【短編】ネヴァ川の夜霧に消える
眠れない。
名も知らぬ男が私の命を狙っている、その知らせを受けたのが昨日のこと。
私の所在はもう知られているのだろうか。いつ彼が銃口を突きつけて来るのかも分からない。
彼は私の死を欲しているのだ。
おちおち眠れるはずがない。
老齢の科学者ソコロフは実験室の天窓を見上げた。その日の半月の光は、サンクトペテルブルクの夜霧を払うにしては弱すぎた。
19世紀末の帝政ロシアでは、夜が長く、どす黒い。アナキズムの台頭から皇帝暗殺を企てる複数の組織と、それらを闇に葬る秘密警察との暗躍ゲームが盛んになっていた。
ソコロフは爆弾を製造している。硝煙立ち込めるヴィボルグ地区の片隅、石鹸工場に偽装した爆弾製造所。その地下の実験室で、ニトログリセリンの精製を担っている。
今晩死んでも文句は言えまいと悟った。
机上のガス灯がソコロフの影をレンガ壁に大きく映し、ゆらゆらと揺らした。彼は手近の机に手を這わせ、ペンを掴んだ。顔を宙に向け、革の手帳に数式を走らせる。
「目が見えないのか?」
男の声がこだました。
「ひどい鳥目でね」
「目が開いていないじゃないか」
銃を片手に若い男が現れた。
「オフラナか」
帝国秘密警察のことだ。
「お前は"夜明け"の科学者か」
我々の組織、セーリィ・ラズヴェット(灰色の夜明け)のことだ。
ソコロフはペンを置き、嗜めた。
「まあ落ち着きなさい。そこに座るんだ」
「断る」
「そうか。君のことは聞いていたよ」
「…ヴォルコフか」
「ああ」
アレクセイ・ミハイロヴィッチ・ヴォルコフ、灰色の夜明けの首謀者だ。
「ヴォルコフの所在を教えろ」
「誰も知らないんだ。私も彼の筆跡しか知らない」
「嘘だな」
「彼はネヴァ川の霧だ。誰も触れたことがない」
「そうか。じゃあお前に用はない」
銃をこちらに向ける。距離が少しある。
「最後に言い残したいことは?」
「ああ、そうだな」
指をガス灯にかける。
「君は鳥目か?」
ガスを絞る。部屋が暗闇に飲まれる。
発光。銃声。そして静寂。
人の目は明るくなった場所への順応より、暗くなった場所への順応に時間がかかる。
ソコロフは目を開けた。暗闇を見ていた目が、いち早く宙を彷徨う彼の銃を捉える。
瓶を投げる。音の方へ銃が向く。
発砲。間合いへ半歩踏み込み、すかさず男の親指の付け根を抉る。
銃を奪う。撃鉄はすでに起きている。腹に一撃。右足を払う。
「目は慣れたか?」
仰向けで血を吐く男に問う。
「…鳥目じゃ……」
「嘘はお互い様だろ」
ソコロフは慣れた手つきで銃に弾丸を一つ残し、残りをポケットへしまう。
「君が来ると分かって、久々に私の喉元に手がかかった感覚があったよ。そのスリルが楽しくてね。夜も眠れないくらいだったんだ。礼を言うよ」
装填し、突きつける。
「言い残したことは?」
「ヴォルコフの…所在を……」
「私だよ」
そして迷うことなく撃った。名も知れぬ男は反動で波打ち、息絶えた。
科学者兼首謀者の男は、月明かりの弱いネヴァ川の夜霧に姿を消した。
こちらは以下の企画へ参加した作品です。
文頭を「眠れない」で始めています。
