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『デミアン』より――「理解」とは何か

しようと思えば、私は彼らの大部分のものを非常によく見ぬいて、ときには彼らを驚かすことができた。ただ、そんなことをしようと思うことはまれであるか、ぜんぜんなかった。いつも私は自分自身のことにだけ没頭していた。しかしもういいかげんに、生活の一片を生き、自分の内部のなにかを世間に与え、世間と関係を持ち、世間と戦いたいと、切望した。

「デミアン」:ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳、新潮文庫p145
 

このような感性は普遍的なものなのか、一部の鋭い感性の持ち主固有のものなのか、私にはわからないが、この文章は私の孤独感やニーチェのいう「友」と通ずるものがあると思う。

他人をよく理解してしまう、それも本人が気づかぬよう隠れ、逃げている部分にまで明かりを当てることができてしまうとは、不幸に直結する。人間は他人のことを理解し、他人に理解されることを望むが、これは記号化された欲望の形であると知らなくてはならない。本質的には、人は理解ではなく安心を求めて他人と視点を同じくすることを望む。滑稽な自分を知られるよりも、自らの滑稽さにいかなる理由、洞察、心の機微が隠されているかを知られたいと願う。
 

私の場合はどうか。私は私が他人を理解するのと同じように、他人が私を理解してくれることを望んでいる気がする。「どうしてこんなこともわからないのだ」と憤慨している。このしがらみから抜け出すには、精神が未熟すぎる。


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