【小説】出口はどこですか? 第14話
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ここどこだっけ。
真尋と別れ、沙樹は気が付いたら最寄りの駅の前にいた。どうやって帰ってきたのか覚えていないなんて、まるで定型文のようなもので、よく見聞きする状況ではあるけれど、実際に体験するとは思わなかった。ここに至るまでの現実を思い返す。そっか、ほんとに別れたんだな。
自分が言い出したことである。このまま、つき合いを続けることもできたのだ。でも、それはなんか違うと思った。いつまでも、真尋がつき合ってくれているという状況から脱することができないと思った。お互いにとって、ただの拘束にしかならない交際。真尋にとっては、交際ステータスの拘束。沙樹にとっては、心の拘束。もう、別れるしか、選択はないと思った。どう頑張っても、ふたりの未来が見えなかった。そう思ったけど……。でも、最後の真尋は、少し寂しそうで、1mmくらいは別れたくないって気持ち、あっただろうか。まあ、そんなこと考えてもしょうがないか。
駅からなんとなく歩き始めたものの、まっすぐ家に帰る気が起きない。とはいえ、星形の月に行くのも躊躇う。折原の顔を見たら、どうしても出口のことを思い出す。今はそんな気分ではないのだ。いつだって、そんな気分ではないけれど。今は特にそんな気分ではないのだ。でも、なんとなくユウヤに会いたい。あいつのどうでもいい話を聞いているだけで、癒される気がする。でもなぁ……気まずいよなぁ。星形の月は真尋と出会った店だし、ふたりのことを知っている人はたくさんいる。わざわざ別れた報告なんてしたくないけれど、これからどうしよう……。
「ふざけんなよ、クソ女! 金持ってこいって言ったろーが!」
怒号が響き、沙樹は足を止めた。気が付いたら、星形の月の手前まで来ていた。男の声が聞こえたのは、その裏の路地。覗いてみると、業務用の大きなごみ箱の向こうに、男女がいる。暗くてよく見えないが、ホストのような男と、水商売風の女。
「バースデーイベントでいっぱいお金使ったじゃん。オリシャンだって――」
「いつの話してんだよ! 今必要なんだよ、金が!」
はぁ……気が滅入る。なんでこんなものを見てしまったのだろう。沙樹は踵を返した。
とはいえ、これは星形の月へ向かう道。もういいや、ここまで来たなら店に行こう。歩き始めた時。
ガコッッ!
大きな音が響いて、先程のホストが路地から出てきた。嫌な予感がして、沙樹は裏の路地に引き返す。女が倒れている。慌てて駆け寄る沙樹。
「カヨさん!?」
ゴミ箱にもたれ掛かるように倒れている女性は、星形の月の常連のカヨだった。
「え、どうしよう……警察……いや、救急車……」
「大丈夫だって、沙樹君」
カヨはよろよろと上半身を起こした。
「ちょっと押されただけだから。全然へーき」
躊躇いながら、沙樹は転がっているカヨのヒールを拾い、履かせた。たしかに、殴られたような形跡はなかった。カヨが言う通り、押されてゴミ箱に倒れ込んだのかもしれない。
「あは、恥ずかしいとこ、見られちゃった」
「いや、そんなことは……」
そう言いながら、溜息をついた。ほんと、最悪な気分だ。なんなんだ、今日は。
カヨはゴミ箱に手をつきながら立ち上がると、靴を履き直し、転がっている小さなピンクのバッグを拾い上げた。カラカラ、とバッグからリップが転がる。沙樹はそれを拾って、カヨに手渡した。ありがと、と言って受け取るカヨの手には、擦り傷ができていて、血が滲んでいる。恐らく、倒れ込むときに擦りむいたのだろう。ほんと、もう……。
「星形の月、行きます?」
店で消毒でもしてもらえばいい。アルコールはたくさんあるし。……それは違うか。
「うん、行く」
沙樹を置いて、カヨは何事もなかったかのように、すたすたと歩き始めた。あまり気が進まなかったが、沙樹も続いて歩き始めた。ただでさえ、星形の月に行くのを躊躇っていたのに、こんな気分で店に向かうことになるとは。逃げ出したいような、でも逃げるところもないような。暗澹たる気持ちで、星形の月に向かった。
「らっしゃーい! あれ? 珍しいコンビ」
ドアを開けるなり、明るいユウヤの声がふたりを迎えて、沙樹は心底救われた。
「やっほー。たまたまそこで会ったんだ」
元気なカヨの声に、沙樹の胸がチリチリと痛んだ。不快な痛みである。
カヨがカウンターの真ん中に席を取った。こういう時、普通隣に座るよな。でもそんな気分ではない。さすがに、彼女と別れてその帰りに、他の女性の隣で酒を飲む気にはなれない。カヨの隣に一つ空けて、座った。
「ええ? なんで隣に座んないの?」
予想通り、カヨが絡んできた。まあ、そうだよなぁ。
「沙樹君は紳士だからね。レディとの距離感を保ってんの」
「なにそれー」
ユウヤの意味不明なフォローのおかげで、沙樹は面倒な言い訳をせずに済んだ。
「ジントニックでいい?」
「いや、えっと……そうだな、バーボン、ロックで」
「はぁ!? どうしたの、沙樹君!」
「え、そこまで驚く?」
「驚くでしょ。沙樹君がバーボン、ロックって!」
「普通でしょ?」
「まあ……」
ユウヤはちらっと沙樹の顔を見てから、背後に並ぶボトルを指さした。
「どれにする?」
「んー、じゃあ、メーカーズマーク。ダブルで」
「あいよ」
ユウヤは赤い蝋が垂れた特徴的なボトルを手に取りながら、カヨを振り向いた。
「カヨさんは、レモンサワー?」
「んー、今日はテキーラにする。ショットで」
「はぁ!? テキーラ?」
「なんなのもう、さっきから」
「こっちのセリフだよ! どうしたの、ふたりとも」
妙な沈黙が流れた。沙樹はなんとなく、カヨの事情も察しているが、話したくはないのだろう。沙樹も真尋とのことを話す気はなかった。
でも、ダサかったかもなぁ。別れたからって、いきなりジントニックやめるのも、なんだか失恋して髪を切るみたいな、女々しさがあったかもしれない。まあ、でも、今日だけだ。今日は違う酒が飲みたい気分なんだ。明日からまた、ジントニックを飲んでもいい。今日だけ。
「まあ、いいけどさ。そんな気分なんだね、りょーかい」
そう言うと、ユウヤは酒の用意を始めた。
店内を見渡してみたが、折原の姿はなかった。また、どこかに出ているのだろう。店はだいぶ賑わっているので、すぐに戻ってくるはずだ。そんなこと、わかっていながらここに来ているのだから、今更問題はない。それでも、店に入ったタイミングで折原に会わずに済んだのは幸いだった。
「はい、こちらメーカーズマーク」
ロックグラスと、チェイサーが沙樹の前に差し出された。沙樹はロックグラスを手に取り、大きな氷がカラ、と動くのを眺めた。
「カヨさん、テキーラね」
塩で縁取られたショットグラスにカットされたライムが添えられ、それとチェイサーが、カヨの前に差し出された。カヨはショットグラスを手に取ると、ぐいっと飲み干した。
「うーん……」
心配そうな目で見つめるユウヤをよそに、カヨは壁に貼ってある海外のポスターを眺めながらライムを齧っている。そんなふたりを横目に、沙樹は、ふわっとアロマが香るメーカーズマークの、甘さの後に残る喉の熱を味わっていた。
「聞いていいのかわかんないけど……なんかあったの?」
「ないない、いつも通り! 沙樹君は知らないけど」
ふたりが沙樹の方を振り向き、様子を見ているが、沙樹は黙って首を振った。ユウヤは小さく、そっかぁ……と呟きながら、シンクの周りを拭き始めた。
「あたしね。ここのレモンサワー好きなの。居酒屋のと違うもん」
「まあ、うちは焼酎じゃなくてウォッカを使ってるから」
「うん、だよね。……テキーラ、おかわり」
「ええっ、そこはレモンサワーでしょ?」
「いいの、いいの」
「ペース早いよ、カヨさん。ほら、とりあえず、水でも飲んで」
カヨは顔にかかった長い前髪をかき上げると、手元にあったチェイサーの水をごくごくと一気に飲んだ。ユウヤは、うーん……と、泣きそうな顔をして戸惑っている。
「ユウヤ、カヨさん手に怪我してるみたいなんだ。消毒してあげて」
「え! そうなの?」
ユウヤは慌ててカヨの手を確認し、消毒するから手を洗って、と渋るカヨを強引に洗面所へ向かわせた。大変そうだな、と沙樹はユウヤを眺めてから、自分もきっと心配をかけているのだろうと、少し申し訳なく思った。甘えてるよなぁ。話す気もないのに店に来たのは、構ってほしかったわけではなく、へらへらと笑うユウヤの緩い顔を見たら安心できる気がしたからだ。結局は想定外のカヨとの遭遇があり、気持ちはぐちゃぐちゃになるわ、困惑させ過ぎてユウヤは笑顔どころじゃなくなるわで、こんなことならまっすぐ家に帰るべきだったと心底思う。これを飲んだら、帰ろう。沙樹はロックグラスを傾ける。それにしても、バーボンは正解だった。酒にもTPOがあるんだな。
消毒も終え、カヨの傷口には大きめの絆創膏が貼られていた。いつの間にか戻ってきていた折原が、手当てをしたらしい。折原がカウンターの中に現れた。
「かわいそうに。お酒はあまり飲まない方がいいよ。傷によくないから」
「そんな大した傷じゃないし。今日は飲みたい気分なの」
いつも飲んでるくせに、とは誰も言わなかった。
「沙樹君、いらっしゃい」
改めて迎える折原に、沙樹は目を合わせず、どうも、と小声で言いながら、ぎこちなく頭を下げた。何を言われるのかと、沙樹は身構えたが、折原は少し顔を出しただけで、カウンターはユウヤに任せ、キッチンの方へ隠れた。よかった、これ以上HPを削られたら体力ゲージが赤く点滅してしまうところだった。できれば、今のうちに回復したい。
「ユウヤ、チョコレートちょうだい」
「はいよ」
ユウヤはカヨの前にレモンサワーを置いてから、沙樹のチョコレートを用意する。
「ねえ、レモンサワーじゃなくってテキーラだってば」
「あんなペースで飲んだらカヨさん潰れちゃうよ。強くないんだから。それ、俺が奢るからゆっくり飲んで?」
「ん……ありがと」
カヨは大人しくレモンサワーに口をつけた。
「そういえば、晴希、元気? 弟くん」
晴希って……ああ、ユウヤの弟か。沙樹はドライブの時の話を思い出した。ユウヤの地元の先輩のカヨは、晴希のことを知っているらしい。いや、知らないのか。今、植物状態になっているということを。
「んー……ああ、うん、まあ」
ユウヤが言葉を濁した。
「もうおっきくなったでしょ? 高校生くらい? だっけ?」
「そうだね。……はい、沙樹君、チョコレートどうぞ」
三種のチョコレートが乗った四角いプレートを差し出しながら、ユウヤは沙樹に微笑んだ。沙樹はなんとなく、頷いた。大丈夫、カヨに余計なことを言ったりしない。安心してくれ。
「いいよねー。あたしも高校生に戻りたいなぁ。そしたら中退しないで卒業するんだ。んで、まっとーに生きる。はは、無理だっつーの」
「カヨさん、真っ当に生きてるじゃん。頑張ってるよ」
「あはは、ないない」
カヨはレモンサワーをぐいっと飲んで、グラスをテーブルに乱暴に置いた。
「どっからやり直せばいいのよ、もう。来世頑張るしかない?」
ゾクッとして、沙樹は慌てて折原の姿を探した。聞いてないよな? これは聞かれたらまずい気がする。沙樹は二階のあの扉の向こう、深淵に沈むような真っ暗な出口を、まざまざと思い出していた。
「もうー! カヨさん! 大丈夫だよ。やり直したいことがあるなら、今からだって大丈夫! カヨさん、ずっと頑張ってたじゃん。俺らの面倒だって、いつも見てくれてたじゃん。地元の奴ら、みんなカヨさんのこと尊敬してるよ?」
「尊敬とか、ありえないし」
「いや、マジで! キングの店で原口が暴れた時だって、カヨさんひとりでオーナーに謝罪に行ってくれてさ。俺ら知らなかったから、あとでびびったもん。そういうの、何回もあったじゃん。俺の弟だってさ、俺が帰れなくて晴希一人だった時に、カヨさん面倒見に行ってくれてたんでしょ? みんなカヨさんに感謝してるし、尊敬してるし――」
「なにそれ……みんなバカじゃん……」
カヨは手のひらで頬を拭うと、肘をついて反対側を向き、顔を隠した。
「まあ……だからさ? カヨさんが困った時は、助けてくれる人がいっぱいいるってこと」
「……ん、ありがと」
酷い気分に変わりはないが、ある意味、気分転換にはなったかもしれない。問題に問題を重ねて、種類の違う落ち込みを得ることができた。まあ、そんなもの、全く求めていないけれど。沙樹は、会計を終え、財布をボディバッグにしまっていると、ユウヤが声をかけた。
「沙樹君、明日の予定は?」
「昼間に母親と会うけど、それ以外なんも」
「あ、じゃあさ、できたら明日も店来てほしいな。相談したいこと、あるんだよね」
「いいけど、ここで話せることなの?」
「いや、仕事の後。早めに上がるからさ。仕事の前でもいいんだけど、折原さんと予定があるんだよね」
「そう……なのか。俺はいいけど」
「ありがと! お礼にぽれった君の缶バッジ、あげるから!」
「うっわ、いらねー」
カヨがぽれった君に反応していた。そういえば、あの妙な生き物はユウヤたちの地元のマスコットだと言っていたか。沙樹はふたりを放って、店を出た。ありがとう、またね沙樹君、と背後から追ってくる元気な声を聞きながら。
「やあ、沙樹君。お帰りかな」
店の外に、看板を弄っている折原の姿。なんだか不吉なデジャヴである。
「はあ、御馳走様」
沙樹は足を止めず、去ろうとしたが、折原の声が追ってくる。
「そういえば、気になっていたことがあるんだよ」
仕方なく、足を止める。すんなり帰してはくれないか。
「君に出口の話をしたのって、誰だったっけ。なんで君にそんな話をしたのかな」
「は? それはあんたが――」
いや。真尋だ。なぜ自分に話したか? ただ、興味がある話を周りの人間にしただけだと、思うけれど。
「彼女は、なんで知ってたんだろうね。出口の存在。僕は、彼女に話してないよ。これは、ほんと」
「どういう……」
折原は看板に手をついて、軽く寄りかかりながら、暢気な顔で空を眺めている。
「さあ。僕もわからない。僕は、君を巻き込みたくて、出口を見せたけど、彼女はなんで、君に話したんだろうね?」
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