子どものふり見て我がふり直す父親としての私のあり方
私のnoteにご訪問くださいまして、誠に有難うございます。
国立大学医学部医学科卒の精神医療従事者で、趣味で自作曲とそのミュージック・ビデオをYouTubeとYouTube Musicなどで配信している音楽クリエイターのKoki Kobayashiです。
いつもお世話になり、有難うございます。今日という日があなたにとって心身ともに健やかで幸多い祝福に溢れた一日となりますようにお祈り申し上げます。
序言〜今日は次女の四歳の誕生日です^_^
さて、前々回と前回の記事で、私は呼吸法やイメージの力を活用した自律訓練法などのメソッドを受験勉強に活かして腰を据えて学ぶ方法について記させていただきました。
実は、今日6月23日15時38分をもちまして、わが家の次女がついに四歳になります( ´ ▽ ` )
そこで、今日の記事に関しては、勉強関連の連載の番外編ということで「子どもの振り見て我が振り直す父親としての私のあり方」と題しまして、特に発達障害を持つわが家の娘たちの育児と家庭療育の肝についてお書きしたいと思いますm(_ _)m
自律訓練法関連の記事でも、私が自閉スペクトラム症障害を持つ娘たちの知育や家庭療育においてどのようにリラクゼーション法を活用しているかについて後日また述べていく予定ですので、そちらの記事の方もよろしくお願いいたします^ ^
それではよろしくお付き合いくださいますようお願いしますm(_ _)m
「人のふり見て我がふり直せ」とは?
世の中で人口に膾炙した言い回しに「人のふり見て我がふり直せ」というものがありますね。
これは、私たちが他人の欠点や失敗を見たときに、まず何より自分自身の日頃の振る舞いを見直そうと呼びかけることわざだとされています。
つまり、この言い回しは、他人の行動や態度を見て、自分自身の行動や態度を省みて改めるべきは改めようという意味だとされているのです。
例えば、公共の場での誰かのマナーの悪さに気付いた時に、「自分も同じようなことをしてはいないか」と振り返って、思い当たる点が見つかったら反省するといういことですね。
人さまの良い行動や態度は見習い、悪い行動は反面教師として自らの改善に活かしていく、という教訓がここには込められているのです。
ですから、このことわざは、単純に他人を非難するのではなく、自分を成長させるための視点を持ちましょうというある意味で謙虚な姿勢を持つことを私たちに促しているのです。
これと近い発想のことわざは英語にもありますね。"Learn from others' mistakes"とか"Use others as a mirror to reflect on yourself" あたりが近い表現として挙げられるでしょう。
例えば通勤電車の中などの公共の場での誰かの振る舞いにモヤっとした時に、ちょっとだけでもこのことわざを心に浮かべてみると、自分の怒りや感情の乱れを調整することが出来ますし、さらには日頃の自分の振る舞いにまで思いを致して反省する良い機会ともなり得るでしょう。

人には理由や事情があるから、人さまを他山の石としない方が良い
私は「人のふり見て我がふり直せ」ということわざの素晴らしさそのものにケチをつけるつもりは毛頭ありません。
しかし、ちょっとここで立ち止まって考えてみてください。今の世の中は人間相互のリスペクトがかなり希薄になっているきらいがありますよね。
そのため、人と人とが容易く反目し合うことはありませんか? 何もそんなにキレなくてもというような場面で人様に対してキレてしまう人が目立つようになりましたね。
そのようなどこか冷ややかな隙間風の吹く世相の中で、人さまのマナーの悪さや失敗を他山の山にするようなデタッチした姿勢で居続けることを良しとする姿勢には、私は疑問があるのです。
例えばひとが満員電車の中で出入り口辺りの一角にしがみついているような「傍迷惑」に見える場合でも、もしかしたらその人は前日の睡眠不足や持病の症状で具合が悪いのかもしれません。
英語で"Seeing is believing"と言いますが、同時に"Appearances are deceptive"とも言いますね。つまり、「百聞は一見に如かず」」とも言うけれども、同時に「人は見かけによらない」とも言うわけでして、おそらくそのどちらも通用するケースがそれぞれにあるのです。
「ひとは見かけが95パーセント」とか、いや、人は見掛けが100%だと断言すべきだと声高に主張する方には申し訳ないのですが、精神医療に従事していますと、人さまの外貌とその裏に秘めた真実の顔との落差には慣れていきますので、人さまを容貌や外見やいっときの行いで評価することはまずなくなりますよ。
私の恩師である精神科医の中井久夫先生と臨床心理士でユング派分析家で在られた河合隼雄先生は、ともに「人のことなどわかるはずがない」とか「人間を理解することは命懸けの仕事である」と常々おっしゃっていました。
トラウマ疾患に伴うフラッシュバックの治療法としての神田橋処方を世に問うた精神科医の神田橋條治先生もまた、「患者に対して分かったつもりになることのない心理臨床家でないと危なくて一緒に仕事が出来ない」と言う旨のことを仰っています。
人さまの行いを他山の石と見て批判的に捉えつつ自己省察を図ることを美徳とするのはいかがなものかなと、私は常々疑問に思っているのです。

ひとにはひとの理由があることに思いを致そう
私と妻は自閉スペクトラム症とADHDを発達障害として持っている娘たちを育てています。
長女はこの春無事に小学校に進学しまして、次女も今日をもって幸いにも四歳の誕生日を迎えます。
ここに至るまで、私たちと保育園や区役所の子ども家庭支援課や障害高齢課の諸氏との間にも色々な葛藤がありました。
疳の虫の激しいわが家の娘たちの様子を見ていた保育士さんに、我が家でも虐待の連鎖があるのではないかと疑われたこともありましたし、児童相談所とある時は力を合わせ合いつつも、時に議論の火花を散らしたこともありました。
私と妻には生家のサポートやバックボーンがありません。妻の母も私の父親も既に故人ですし、私の母はいま終末期病棟に入院中です。妻の父親の行方も杳(よう)として知れないのです。
しかも私たち夫婦は虐待の中を生き延びたサバイバーとして行政や学校の先生方から認識されやすく、何かとそれらの先生方の認知バイアスを持って「虐待は連鎖するものだ」と言う烙印を押されがちだったのですね。
保育園や小学校や行政の方々とは〜その後紆余曲折を経て〜今ではすっかり信頼関係が構築されていますが、生家や親族による健全なサポートなしに家庭を切り盛りして子育てすることの大変さを痛感することがとても多かったのでした。
ひとにはひとの理由や背景があるのです。そこに思いを馳せることが出来ない、あるいはそもそもが人さまの事情や痛みに対して冷淡で無関心な眼差しを向けようとして憚らないなら、それはその方の心の狭量さと器の小ささを端的に物語っているのではないかとすら私には思える時もあるのです。

子どものふり見て我がふり直す父親としての私のあり方
私はnoteでは比較的丁寧な言葉遣いで文章をしたためているつもりなのですが、実は横浜市の浜の方で育ちましたチャキチャキの浜っ子ですので、日常話している言葉遣いがどうしても浜っ子弁になりがちです(^_^;)
それのどこが問題なのかと言われそうなのですが、うちの娘たちの話し言葉が近頃とみに私に似てきてしまっているのです。
つまり、ガサツさを感じさせるような荒っぽい言葉遣いになってきているのです。
長女も次女も自閉症スペクトラム症を持っている割には場のTPOを最近弁えるようになりまして、小学校や保育園では実におとなしくていつもニコニコしているようで、学校の先生方からの受けもすっかり良くなりましたが、自宅ではまぁ荒っぽい言葉を連呼しています(^^;;
妻は穏やかな関東弁を使いますので、どう考えても娘たちの言葉遣いの荒さというのは父親の私由来なわけです。娘たちが揃いも揃って強度のファザコンであることも、娘たちが私の日常的な言動から多くを模倣し、我が物として吸収してしまっていることに一役買っているのです💦
娘たちはふたりとも心の優しい素直な子ですから、余計にそのガサツな言葉遣いが親としては気になるところです。そこで、私は娘たちに注意する代わりに、まず今日から自らの言動にもっと気を配ることを決意いたしました。
娘たちのフリを見て娘たちを注意するよりは、まず父親がしっかりすることです。父親が家の憲法また規範として父性愛を体現していませんと、女性だらけの家というのは女子校化してしまって収拾がつかなくなるようです(^^;;
幸い、私も妻も読書や学習はしますし、息抜きにパソコンとシンセサイザーで作曲したりしていますので、娘たちにとっては本は読むのが当たり前ですし、登校して勉強することや宿題に自主的に取り組むのも当たり前になっているようです。パソコンで音楽ソフトを操作しさえするのです(^_^;)
加えて、娘たちはベネッセの通信教材で学ぶことも大好きでして、父親の私と一緒になってワイワイ言いながらしまじろうやコラショの課題に積極的に取り掛かることが日常化しています。恵みです^ - ^

発達障害を持つ娘たちに折りに触れて伝えている言葉の力
実は、今日のお話のキモとなる「発達障害を持つ我が子の家庭療育」のツボということに関しては、こちらの項で申し上げることがより大切なお話です。
うちの娘たちが物心つく前から、私が彼女たちに何度も何度も繰り返し読んだ絵本があります。
それは「うまれてきてくれてありがとう」(HEADS刊)という絵本です。文が中村麻美さん、絵が山本マキさん、そして監修が山本省三さんの手によるステキな絵本ですよ(^ ^)
私はこの絵本を読みながら、娘たちの名前を呼んで「〇〇ちゃんがあ〜ら可愛いっ」と合いの手を入れる癖があるのです。女の子にとって幼い頃に父親に愛情を注いでもらうことの大切さは観念的には私も存じ上げていますので、基本的には娘に対しては私はかなりの親ばかです(^^)
でも、親ばかでいいんじゃないかなと思うんですね。うちの娘たちは歳を重ねるごとにレジリエンスの力と困難に立ち向かう底力が目に見えてついてきていますし、知的能力や身体能力、さらには音楽をはじめとするアートの能力すらも豊かな芽生えを見せていますから。
この先いろんなことはありましょうけれども、私が一家の大黒柱として、そして父親として「あなた(たち)はみんなステキだよ。可愛いよ。あなたたち、生まれてきてくれて本当にありがとう。パパはあなた(たち)が大好きだよ」という気持ちをひとりひとりに対して欠かすことがなければ、わが家の家族はますます逞しく、そしてますます健やかに成長していけるのではないかと思っているのです。

違いを差別化して咎めるより銘々の特性を温かく包摂していきたい
今日は「人のふり見て我がふり直せ」という諺について反省的な思索を巡らしつつ、発達障害という定型発達の人とは異なった特性をその身に帯びてこの世に生を享けた子どもたちに対して「生まれてきてくれてありがとう」と存在を丸ごと全肯定する姿勢を父親が持つことこそが、家庭療育の肝の中のキモであろうと考えながらお書きして参りました。
定型発達の子やいわゆる常識のある人と、例えば発達特性豊かな子との違いを咎めることは容易いことです。しかしながら、人様の粗を探したり、人の過ちに対して心の中で距離をとりながら冷ややかに見詰めるその視線の先にあるものが〇〇ハラスメントとかカスハラなどのモンスター現象なのかも知れないですよね。
社会病理すらも個人の自己責任に帰せられてしまう今の世の中で、多くの人々は傷つき疲れ、諦めそしていつしか夢も希望もないような苦しい心身状態に追い込まれているのでしょう。
「人のふり見て我がふり直せ」の路線のちょっとクールな側面を生きようとして他者から距離を置こうとする回避的な人々にもそれなりの事情や理由はあると思います。特にそういう方に顕著に見られる回避性愛着の問題はさぞしんどいことだろうと拝察申し上げます。
ですから、突き詰めてそれぞれの人々の背景や理由にコミットして考えていきますと、みんな然るべき訳があることが明らかになるのです。ここに、イエスや親鸞のセリフの凄さや重みが明らかになりますね。
イエスが宗教人の偉いさんたちを一喝した「汝らのうち罪なき者まず初めに石を投げ打て」の鮮やかさといい、親鸞の「おまえは涙してその虫を殺したか」の慈悲に満ちた心といい、現代人がどこかに忘れて来てしまった魂の凄みというものをそこに観取するのは私だけではないと思います。
誰も他者を頭ごなしに裁いたり罪に定めたりする資格は本当はないのです。社会悪や犯罪の被害者を救済するためにも司法というシステムは機能して然るべきですが、だからと言って加害者サイドにも事情がまるで存在しないわけではありますまい。
個々人の違いを差別化して咎め立てていくよりも、私は銘々の特性の違いを温かく包摂していきたいと願っています。人それぞれ持ち味があり、背景があり、訳があるという厳粛な事実に思いを致すことを忘れずに、今日という次女の誕生日に父親の私がまず言葉遣いや振る舞いの模範を示すように自身を改革することを決意しました次第です^_^

結びに〜今日のお話はイランと米国の紛争にも適用可能な視点です
今朝もまた長くなりまして、失礼いたしました。
昨日アメリカ合衆国の軍隊がイランの核施設三ヶ所を空爆しました。
アメリカのトランプ大統領の支持基盤の一つが、福音派キリスト教徒とよばれるキリスト教原理主義の方々なのですが、これは日本人の多くの方々からしたら「戦争を始める大統領の支持母体がキリスト教とはどういうことなんだ」と疑問をお持ちになるところですね。
今日はもう長くなりましたので詳しく申しませんけれども、実は聖戦(ジハード)という他者排斥の思想は旧約聖書の中にその端緒を見てとることができるものですので、イスラム教の専売特許ではないのです。
今日私が本稿の中でお話しした内容を敷衍していきますと、個々の違いを尊重し合って互いの背景に想いを致しつつ互いに包摂していく方向ベクトルを取ることこそが、人と人との無益な争いに終止符を打つ道であるとおわかりいただけるかも知れません。
そうは言ってもイスラエルとアラブの問題、さらにはアメリカ合衆国とイランとの確執は一筋縄では行きませんよと仰る諸賢もおられましょう。なるほど仰るとおりです。
しかしながら、精神医療の現場で出会う人々の難行苦行をほどく道を共にすることと、国家間の無益な掃討を緩和させていく路との間には、スケールの相違はあってもその本質に差異はないのではないかとも愚考するのです。
最後に話が逸れて申し訳ありませんでした。
今日は次女の誕生日にかこつけて、違いを包摂していくことの大切さと銘々の背景に想いを致す想像力を持つことの意味、そしてそういう父性愛のある気概を持って家族や人々を全肯定しながら包摂していくことが、人間が持ち得る慈愛の一つの理念型ではないかという趣旨のお話をいたしました。
最後までお読みくださいまして、誠にありがとうございました。
あなたの上に今日天からの豊かな祝福と励ましがありますように祈りつつ。
感謝を込めて。
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サポートしていただけたら感謝の極みです。頂戴したサポートはクリエイターとしての私の活動資金に使わせて頂きますが、同時にまた、私が協同しているこども食堂への寄付にも充当させていただきます。その子ども食堂はGhana出身のトニー・ジャスティスさんが運営する「ノヴィーニェ」です!