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『デミアン』を読んで――自分の人生を歩む

きみはときどき自分をふうがわりだと考え、たいていの人たちと違った道を歩んでいる自分を非難する。そんなことは忘れなければいけない。(中略)予感がやって来て、きみの魂のなかの声が語り始めたら、それにまかせきるがいい。それが先生やおとうさんや、いずれかの神の心にかなうか、お気に召すかなんてことは問わないことだ。そんなことをしても、自分を毒するだけだ。

「デミアン」:ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳、新潮文庫p163

上は、ピストーリウスから悩めるシンクレールへの言葉である。超人の見事な言語化だと思うと同時に、他者を動物扱い(引用外の場面)する傲慢さが善人との乖離を感じさせる。

昨今の社会風潮的には、協調性のない優秀な人材よりも、普通で無害な善人が良いとされていると感じるので、ある意味で真逆の思想といえるだろう。普通の善より「ふうがわり」だと自分自身で感じるほどのずれを尊重する、そんな生き方ははたして正しいものだろうか。

そもそも何をもって正しい生き方とするかが不透明なので、正しくないと仮定したときの問題点を述べようと思う。


まず、「ふうがわり」な自分を自分自身で否定する生き方は不健康なものである。問題は歩む道が「違っている」と感じているところで、人はしばしばこの部分を「嫌だ」「楽しくない」であることと同じだという大変な思い違いをする。

彼、シンクレールには歩むべき道もその根拠も考えついており、それを否定する理由は「他の人は皆そうしてない」というもの以外にない。後者の人間は自らの歩む道を見つけもせず、もしくはありふれた言葉と反抗から楽そうに見える道を自身の運命などと勘違いする愚物である。

さらに問題として、このような愚物は世間に数多く存在しており、その多くは年を重ねることで蟻へと戻っていくのだが、彼らはシンクレールのような者の悩みを、自らの低劣なそれと同一視するのだ。決まって彼らは言う、「自分も同じように考えたことがある」と。この言葉を真に受けてはならない。彼らは何一つとして考えだしたことなどないのだから。

話が少し逸れたが、「違っている」と思い続ける道を歩むのは、特に精神の健康上よくないとされる。18か月の間男としての生活を体験した、女性作家ノラ・ヴィンセントはうつ病を発症し自ら命を絶つ選択をしている。確固たるアイデンティティには命をつなぐ価値があるのだ。

そうした観点でみると、ピストーリウスはシンクレールの命を救ったともいえる。また、私たちは命を尊重する限り、他者の「ふうがわり」な生き方を許容する必要があるのだろう。それが彼にとって、必要なアイデンティティであるならば。

私自身、自分を「ふうがわり」と感じることもある。これは善人には訪れない、呪いである。

それでも、『デミアン』を読んだ今、そんな自分を否定することなく生きていきたい。友人や恋人、親のお気に召すかなんてことは問わないことだ。

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