りの電車の中で、覚悟を決めた。
「あの、お母さん。これ」
火を止め、エプロンで手を拭きながら出てきた母に、改めて先生からもらった紙を見せた。揺れる車内で書いた文字は、いつもと違って汚い。いくら丁寧に書いたって、レールの接続部にさしかかる度に、手は滑った。
『女の子は女の子らしくしなさい。そうすれば、素敵な男の人に見初めてもらえるのよ』
時代錯誤なことを口を酸っぱくして言う母は、私の字が汚いことに、眉根を寄せた。女の子なのに、と。だが、書いてある内容については、おおむね満足してもらえたらしい。
第一希望から第三希望まで、私が書いたのは、名前がそこそこ知られている女子大学だ。偏差値は高くない。できたばかりの頃は、「良妻賢母」教育を謳う、いわゆる「お嬢様学校」と呼ばれる大学だ。例年、指定校のリストにありながら枠は余っていて、志望を出せば、間違いなく合格する。
「いいわよ。それで」
詳しい学部・学科までは目を通さずに突き返された紙は、折り目正しい。
もしもこれが、消しゴムで何度も擦った末に、ぐしゃぐしゃになったり破れたりした用紙だったら、どんな反応だったんだろう。
皺のひとつひとつや、筆圧の関係でうっすら残った痕に、私の迷いが刻まれていることにも、気づかなかったかもしれない。もうちょっと丁寧にものを扱うように、という注意を受けるだけ。
「うん。明日提出するね」
言って、私は自分の部屋に籠った。制服を着替えるのすら億劫で、明日後悔するだろうけれど、そのままベッドにダイブした。
『いい? 女の子は要領よく生きないと』
母が私に歩ませようとしているのは、彼女自身が生きた道だった。
付属の女子大に内部進学し、有名大学とのインカレサークルに入る。そこで出会った父と結婚して、今に至る。
母にとっては何の不満もない、幸福な生活。
娘に苦労させたくない、という気持ちは理解できるし、ありがたくもある。けれど、努力の機会を最初から奪われるのは、憤りを感じる。自分の能力や努力を、最初から信用されていないようで。
私は弁の立たない人間だ。対して母は、口だけはよく回る。「お勉強はできなくても、賢い女の子が得をするの」その言葉どおり、私の反抗心を封じ込める話法は、きちんと身についている。
私に情熱があればいいのだけれど、結局今日も、衝突を恐れて、母好みの学校の名前を羅列してしまった。だって、行きたい大学も、やりたい学問も、具体的には何ひとつ、思いつかないのだ。
「はぁ……」
溜息しか出ない。
もしも私が、外村くんのように自分の道を自分で定めることができる人間なら、言いなりにならないと主張できるのに。
ぼんやりと本棚を眺めた。漫画も小説も好きだけど、それを仕事にしたいとか勉強したいとまでは、思えない。千里子と違って、私に物語を創る才能はない。
私は何をしたいんだろう? 何ができるんだろう?
外村くんに惹かれるのは、彼を観察していれば、そのうち自分の生き方に対する答えも見つかるかもしれない、と期待しているからなのだった。
3
担任は一学期の間は席替えをする予定はないと言い切った。ということは、私の隣の席が外村くんである事実は、しばらく変わらない。
彼よりも先に席に着いているべきか、それとも後から教室に入るべきか。
外村くんは、朝登校すると、クラス全体に向けて大きな声で「おはよう」
と挨拶をする。それから目が合うクラスメイトには、個別にも。
元気に挨拶をされて悪い気をする人はあまりいないし、自分もポジティブな反応を返そうと思うのが、普通の人だ。
けれど中には、「鬱陶しい」という感情を隠さずに、彼を睨みつける人もいる。朝から机にかじりついて参考書を開き、ノートに文字を走らせている男子が、大きな舌打ちをしているのすら、見たことがある。
それでもめげずに外村くんは、毎朝毎朝、彼にも「おはよう」と声をかける。その勇気と根気には、頭が下がる。
外村くんの登校時間はまちまちだ。今日は私が後だった。
おや、と思ったのは、女子が彼を取り囲んでいたこと。暗黙の了解という奴で、外村くんがひとりでいるときは、女子はなるべく近寄らないようにしている。金子くんという緩衝材が必要なのである。もちろん、外村くんの方から寄ってきた場合は別だが、滅多にない。私の場合は、席が隣だから都合がいいだけだし。
普通の生徒としての自分と、アイドルとしての自分の線引きを、彼は守ろうとするし、私たちにも守らせようとする。
私はこっそりと席に着いた。隣の会話に聞き耳を立てつつ、鞄の中身を机にしまう。
ちらり覗けば、彼女たちは胸の前で、同じ雑誌を抱いていた。
「外村くん、今月の『Lティーン』に載ってるならそう言ってよ!」
「そうだよ。もう、見つけてびっくりしちゃった!」
Lティーン……女子中高生向けのファッション雑誌だ。名前は知っているし、美容院に行くと、サッと差し出されるため、パラパラ読んでみたことはある。
外村くんは頭を掻いて、照れている。
「そんなん、フツー言わんやろ。今月載るから見たってや! なんて」
「言うよ。言う言う。あたしなら自慢するもん!」
「お母さんに、この子クラスメイト! って見せたよ」
あはは、と笑う外村くんだけど、いつもの根明さとは、少し違っている気がした。笑っている。笑っているんだけど……上手く言えないが、ちょっと冷めている。そんな感じだ。
「今度載るときは、絶対事前に教えてよね。他の学校の子たちにも自慢するんだから」
「はは。次があれば、な」
きゃっきゃ、と女子たちが自分たちのいつものグループへと戻っていく。彼女たちを見送った外村くんの肩が、呼吸に合わせて上下した。溜息のリズムに、私はようやく、彼の心境を理解する。
彼女たちは、自分の話しかしなかった。
外村くんを「すごい!」と褒めてはいたけれど、それは掲載された事実についてで、感想ではなかった。親や友達に、有名人と知り合いだと自慢したいだけ。
外村くんをだしにした、自分語り。それに対して、「ありがとう」と笑わなければならないむなしさ。
自分の中に負の感情を押し込めて、誰にも気づかれないように殺した溜息ひとつで、昇華する。
私は思わず、「外村くん」と、話しかけていた。
「お、おはよう!」
たった四文字の言葉なのに、喉がきゅっと引き絞られて、声がひっくり返る。振り返る外村くんは、目を丸くしていたけれど、すぐにいつもの顔になった。
そう、彼の笑顔はこうでなきゃ。
「田川さん、おはよう」
それ以上の会話を発展させるスキルはなかった。私も『Lティーン』の読者だったら、彼の求める感想のひとつやふたつ、言えたのに。
タイミングよく金子くんがやってきたこともあり、外村くんの意識は私から離れた。
その日の帰り道、電車を途中で降りた。
学校や家の近くの店で、ファッション誌を買う勇気はなかった。
人気のある雑誌だから、『Lティーン』はすぐに見つかった。表紙モデルの女の子は、同世代の女優だ。今期のテレビドラマでも、ヒロインの妹役として出演している。
手に取るところまではよかったけれど、同じ制服が入店してきた途端、私のなけなしの勇気は、しゅるしゅると萎んでしまった。
放課後ということもあって、彼女たちのスカート丈は短いし、目元はキラキラしている。
対して私は、校則通りに制服を着ている。化粧なんて、七五三で紅を差したのが最初で最後だと思う。自分では一度として、やってみたいと思ったことがない。
あの人あんなにダサいのに、Lティーン読んでるの?
そんな顔で、クスクス笑われる妄想がよぎる。当然、向こうは知らない生徒である私のことなど、目にも入れていない。まっすぐ文具売り場へ向かって、カラーペンの試し書きをしてはしゃいでいる。
私は何も買わず、店の外へ出た。
ああ、私も結局、あのクラスの女子たちと同じだ。
自分のことばっかり気にして。
せめてパラパラめくって、外村くんの出ている記事だけでもチェックすればよかったかなぁ、と思いつつ、とぼとぼと駅へと向かった。
4
ゴールデンウィークが始まった。
飛び石になっている日は学校に行かなければならないが、三日からは私も弟も連休だ。父の「どっか遊びに行くか?」という軽い誘いは、母に切って捨てられた。
「学校は休みでも、智之(ともゆき)は塾があるでしょ」
と。
弟の智之は、小学五年生になったばかりだ。中学受験まで一年以上あるというのに、母は私に対しては真逆の熱心さで、弟へは教育ママの態度を取る。
その根底にある価値観は、変わらない。
智之は男だから、自分で稼ぎ、将来の嫁を食わせていかなきゃならない。そのために、中学からいい学校に進むべきだと信じている。本当は私だって、塾や予備校に通いたいのに。
父は寂しそうだったが、何も言えない。家庭のことは妻がメインで行うから、何を言っても切り捨てられるだけだと知っている。今だけの辛抱だと弟を諭す母の言葉に、苦笑いを浮かべていた。
定期テスト前だけは、私にも「勉強しろ」と言ってくるが、それ以外ではむしろ、机に向かっていると、「そんなに勉強してどうするの」と言われる。
お母さんみたいに、幸せになりたくないの?
母の幸福と私の幸福は違う、はず。けれど、うまく言葉にできないせいで、結局、参考書を閉じる羽目になる。
家にいたくない私にとって、千里子からのお誘いは願ったりかなったりだった。わかっていて、連絡をくれたのかもしれない。
……たとえそれが、ドリンクファイト要員であったとしても。
「ああ~……エルくん……うつくしい……」
「かつみん~! 超可愛い!!」
シャンデリア風の照明が下がっている。テーブルには白いクロスがかけられ、それぞれ色とりどりの花が飾られている。
一見すれば、ちょっと高級なカフェ。ただし、壁際に等身大のアニメイラストのパネルがなければ、の話。
「『ロイヤル学園』、だっけ?」
私の質問は、写真撮影に夢中な千里子には届かない。仕方がないので、渡されたメニュー表を眺める。
スマートフォンでできる、女性向け恋愛ゲーム……いわゆる乙女ゲー。
庶民派ヒロインが、お金持ちばかりの学園に特待生として入学することになり、そこで出会う超上流イケメン男子たちと恋に落ちるという、どこかで聞いたようなストーリー。
誘われていそいそやってきたのは、そのコラボカフェ。学園のカフェテリアをイメージしているので、豪華な内装になっている。
アニメ化も予定されている人気の作品で、千里子が現在進行形でハマっているコンテンツだ。バイト代のほとんどを、このゲームに費やしている。
千里子のお目当ては、ドリンクいっぱいごとにもらえる、オリジナルコースターである。
ただしこの特典、ブラインドになっている。中が見えない上に完全ランダム配布のため、確実に好きなキャラがゲットできるとは限らない。ふたりの方がドリンクをたくさん注文できて、確率も上がるからと、千里子はよく私のことを誘う。
私が好きな漫画のこともあるけれど、だいたいは名前しか知らないジャンルだ。
「あ、千里子。写真撮ってあげよっか?」
せっかくキャラクターの等身大パネルがあるのだから、その隣でツーショットでも撮りたいんじゃないかと、気を利かせて手を差し出した。
すると、途端に嫌そうな顔で振り返る彼女。眼鏡の奥の目が、じとーっと、私を睨む。
え、そんな変なこと言った?
訳がわからない私に、千里子は「やれやれ」と首を横に振った。
「あのねえ、由梨乃さんよ」
「はい」
「この! 二次元イケメンの隣に三次元の女は異物でしかないのよ! 異物!」
甲高い声はしかし、オタク女子たちの興奮したお喋りに紛れた。みんな目の前のキャラに夢中で、他のテーブルについては関心がなかった。
撮影を堪能した千里子は、ようやく席に座って一息ついた。オーダーは紙に書いて、店員に渡す。ロイヤルな学食ということもあり、クラシカルなメイド服の女性と、執事服の男性が働いている。
周囲を見れば、ワンピースできれいめな格好のお姉さんが多い。
私は自分の服装を見下ろした。千里子に何も言われていなかったので、普段着で来てしまった。おしゃれとは程遠い。
デニムはやめておいた方がよかったかな、とか、もっと可愛いブラウスを着てくればよかった、とか。
そんな後悔がちらりと頭をよぎるけれど、目の前の席に座る千里子は、ちっとも気にした様子がない。
運ばれてきたドリンクより先に、千里子は特典の中身を確認した。私の分も、お目当てのキャラとは違っていたらしく、小さく眉根を寄せた。
それから、ズゾゾと音を立ててドリンクを吸引し、さっそく次の注文用紙に記入している。
特製ドリンクは、とにかく甘かった。謎の青いシロップは、何味とも判断がつかない。そこに透明なゼリーが入っている。炭酸にでもしてくれればまだマシなのに。
ちなみに私の好みではない。千里子の好きなキャラの相方(?)のドリンクだから、という理由で、一杯目は勝手に注文されてしまう。
メニュー表を見ながら、今度は私好みのを注文しようと、ストローをくわえたまま検討する。
「なんか元気なくない?」
飲み切っている千里子は、頬杖をつきながら言った。
小学校入学からの長い付き合いだ。多少の顔色の悪さだとか、飲み込んだ溜息なんてものは、すべてお見通しである。
私はじっと、千里子のつぶらな瞳を見つめる。親友だからって、何でも話すことができるわけじゃない。甘ったれた依存はお互いにしない。
でも、困ったことがあるなら話してみれば?
そう促す態度に、私は口を開く。
「千里子はさ、漫画家になるんだよね?」
「うん」
多くの人が、子どものうちに捨ててしまう将来の夢。本気でなりたいと思っていても、他人の目を気にして、馬鹿にされれば諦めてしまう。「好きを仕事に」なんて、そう甘くはない。
そんな中、高校生になっても千里子は夢を諦めなかった。
小学校の昼休み、自由帳にイラストを描きながら、「漫画家になる」と言ったのと同じ熱量で、自分の好きなことを追求している。
「そういう信念ないから、うらやましいなって思って。改めて」
外村くんがアイドルを目指すのと同じで、自分の夢に向かってまっすぐだ。
千里子は私の視線を受け、ぱちくりと瞬きした。
「いや、本当に改まって、なに? どんな心境の変化よ?」
好きになったら一直線、猪突猛進な千里子は昔から変わらない。その隣で私は、応援する気持ちはもちろんある。
だが、うらやましいとはっきり口にするのは、初めてのことだった。
私は正直に、でも外村くんの名前を出すことはなんとなくはばかられて、
「千里子と同じくらい、自分の夢に真剣な人のことを知って、自分が何も持ってないってことに気づいたの」
と言った。
笑い飛ばされるかな、と思った。大抵のことは笑って流すのが千里子流。自分だけが深刻ぶっているのだと気づかされて、どうでもよくなるのが常だった。
けれど、千里子はなぜか、笑わなかった。真剣なまなざしで私を見る。睨みつける。
「何にも持ってないって、あんたそれ、本気で言ってる?」
「千里子?」
オムライスのスプーンを、ぴしりと鼻先に突きつけられる。本気で怒っているのがビンビンと伝わってきて、私は唇を引き結び黙った。
「由梨乃はね、いーっぱいイイトコあるんだから!」
指折り教えてくれるのは、千里子から見た私の美点。
文句ひとつ言わずに努力できること。成果が振るわなくても、他人に決して当たらないこと。普段目立たないけど、覚悟を決めると意外と大胆な一面もあること――……。
「ちょ、もういい。ストップ、ストップ!」
褒められることには慣れていない。真顔でひとつひとつ教えてくれるものだから、頬が熱い。
「そう? まだまだいっぱいあるけど?」
「いい、いいから! わかったから!」
パタパタと顔を手で扇ぐ。きっと真っ赤になっている。
千里子はドリンクに載っていたチェリーを私に差し出し、笑う。
「まあ、あんまり気にしないようにしなよ?」
「うん……」
強くやりたいと思うこと、将来の夢はまだない。でも、私にもできることは、いろいろあるのかもしれない。
結婚して家庭を築くこと。そのための大学を選ぶこと。それ以外の幸せがあるのだと、私は母に示さなければ。
千里子に教えてもらった武器を握って、反旗を振りかざす。まだその勇気はないけれど、夏休みまでにはどうにかしたい。先延ばし? いいや、これは戦略だ。
ぐっと拳を握って決意を新たにする私を、千里子はいつの間にか、にやにやと見守っていた。
「なに?」
「ううん? そうやって変わろうと思い始めたのって、誰の影響かなー、と思ってさ」
グラスの底に固まったゼリーを崩す手の動きを止める。まじまじと見つめる千里子の目は、いたずらっぽく細められた。
「それでー? 外村のこと、どうなの?」
「はっ?」
なんでここで外村くん……私はここに至るまで、一度も千里子の前で、彼の話をしたことはない。
「なんで」
「ふっふっふ。見てればわかるよ」
クラスも違うのに?
しかし、よくよく考えてみれば、漫研仲間は同じクラスである。それに、千里子はコミュ強だ。
私の動向はもしかしたら、筒抜けになっているのかも。綿貫さんに呼び出されて以降、クラスでちょっとだけ浮いた存在になっていることも知っていて、毎日昼休み、遊びに来てくれるし。
「それで? 好きなの?」
自分自身のリアルな恋愛について、千里子はまるで興味がない。三次元の男なんかいらない、二次元のイケメンがいればそれでいいという彼女だが、恋バナは好きだ。
ふふふと笑いながら、私に耳打ちしてくるので、慌てて首を横に振った。
「そういう好きじゃないよ!」
何でもかんでも恋愛感情に結びつけるのは、いかがなものか。
千里子は、いつもそう。漫画の登場人物たちの関係性は多様なはずなのに、「ライバルってことは付き合ってるってことね!」と、訳のわからない理屈で恋愛関係に歪める。
フィクションの世界ならば、「好きにすれば」だけど、私も外村くんも現実を生きる高校生だ。勝手に決めつけられるのは、困る。
私の焦った反論を聞き入れたのか、はたまたそうではないのか。どっちつかずの状態で千里子は、
「ま、恋かどうかは置いといて。好きは好きでしょ?」
と、追撃してくる。
好きと嫌いの二元論に落とし込むとしたら、もちろん、好きだ。
転校初日、彼の笑顔を見たその瞬間から、ちょっとだけ特別な男の子だった。あんな風に笑う男の子、初めてだったから。
知れば知るほど不思議な存在に思えるし、まだまだ知りたいという気持ちが芽生えてくる。
純粋な好意だったり尊敬だったり、はたまた好奇心だったり。
私が彼に抱く感情は、常にプラスのものだった。
そんなことをつらつらと、千里子に対して語っていると、訳知り顔で彼女は言い出した。
「それは、推しよ」
「推し」
最近よく聞く言葉だが、その概念はおぼつかない。千里子曰く、定義はオタクの数、すなわち星の数ほどあるから、自分なりの意味を与えろとのこと。
「とにかく、その人のことを考えていると幸せだったり苦しかったり、いろんな感情でぐちゃぐちゃになったり、生活に張り合いが出てきたり、新しいことに挑戦したくなったり……エネルギーになるのが推しってやつなのよ。ま、その分お金もかかるけど」
ドン、とテーブルの上に置かれたのは、ピンクの髪をしたイケメンキャラの缶バッジが大量についた鞄だった。しかも缶バッジの絵柄は全部同じもの。いわゆる痛バッグという奴だ。
バッジは今回のコースターと同じく、ブラインド商品。もちろん全部自力でゲットしたわけじゃなく、交換で手に入れたものも多いが、それでもいくら費やしたのかは、怖くて聞けない。
「それでね、由梨乃」
「うん」
推し活について熱弁を奮っていた千里子が、カッと目を見開く。あまりの迫力に、仰け反る私。
「ど、どうしたの?」
「あんたが本当に、外村のことを推すなら……推せるときに、推せ」
言いながら、彼女が鞄の中から取り出したのは、別の作品のアクリルスタンドだった。
「こ、これは……!」
「そう……アルデバラン中尉よ」
去年、千里子が夢中になっていたSFアニメの登場人物である。
もともとは小説で、私は原作を読んだことがあった。アニメはイケメンオンパレードに改悪されていたため、あまり興味はなかったが、千里子の萌えトークは毎週付き合っていた。
で、そのアニメの中で千里子が一番好きだったのが、アルデバラン中尉。
『この優男、絶対に裏があるわ! 開眼したら鬼畜になるタイプ!』
興奮する彼女に、私は言えなかった。
アルデバラン中尉は裏表のない、普通に頼もしい上司。そして原作では二巻で、主人公たちをかばって死んでしまうということを――……。
アニメでも五話で亡くなり、千里子はその次の日、学校を休んだ。
「推しはいつか、死ぬ」
悟りを開いたような一言に、うっかり納得しかけるも、いやいやいやと首を振る。
「外村くんは、そんな簡単に死なないよ」
人間いつか死ぬのは真理だけど、同い年の男の子が急に死ぬとは考えづらい。
そう主張した私に、千里子は次の手を打つ。
「誰、これ?」
スマートフォンに表示された男の人は、金髪にピアスをたくさん開けていて、ちょっと怖い感じがする。お近づきになるのは遠慮したいタイプ。
「彼は、特撮ドラマに出ていた俳優で、芽里の推しだった人」
スマホの画像はネットニュースの一部で、スクロールしていけば、「引退」の文字。
「ああ……」
「ちなみに芽里は、次の日学校を休んだ」
顔はまったく似ていないのに、そういうところはよく似ている。
「生きている人間でも、いつどうなるかなんて、わかんないのよ」
今は外村くんと同級生だ。
じゃあ、卒業したら?
彼が芸能界にいる間は、メディアを通じて、動向を知ることができるかもしれない。でも、もしも彼が引退して、一般人に戻るとなったら。
現時点で、外村くんは金子くん以外の人と、連絡先を交換していない。もちろん、私を含めて。だから彼が引退してしまえば、もう二度と、会う機会はない。
そう考えると、頭がグラグラする。
「それに、今買えるものが、後になってからも買えるとは限らない」
この間、買えなかった雑誌が頭をよぎる。そうだ。来月号が発売になったら、本屋で買うことができなくなる。取り寄せることはできるが……。
「千里子、私……」
千里子は大きく頷いた。
「先輩の言うことは、聞いておくもんよ?」
※※※
帰り道、本屋に寄った。連休中、遠出をする人も多いせいか、店内は疎らだ。レジカウンター内には店員がひとりしかおらず、のんびりと客を捌いている。
私は一直線に、女性向けファッション誌のコーナーへ向かう。他のものには目をくれず、『Lティーン』を手に、レジへ。
店員は、私の顔を見なかった。そういえば、逆に私も、彼らの顔なんて気にしたこともない。お互い様ということに気づいて、肩の力を抜いた。
大切に抱え持ち、帰宅する。幸いなことに、母は出かけていて、家にいなかった。
ただいまがむなしく響く玄関からまっすぐに、自分の部屋へ。鍵がかからないので、いつでもすぐに隠すことができるように、ベッドに寝転んだ。
ちょっと動機が不純だから、「買った!」と胸を張って言えない。たぶんこれは、ちょっとエッチな漫画が載っている雑誌を初めて買う、男の子の心理にきわめて近い。
先日、弟の部屋で見つけた青年漫画誌の表紙グラビアを思い出した。こんな気分だったのだろう。慌てふためいていたから、ついからかってしまったけれど、悪いことをした。
「……」
うるさい心臓の音から極力意識を逸らし、いざ、ページを開く。どこに載っているのか、あの子たちは言っていなかったな。目次を見ても名前がなかったから、インタビュー記事ではない。最初からパラパラめくっていくことにする。
流行の洋服を身にまとってポーズを決めるモデルの女の子たちは可愛かったけれど、それでも身近にいる人の方がよく見える。綿貫さんほどだろうか? と考えた。
一方的に嫌われてはいるものの、彼女がずば抜けた美少女であることは、素直に賞賛できる。
読み進めるうちに、モデルの子たちが写真の中であっても生き生きとしていることに気がついた。カメラマンの力だけではなく、撮られるプロの彼女たちの努力の結果でもあるのだ。
外村くんの顔をようやく発見できたのは、雑誌の半ばを過ぎたあたりだった。
プチプラブランドで初夏の着回し、と銘打たれた特集の中に、彼を見つけた。
可愛い・きれいめ系とクール・カジュアル系の二通りの着回しを、ふたりのモデルが務めている。前者の彼氏役として、外村くんが登場した。
私は、制服姿の彼しか知らない。しかし、誌面の外村くんの衣装は、本当の私服のように、しっくりと馴染んでいた。
白いTシャツとデニムに、ざっくりとしたサマーセーターを合わせただけのシンプルな組み合わせ。お父さんの休日ルックと違って、なんで外村くんは、こんなにオシャレに見えるんだろう。
顔? スタイルのよさ? それともポージングの妙だろうか。
とにかく、私が知っているようで知らない、新しい顔の外村くんが、そこにいた。
そうか。これが、アイドル。
自然でリラックスした表情だけど、ちっとも崩れていない。隣にいるモデルの女の子、もっと言うなら彼女の服が主役だということは忘れず、けれどどこか、印象に残る。
知らず、ほう、と溜息をついていた。隣の席に座っている彼と同一人物なのだと思うと、誌面の中で隣同士になっているモデルの子にも目がいく。
背は私と同じくらいだ。髪の毛をふわふわに巻いてアレンジしている。メイクはナチュラルで、唇は上品に光っている。
彼女に向けて、外村くんはあたたかいまなざしを注ぐ。女子とは一定の距離を置いている彼が、恋人の目で語りかけている。
チクリと、針が胸を刺す。気にしないようにしようと思えば思うほど、じわじわと広がっていく痛み。
雑誌を閉じた。でも、すぐに開いてしまう。見たくないのに、見たい。複雑な心境に、我がことながら混乱する。
何度見たって、外村くんの表情に変化はないのに。
彼の隣に立つことのできる女の子は、やっぱり特別にきれいな子じゃないとダメなのだと、理解させられてしまった。たまたま隣の席になっただけの私に、彼はこんな顔を見せない。
そこまで考えて、ふと気づく。雑誌を閉じて、起き上がった。ベッドに腰かけた状態で、呆然とする。
私、外村くんといったい、どうなりたいの?
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