法話をしますか。『聞かぬ』が悟り—静かに座ることの価値

透けナマコさん、チャッティさんから、法話してくれ~って感じのコメントを頂きましたので、少しそれっぽいことをします。
でも軽い法話をします。
今日の法事で参加された方の中には大人に限らず幼稚園の子も数名いました。
私が言う「法事」は基本的には60分をさします。
その家の方が前もって「10時半から11時半まで法事があるよ」って言ってくれればいいのですが、よくあることですが
子供が大きな声で、「まだ終わらないの?」とひらすら聞いていますね。
結構、読み手としてはせかされる感覚もありますね。
子供だからっていうのは、私の中ではあまり感じていないことです。
法事はこういうものって理解、体で覚えてもらう機会ではないでしょうか?
子供が駄々をこねれば短くなる、早く終わる、それが法事ではないからです。
いかなる行事にも順序があり、儀式として1から始まり終わりまで済ませていかないと儀式として成立しないという思いが私にはあるからです。
こういうときに親が子供に伝えるべきことはたった一つです。
「ゆっくり終わるまで待ちましょうね」です。
安易に、まだだよ、とか、もうすぐだよって言われてももうすぐ終わりません。
特にこういう事を口に出す子は開始15分でこの話をしています。
60分かかるのですから、4倍まだ時間がかかるということです。
私たち大人も含めて訳のわからない中国語で書かれたお経というものを聞いているのは実に退屈だろうとは思うのです。
私も100%内容を把握はしていても理解してはいません。
意味が分からないですか?書いてある文章の内容は知っていますが、深い意味、理由がわかるならもうとっくに解脱して仏陀=悟りをひらけているというものです。
ですからお経の解釈を読んでわかった気になる、これが一番危険なことです。
その話は置いておいて、そんな聞いてもわからないお経をあえて、中国語のまま読むのには理由があります。
よく意味も理解しないまま日本語訳したものに価値があるのか?
そしてこの中国語で書かれた文章にあてられた漢字は1文字1文字に意味があり、この字でないといけないとすら言われています。
そんな深い意味を持った1文字1文字を選んで書物としてきた先人の知恵を法事という場で朗読する
これが法事です。
ですからあえて、日本語訳もしませんし、勝手に短くすることもできないのです。
では、理解出来ないお経というものを何故、静かに聞く必要があるのか
その答えは至ってシンプルです。
お経は地球上で唯一悟りを開かれた釈迦の説法であり、その説法を頭で理解するのは基本的に不可能です。
自然の摂理を頭で理解するのは困難です。
ですから教えは毛穴からしみこむという表現がされます。
つまりその場にいることに意味がある
その一言が結論なのです。
ただいるだけで価値があることなのです。
釈尊の説法を代読という形で私たち僧侶は皆さんに言葉として運んでいるのです。
頭は理解しなくても人間は動物であり、知性を持つ一方で理解出来ないことを察知する能力もしっかり持っています。
それをする場が法事という場です。
そもそも法事が何故営まれるのか。
それも簡単です。亡くなられた方をご縁に法事が必ず勤まります。
「ご縁」だという事実。
これは私たちの意思とは無縁なところにあります。
これこそが仏縁であり、この仏縁を頂く場こそが法事だといえます。
そのような貴重な場に行かせて頂く、出席させて頂くことは釈迦の説法がきける貴重な機会だ、と考えてもらえたらラッキーだと思いませんか?
私は少なくともそういう感覚で法事を勤めつつ、自分も今一度釈迦の説法を皆に伝えつつ、自分でも口にする、目にして見る、という大事な行為をしております。
ですから今後も法事はなくならないだろうと思っております。
という感じで軽い説法を終わらせていただきますね。
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