長編|恋愛ファンタジー|誰がお嬢さんだ-3-
食事を終えた二人は、宿まで港沿いの通りを歩いた。
この町に着いて、はじめの二、三日は海面に揺れるいびつな月を指して喜び、リドルフが止めるのも聞かずに、身を乗り出して海の水をすくって口に含んでみせたり、子供のようにはしゃいでいたセティも、さすがに十日が過ぎるとただ眺めているだけだった。
彼らの生まれ育った故郷は遥か北で、山と谷に囲まれ、冬には雪も積もる。大陸中を行き来する商人でもなければ、そこに住む人間の多くは海を一度も見ることなく生涯を終える。むろん、十七歳のセティも二十四歳のリドルフも、海を目にしたのは初めてだった。
「とうに陽は落ちたのに、暑いなあ」
海には見慣れても、この湿気を多分に含んだ生ぬるい夜の空気には慣れない。
「ガイゼス王国へ入ればもっと暑くなるでしょうね。草木は枯れ、砂の大地があるというぐらいですから」
「いいな、砂の大地か。早く見てみたい」
セティが倦んでいるのが、リドルフにはよく分かっていた。
アイデンでの滞在は一月になろうとしていた。ガイゼスの国境は目と鼻の先だとういうのに、未だその地を踏めずにいる。
ナディール王国からの完全な独立を目指し、今日のガイゼス王国の基礎というべき勢力が北の大国ナディールを相手に大戦を展開したのは、今から十八年ほど 前のことになる。
およそ一年間の決して長くはないが、世界が滅びると言われたほど熾烈な戦ののち、両国間で停戦条約が調印され、そのまま今日に至る。そういう背景があるのだから、当然、両国間の人の行き来は自由というわけにはいかないのだ。
「なあ、リド。私は何に見える?」
「何に、とはどういう意味ですか?」
「傭兵か? それとも商人か?」
幾分酔いが回っているのか、ほのかに頬を上気させた、女神の化身のような青年を見つめて、リドルフは困ったように笑った。
「いいところ、大商人か貴族の子息でしょうね」
セティは憤慨したようすだったが、リドルフとしてはそれでも譲歩した答えを口にしたつもりだった。本音を言えば、その線も少々厳しい。
「やはり、密入国しかないかな」
ガイゼス王国に入国するには、身分証を沿えて国境で審査を受けなければならなかった。リドルフは身分証を持っているが、提示するわけにはいかず、セティには身分証がない。
「なにか、もっと平和で合理的な方法があるはずです。もう少し、考えましょう」
「懐も大分暖かくなったことだしな」
セティが芸人のような真似をしたのは、退屈していたのとは別の理由があった。
路銀が底をつきかけていたのだ。すぐに金に換えられるものはいくらか持っていたが、ナディール通貨もガイゼス通貨も流通する、国境の狭間の町では換金の手間賃がかなり割高である。
「セティは路銀の心配などしなくていいのです。仕事なら、私がしますから」
とは言ったものの、リドルフの笛の音に合わせたセティの舞いに人々が投げてよこした対価は、今の生活を二月ほど続けられるような額のものだった。リドルフが仕事をする必要は、当面はなさそうだった。
そのとき、並んで穏やかな海を眺めていたセティが唐突に振り返った。リドルフの反応はそれに一呼吸ほど遅れた。
「なにかご用ですか?」
一同で一番先に口を開いたのは、リドルフだった。
空気を無視した、いささか間の抜けた問いに目の前の三人の男が、一斉に声を上げて笑った。
「坊主には用はねえ。俺たちが用があるのは、横のきれいなお嬢さんだ」
「確かに私は神に仕える者ですが、私の横に女人などおりません」
真面目くさって答えたリドルフに、赤黒い顔をした男たちはまた声を上げて笑った。赤黒い顔は日に焼けているせいだけではない。酒に酔っているのは明らかだ。
「坊主、怪我をしたくなければ引っ込んでな。俺は、このあたりじゃ、ちいと名が通っているもんだ。大人しくお嬢ちゃんさえ置いていってくれれば、いい」
リドルフはちらりと傍らのセティを見た。
憮然とした顔をしてはいるが、まだ、剣の柄に手は伸びていない。リドルフは、彼がどのくらいの酒を飲んでいたか、思い出そうとしていた。
「あなた方は勘違いをしています。この人は──」
「アニキ! こいつ、坊主のくせに剣なんか背負っていますぜ」
リドルフは彼らにとって有益で、重大な事実を知らせようとした。しかしそれは、一番小柄で前歯の突き出した男によって阻止された。
「へえ。このあたりじゃ珍しい代物だな」
リドルフが背負っている剣は、かなり大ぶりだった。鞘に納められているので定かではないが、抜けば長身のリドルフの身の丈と同じほどはありそうだ。
「北の国では、坊主がそんな物騒なものを振り回すのか。おもしれえ、お手並み拝見させてもらおう」
「これは、抜けません」
リドルフの声は静かだった。
「格好つけてる場合じゃねえぞ」
「本当に、抜けないのです」
リドルフは後ろ手に大剣の柄を掴んで、力を入れて引き抜く素振りを見せた。しかし、大剣はぴくりとも動かない。
一見で神職者と分かるいでたちのリドルフが、背に抜けもしない大剣を背負っているその姿は異様といってもいい。勢いをそがれたような格好になった男たちは、次に取るべき行動を迷い、沈黙した。
「そんなに刃を見たいなら、私が見せてやろうか?」
絶世の美女が、口を開いた。
「だれがお嬢さんだ。お前たちの目は節穴か」
薔薇色の唇から紡がれる若い男の声が、いくぶん暑さのやわらいだ夜気によく響く。
一歩前に出たセティの背丈は男たちよりは小さいが、女性にしてはやや高い。そのうえ、よく見れば、ほっそりとした体つきながらも肩や腕にはしっかりと筋肉がついており、剣も佩いている。
「さっさと去れ。私は、機嫌が悪い」
セティがゆったりとした動作で剣の柄に手をかけた瞬間、腕自慢をしていた真ん中の男の顔色がさっと変わった。
男には、用はない──そう言って二人の手下を伴い、離れていった男の後ろ姿を見ながらリドルフが呟くように言った。
「それほど、酔ってはいなかったんですね」
「どういう意味だよ」
セティがリドルフの癖を知るように、リドルフもセティの癖をよく知っている。酒を過ごしたセティが、何度騒ぎを起こしたことか。
しかし、リドルフが口にしたのは全く別のことだった。
「先ほどの男、名が通っているというのはまんざら嘘でもなさそうですね」
「どうして、リドにそれが分かる?」
「あなたが発した気がどれほどのものか、肌で感じていたではありませんか」
セティは短く笑った。
「おかげで無駄な血を流さずにすんだ。リドに叱られずにすんだな」
無造作に衣の胸元を開いて、白い手であおぐそのさまに、近くにいた若い男たちがどよめきたつ。当のセティはきょとんとしたまま、その動作を続けていたが、後ろからリドルフに胸元を押さえられた。
「暑いんだ。衣が、くっつく」
「分かっていますよ」
当然の権利で抗議するセティをあやしながら、リドルフはゆったりとした動作で、しかし有無を言わさずに歩かせる。
男たちの嫉妬と羨望に満ちたじっとりとした眼差しを、その広い背で受けて、通りを歩いていく。
滞在している宿が遠くに見えてきたころ、リドルフは小声で言った。
「やはり、なるべく早く国境は越えたほうがいいでしょうね」
セティは立ち止まり、怪訝な顔をしてリドルフの顔を見上げた。
「セティとあの舞姫が結び付けられるのは、時間の問題です」
「だから、皆が探しているのは、女だろ」
「確かにそうです」
リドルフが空色の瞳をじっと向けてきた。
「けれど、黙って立っているあなたが、必ずしも男に見えるとは限りません」
セティは十七歳の青年としては極端に小柄でもなく、華奢なわけでもない。一方リドルフは平均身長をはるかに上回る上背があり肩幅も広い。そのせいか並ぶセティが実際よりもだいぶ華奢に見えることも多いようだった。
自分が女に見紛われるリドルフのせいだ、としばしばセティは責任転換してみせるのだが実際のところは体型というよりも、類稀な美貌と長い金色の髪が原因の多くを占めていることは間違いない。
「まあ、その時はその時だな」
彼自身、旅の道中で起こった数々の「女と間違われた事件」を思い出したのか、セティは反論せずに、甘い苦笑を浮かべただけだった。
*『イケメン(公開済作品)』の読まれ具合を踏まえて、古いのをもうひとつ引っ張り出して載せることにしました。昔のもののため1話あたりの文字量が多いので、1話を適当な量に分けて毎週末更新していきます。
読みにくかったら教えてくれると嬉しい。
完結済みだけど、ラストまで載せるとなるとかなりの長丁場(84万字)なので、読む人がいなくなったら止めようと思う。
84万字って、原稿用紙換算だと2000枚超えるんだけど、読むのが早めの人でも、読み切るのに28時間くらいかかるんですよね。
なんでこんなに書いちゃったんだろうねー。まったく、けしからん。
見ようによってはBLっぽくはじまっているけど、BLじゃないよ?
若者の恋愛が、それぞれの立場や政治に絡んで国を動かし、社会を変革していくような話です。後半にはちょろっと別組の大人の恋愛も出てきます。
釈明しておくと、BLも百合も個人的には別にいいと思っている。
人が人を想うのに性別なんて関係ないからね!
むしろ、打算が働きようがない分、ピュアで美しいかもしれない。
