【短編】カーテンを開けられない男
ひとりごとには、不安を軽減させる効果があると言われている。あるいは、脳を整理する効果があるとも。
彼の場合、その両方に当てはまる。
「ここはどこだ」
石上が目を覚ますと、そう独りごちた。
見知らぬ寝室。背にダブルサイズのベッドのスプリングを感じながら、体を起こす。
カーテンの向こうから後光が漏れ出ているのみで、部屋は薄暗い。
壁に手を這わせ、電灯のスイッチを入れたが、何の反応もなかった。
寝室を出ても、部屋は薄暗かった。朝なのか昼なのかも分からないが、どこかのマンションの一室のようだ。
「誰だ」
石上ははっきりと声を出した。リビングの一人かけのソファに、誰かが項垂れている。薄明かりのカーテンを背に、その影は彼を無視した。
動く素振りのない影に、彼は不審を覚え、ゆっくりと近づいていく。
「ああ…どうして…」
その影は人と言うには薄っぺらく、生き物と言うには生気が失せていた。
それは全身のところどころを齧られた、女性の死体だった。
索条痕はない。吐物もない。口元に泡沫もない。
齧られた後からは激しい出血もない。
窒息でも毒でも失血でもない。
では彼女は━━。
「どうやって…死んだんだ?」
彼女の体を一通り眺め、彼は彼女の足元に一枚の紙を見つけ、拾い上げた。
そしてその殴り書きの字を読んだ。
「カーテンを開けるな」
石上はその筆跡に慄いた。
彼の字だった。
思い返せば昨日何をしたのか、何も覚えていない。
「いつ私はこれを書いたんだ」
そしてこれはどういう意味だ。
後ずさった彼の足元で紙束が倒れた。
振り向くと新聞やら雑誌やらが散乱している。
避けようとそちらに視線を投げた時、その文字列が脳に飛び込んだ。
「……温暖化の影響で南極の氷結地盤━━アイス・グラウンド━━に長さ数十キロの亀裂が入り……」
唐突に強い頭痛に襲われた。脳髄をハンマーで殴られるような感覚。
歯を強く食いしばると、その新聞を丸めて壁へ投げた。
息を、整える。頭痛が、凪いでいく。
この部屋から出なければ。何か変だ。
だが、玄関のドアが叩かれたのはその時だった。
鉄製の扉に拳が打ちつけられる音。
外で何かを言っているが、くぐもって聞こえない。
「女を齧ったやつか?」
彼は手近の電話機を引き寄せ、耳に押し当てた。呼び出し音が鳴らない。この部屋にはそもそも電気が来ていないようだ。
彼は踵を返すと、ソファの死体のそばのカーテンへと向かった。ベランダから隣の部屋へ逃げる算段だ。
だが手を伸ばすと、再び脳が悲鳴を上げた。
体が開けることを拒絶している。
立ち眩む。先ほどよりカーテンが眩しい。
目をそらす。手だけを伸ばす。
視界に死んだ女が入る。この人は誰だろう。
玄関から突進の音がする。ドアを突き破る気か。
カーテンに指がかかる。頭がひどく軋む。吐き気がする。
玄関から破壊音。
カーテンを開く。
眩しい光に目を閉じる。瞼の裏で光が揺らぐ。
「何だ、この光は」
街にあたる光がこんなにもキラキラと揺らぐことはない。
目を薄く開く。光はまるでダイヤを回しているかのように、明滅する。
ベランダへ続く窓を開ける。
強い風が体を打つ。
背中から羽交い締めにされ、ベランダから離される。
その男は石上に喜びを伝えたが、彼には耳鳴りで何も聞こえなかった。
「臭いな」
新鮮な外気で洗われた石上の鼻が、ようやくその部屋の異臭を捉えた。
保護報告
2131年10月30日
アイス・グラウンド崩壊から45日
海水面が60メートル上昇したことで孤立した、タワーマンションの13階から男性を保護。同じ部屋から女性の死体を発見した。
妻と見られるその死体に食跡が見られること、男性の口元に乾いた血が付着していたこと、男性の記憶が不安定なことから、餓死した妻を夫が食べた後、精神的ショックで健忘症となった可能性が高い。
過敏な光、特に海面に反射する光を強く拒絶する。海水面上昇という事実自体から逃避し、精神だけでなく肉体もそれを拒絶していると見られる。混乱を避ける観点から、欠損した記憶、特に海水面及び妻に関する言及は避けるよう配慮が必要。
一方彼の脳はむしろ現実を解釈する方向に働いており、根拠として彼の発するひとりごとは俗に言う5W1Hから構成されることが多い。精神的な不安を軽減させるとともに、周囲の状況を整理しようとする兆候と見られるため、阻害しないこと。
(関東多島海 東第三拠点より)
こちらは以下の企画へ参加した作品です。
文頭を「ひとりごと」で始めています。
