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加藤朝鳥について  湯浅篤志

※次に掲げた文章は、2021年11月に発行された、加藤朝鳥『虹の秘密』(ヒラヤマ探偵文庫17)の巻末に掲載された「解説 加藤朝鳥について」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。

加藤朝鳥『虹の秘密』ヒラヤマ探偵文庫17(2021年11月発行)

「加藤朝鳥」という生涯 

 大正から昭和にかけて活躍した、加藤朝鳥という翻訳家、評論家、作家をご存じであろうか。

〈明治時代〉
 朝鳥は、明治19(1886)年9月、当時の鳥取県東伯郡で農家の三男として生まれた。父は梅吉、母はまつよ。本名は、加藤信正。米子中学卒業までは地元で過ごしたが、朝鳥は上京して高校に行き、文学をやりたいと親に告げたところ、「文学などをやるなら、学費を出さぬ」と言われたそうだ。だが、それでも志を曲げることはなかった。明治38(1905)年に東京に行き、早稲田大学文科の予科に入学することになる。
 しかし、学費が払えなかった。朝鳥は悩んだ。仕方がないので、嫌っていた翻訳に手を出し、稼ぐことになったらしい。この頃、翻訳編集したものに、アメリカ大統領ルーズヴェルトの伝記『ローズヴェルト言行録』(加藤信正名義、内外出版協会、明治40年)がある。
 アメリカの詩人エドガー・アラン・ポーに影響を受けた朝鳥。本当は詩を書きたかったということである。艱難辛苦の学生時代、彼は河井酔茗主宰の詩草社に出入りすることになり、明治40(1907)年後半には、俳誌『詩人』に六編の詩を残している。そして、同人の高仲きくよを見染めた。明治42(1909)年7月に、早稲田大学英文科を卒業。翌43(1910)年に、朝鳥は、きくよとの婚姻届を出すことになる。
 この頃から、きくよは、「加藤みどり」のペンネームを使うようになった。同年9月には、長男が生まれている。子供の誕生で定職を求めた朝鳥は、明治44(1911)年5月、大阪新報の記者となり、家族で大阪に移っていくことになった。
 ところで、同年7月頃、森田草平と塩原事件(煤煙事件)をおこしていた平塚らいてうが、女性のための文芸誌『青鞜』創刊のための趣意書を出すことになった。みどりはそれを、当時、大阪新報の記者をしていた岩野泡鳴といっしょにいた遠藤(岩野)清子に見せてもらい、深い感銘を受けている。みどりは、ここで『青鞜』の社員になることを決心したという話である。

〈大正時代〉
 大正2(1913)年、次男が生まれる。この頃、加藤みどりは〈青鞜の女、新しい女〉として知られるようになっていた。一方、朝鳥は9月頃、大阪新報を辞していた。その後、家族で再び東京に戻り、俳優の上山草人、伊庭孝らの近代劇協会の機関誌『近代』の編集者になった。しかし、この雑誌は経済的事情により、創刊号のみで廃刊してしまう。また、生まれたばかりの次男が亡くなり、不幸が続いた。
 朝鳥は、同年12月頃、ガブリエーレ・ダンヌンツイオ『犠牲』(植竹書院)を翻訳し刊行していた。この本の「自序」末尾には、「大正二年一二月六日 岡山三好野歌壇にて 朝鳥」とあったが、これは近代劇協会の大阪公演の後に、朝鳥が協会の中国山陽方面の巡業に付いて行ったことを示しているものだといえるだろう。
 大正3(1914)年に入り、1月の終わり頃、朝鳥は、みどりと別居するようになった。互いが独り立ちできるように、いったん一人になってみようという理由からだった。みどりは、この3月に東京日日新聞社に入社し、婦人記者になったが、秋頃には退社してしまったようだ。そして、その年の終わり頃には、再び二人で一緒に暮らすようになったらしい。
 この年の5月、早稲田文学社から徳田秋声述『明治小説文章変遷史』(これは田山花袋述『明治小説内容発達史』と共に収められている)が刊行されている。だが、吉江喬松「加藤君と言ふ人は」や本間久雄「加藤朝鳥君のこと」によれば、これは加藤朝鳥の手によるものだったという。
 「徳田秋声述」とあるので、朝鳥が秋声から聞いたことをまとめたものであろう。そうだとするならば、すでにこの頃から明治文学に対する鑑賞力と筆力が高く、認められていたことを示すものかもしれない。
 同年7月には、朝鳥訳で刊行されたダンヌンツイオ『犠牲』(エッセンス叢書、青年学芸社)が刊行されている。これは、前年暮れに刊行された『犠牲』の縮訳版であった。また、この夏には、故郷の鳥取県東伯郡に帰っていたようである。8月に、朝鳥訳で発行されたドストエフスキー『虐げられし人々(上巻)』(アカギ叢書第42編)の「序」の末尾を見てみると、「大正三年七月故郷伯耆(ほうき)にて」とあった。11月には、ピネロ作ロスタン作『ポオラ・シヤントクレール』(現代百科文庫梗概叢書第12編、日月社)が刊行された。この年は、単行本の翻訳が多かったといえるだろう。
 大正4(1915)年頃から、『早稲田文学』『新潮』『文章倶楽部』『ARS』『新評論』『文芸雑誌』などの文学系の雑誌に、朝鳥の翻訳、評論などが多く掲載されるようになってきた。2月には、奥田義人が著した『熊澤蕃山』(博文館)という伝記が出版されている。その「序」の末尾には「全体に亘り材料聚集に就いて加藤信正氏の労が多かつた」とあった。本名での協力が示されていた。表にこそ出ないが、頑張っていたのだ。同年5月には、『ラビンドラナアト・タゴール聖想録』(加藤信正名義、福岡書店)が翻訳、刊行されている。ノーベル文学賞を授与されたタゴールの流行に乗じたものかもしれない。さらに、10月には、野口米次郎『日本詩歌論』(白日社)が、野口との共訳で発刊されていた。
 大正5(1916)年になると、コナン・ドイル『シヤロツク・ホルムス』全三巻(天弦堂書房)が、朝鳥訳で刊行されている。『シャーロック・ホームズの冒険』の全作品が訳されたものであった。この三巻本は、大正6(1917)年には芳文堂に移譲され、第四版として発行されていた。大正6年には、長女が生まれている。
 『シヤロツク・ホルムス』の刊行元、芳文堂から、大正8(1919)年に刊行された村瀬蕉雨、加藤朝鳥共著の『近代描写一万句』の巻末には、この三巻本の広告があり、大正8年当時は第六版になっていた。また、そこには、ドイル原作、朝鳥訳で『名犬物語』の広告もあった。これは、大正5年に刊行されたものらしい。
 ちなみに、大正8年9月に同じ芳文堂からラベ・プレヴオ『青春行(マノン・レスコオ)』が朝鳥訳で出版されていたのだが、その巻末にも、シャーロック・ホームズの三巻本の広告だけがあった。荒木郁「朝鳥さんの想出で」によれば、『シヤロツク・ホルムス』が「一番売れた」ということである。
 大正7(1918)年5月、コナン・ドイル『四つの暗号』(昭文堂、文武堂)が朝鳥訳で刊行された。そこで朝鳥は、「科学」の役割を強調しているのが見られる。これは、後述の『最新文芸思想講話』(大正9年)の中でも取り上げられ、同様に述べられていたことが興味深い。
 大正8年2月、ヘンリイ・ライダー・ハッガード『象狩の後』(岡村書店)が、朝鳥訳で刊行されていた。その巻末には、3月に続編『彼』も朝鳥訳で発行されるという予告が出ていた。他にも、同年10月には『世界少年文学名作集』第4巻(家庭読物刊行会)で、アンナ・シュエル「黒馬物語」などが朝鳥訳で刊行されていた。
 この頃、朝鳥は、博文館発行の若者向けオピニオン雑誌『寸鉄』大正8年3月号から7月号において、「爆弾以後」という名前の科学小説で、H・G・ウェルズ『世界解放』の翻案も試みている。猛烈な破壊力を持つカロリナム元素爆弾投下後のヨーロッパ世界の話である。青年誌、オピニオン誌にも執筆の場を求めていたといえるだろう。『最新文芸思想講話』の中でも、このカロリナム爆弾について、大きくページを割いていたのが印象的であった。
 前述した村瀬蕉雨と朝鳥の共著『近代描写一万句』(芳文堂)も、この10月に刊行されていた。この本は、あるキーワードを手掛かりに作家の美文を短く紹介し、それを五十音順で並べたものであった。決められたキーワード、たとえば「愛」というキーワードにおける美文が一つの短いまとまりで掲載されているのだが、作家名だけがあり、作品名はない。その「序」を見ると、美辞麗句を採摘したとあり、これらを参考に「新味ある発想上の触発を索引者に与ふ」とあった。発行元としては、文学表現の発想の手引き書にしたかったのであろう。
 朝鳥は、こういう文学表現のマニュアル本のようなものにも手を出していたのである。前述した徳田秋声述『明治小説文章変遷史』の「代作」をしていたと言われる朝鳥であるから、気軽に引き受けたのであろうが、生活費を稼ぐということに集中していたと考えられる。また、出版社のほうもこのような本が出せるということは、出版物も増え、作家をめざす人たちが多くなり、第一次世界大戦後の景気のよい時代が背景にあったのかもしれない。
 この時分より朝鳥は、子供向けの探偵小説、冒険小説なども創作するようになった。本巻に収録した「疑問の指先」は、『少女の友』大正9(1920)年1月号から6月号まで掲載された作品だった。
 大正9年7月には、『文章倶楽部』に連載していた評論を一冊にまとめ、『最新文芸思想講話』(新潮社)という題で刊行している。しかし、その一方で、翌8月、朝鳥は突如として、『爪哇(ジャワ)日報』の主筆として、単身でインドネシアのジャワに渡る決意をしていた。これは彼一人で決めたことであり、妻のみどりには相談がなかった。その結果、みどりと子供たちは、信州上伊那郡のみどりの実家に行くことになってしまった。しかし、その後、彼女らは朝鳥の実家である鳥取県東伯郡に向かうことになった。
 朝鳥は、こうして同年9月5日、神戸からボルネオ丸でジャワへと出航して行ってしまった。翌10月には、H・G・ウェルズ『黎明』(同文館)が、本名の加藤信正名義で翻訳発行されていた。「序」の末尾の日付が「八月」となっているので、朝鳥はジャワ行きの旅費や生活費を工面したり、みどりたちの生活費を作ったりするために、このウェルズの翻訳や「疑問の指先」の連載も引き受けたのかもしれない。
 しかし、その10月、突然、みどりが発病してしまった。子宮癌だった。彼女は朝鳥の実家にいたが、厄介な問題(経済的な問題か?)を引き起こしてしまい、子供たちを残して、信州にいる父の実家へと帰っていった。みどりの父は、治る見込みのないことを書いた手紙を、ジャワにいる朝鳥に何度も送って帰国を求めた。だが、朝鳥が帰国したのは、翌年の大正10(1921)年8月であった。
 大正10年の9月、朝鳥は、みどりを東京浅草にある病院に入院させた。金はなかったが、佐藤緑葉や加藤武雄が病床慰問の会を組織して助けてくれたのだ。野口米次郎、有島生馬、島崎藤村、平塚らいてうなどの厚い志もあった。
 大正11(1922)年の初め、朝鳥は『新青年』に、ヘンリー・レバレージの探偵小説「囁く電話」を翻訳し連載していた。これは同年1月号から始まったが、4月号で中絶している。理由は不明だが、みどりの看病で心身ともにたいへんだったのかもしれない。ちなみに、この「囁く電話」は、平山雄一さんが続きを訳して完結させ、加藤朝鳥・平山雄一 共訳『囁く電話』(ヒラヤマ探偵文庫26)として2023年5月に発行している。→詳しくは、こちら
 大正11年の3月、朝鳥はみどりを自宅で死なせたいと考え、退院させ、市外高田町に移った。そして、大正11年5月1日午後1時20分、みどりが他界。享年33であった。
 この同じ5月に、朝鳥はジャワでの思い出を綴った『爪哇(ジャワ)の旅』(新光社)を上梓していた。みどりの治療代や看護費用を捻出するために書いたものかもしれない。また、この二ヶ月前の3月には、ペルシャの詩人サヂの『薔薇園』を翻訳し、同じく新光社から発行していた。この本の巻末広告を見ると、少年少女向けの加藤朝鳥著『冒険小説 少年島』が同じ新光社から発行されているようなので、この時期の朝鳥は、妻みどりと子供たちのために無我夢中で仕事をしていたといえるだろう。
 大正12(1923)年2月に、朝鳥は、『創作 十字軍』(新光社)を発行していた。357ページにもわたる創作長編小説であった。巻末には、島村抱月「囚われたる文芸」の一部抜粋があった。尊敬する抱月の言葉から『十字軍』創作の意味を伝えたかったのだろうか。
 また、この頃彼は、"The SEXTON BLAKE LIBRARY"No.257所収の"LOST IN CAMBODIA"〔邦題「柬埔寨(カンボジア)の月」〕という探偵小説を翻訳し、『週刊朝日』に同年1月から約半年間連載をしていた。これらは、まとめてヒラヤマ探偵文庫19で、2022年4月に発行している。→詳しくは、こちら
 さらに、本巻に収録した「虹の秘密」も、『雄弁』同年5月号から8月号までの連載であり、彼はみどりの死後、一般誌や総合雑誌にも仕事の場を求め、がむしゃらに書いていたことが窺える。
 朝鳥が翻訳し、この年の5月に刊行されたヘプタメロン『不貞な妻』(宝文社)の「序」の末尾には、「戸塚の寓居にて」とあるので、この頃は、神奈川県横浜の戸塚に住んでいたらしい。朝鳥は、引っ越しが好きだった。
 大正13(1924)年7月には、日本女子高等学院夏期文芸講演会の講師となり、英文学を教える。11月にも、秋文芸会の講師となった。
 大正14(1925)年4月、立正大学予科講師となる。定職に就くことができた。これで、生活の心配は少し薄らいだといえるのではないだろうか。6月には、青柳壽々子と結婚。同月、朝鳥は前年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家、ヴワディスワフ・レイモントの『農民』を英語からの重訳で全訳し、春秋社から刊行し始めた。大正15(1926)年まで全四冊出版された。その当時、かなりの好評で短期間に十数版を重ねたそうである。ポーランド文学の素晴らしさを日本に伝えることとなった。
 大正15年2月に、次女が生まれる。3月には、当時の東京府荏原郡玉川村瀬田に転居。4月、立正大学文学科講師となり、英文学史、現代文学を講じた。英文学部主任にもなる。この年、H・G・ウェルズ『ジャンとピーター』(春秋社)、『ルッソオ懺悔録』(世界名著叢書第1巻、生方書店)、小デュマ『椿姫』(世界名著叢書第4巻、生方書店)、ジョゼフ・コンラッド『南の幻』(春秋社)などが朝鳥訳で刊行されている。
 最後に挙げた『南の幻』は、ボルネオを舞台にした小説である。その「序」には、朝鳥がこの小説を手にした時期を、大正9年のジャワ行きの前だと語っていた。また「追記」で、日高只一の助言と便宜があったことに感謝もしている。この作品は「オルメイヤーの阿房宮」なのであるが、「南の幻」という題名にしたのは、朝鳥自身のジャワへの追憶が入っているのであろう。

〈昭和時代〉
 昭和2(1927)年6月には、英文学のエッセイ『英文学夜話』が春秋社から刊行される。『大調和』昭和2年12月号には、戸川秋骨「加藤朝鳥君の『英文学夜話』を読む」が掲載されていた。7月には、セネカ「幸福論」を訳し、『世界大思想全集』第3巻(春秋社)に収められている。
 昭和3(1928)年6月には、朝鳥は、英文で"A Story about Saint Nichiren"を出版し、海外へ日蓮を紹介していた。10月に、俳句雑誌『ぬかご』の文芸評論選者となる。これは『枯野』の主宰者、長谷川零余子死去のため、水野六山人に経営が移り、『枯野』から『ぬかご』に改題されたのがきっかけではないだろうか。昭和6(1931)年4月まで続けられる。
 昭和4(1929)年4月、立正大学予科・学部教授となる。8月には、カンパネラ「太陽の都」が訳され、春秋社発行『世界大思想全集』第50巻に収められた。9月、ジョージ・バーナード・ショー『社会主義と資本主義』が上下二巻で翻訳出版される。
 昭和5(1930)年6月、H・G・ウェルズ『革命草案』(アルス)が翻訳、刊行された。これは、ウェルズ自身から原作を日本に送ってもらい、ウェルズ令嬢からの手紙が添えられてあったそうだ。8月にはレオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画論」が翻訳され、『世界大思想全集』第9巻(春秋社)に収められる。
 同じ8月、群馬県の万座林間俳句学校において文学を講じた。これは俳句雑誌『ぬかご』の主宰者水野六山人が、浅間山麓吾妻高原にあった林間俳句学校を万座温泉に移したときの記念講演であろう。9月、H・G・ウェルズ『世界は動く』(東京堂)が翻訳され出版された。他に、メンケン『宗教を裁く』(大鳳閣書房)もこの年に翻訳されている。10月になると、ポーランド政府から黄金月桂樹十字勲章を授与された。
 昭和6年の2月、朝鳥は、ポーランド代理公使ヤン・フリーリング夫妻、領事官補ユージン・バナシンスキー夫妻子、官員数名を朝鳥の玉川の自宅に招いた。それ以来、ポーランドからの留学生、官員などがたびたび訪れるようになった。4月、立正大学専門部講師となる。ノーベル文学賞候補になったこともあるポーランドの作家、ステファン・ジェロムスキの『灰』〔邦題『祖国・恋』、続編『萌え出づるもの』〕が、朝鳥訳で東京堂から発行された。
 昭和7(1932)年1月には、朝鳥主宰で、『反響』が旬刊文化批評誌の形をとって創刊された。最初のほうはリーフレットだったようである。4月に、朝鳥は立正大学文芸部長となる。7月には『立正文化』を創刊した。10月、実母を喪う。この頃、『反響』のために講演会を米子、松江、鳥取、倉吉などで開いていたようだ。
 昭和8(1933)年、3月に『最新思潮展望』(暁書院)が刊行される。「序」には「僕は従来文学に縁を求めて来た人間であるが、文学者たる前に人間たらむ事を欲し、人間たることにおいて何よりも日本人たることの自覚を鮮やかに把持せむとするものだ」とあった。こういう心情が、朝鳥を「ロマンチスト」と評価されるところにつながっていくのだろう。また、この年には、バーナード・ショー『神を探す黒人娘の冒険』(暁書院)も朝鳥訳で出版されていた。4月からは『東京堂月報』に「海鳥通信」を、「丸山草之介」「呉羽鳥外」の名前で執筆していた。
 昭和9(1934)年、『政界往来』4月号に「文壇人の政治座談会」が掲載され、朝鳥も参加している。また同5、6月号に「祖国行」を連載した。これはポーランドの作家ミツキエーヴィチ「パン・タデウシュ」の一部の翻訳である。しかし、その連載中の5月25日、朝鳥は自宅において脳溢血で倒れてしまったのである。
 昭和10(1935)年の1月には、病後、初めて教壇に立つことができた。この頃から、JOAKでのラジオ講演放送が多くなり、5月には「読書縦談」、12月には「現代のグロテスク精神」が放送された。
 昭和11(1936)年の4月には「最近欧米人の東洋文明観」、6月は「欧州の文星頻りに隕つ」などの講演もラジオで流された。また、11月7日付をもって、ポーランド文芸院から黄金月桂樹アカデミー勲章授与の電報を受け取っている。
 昭和12(1937)年、2月にJOAKより「伝説に表はれたる各国の民族的英雄(北欧)」、10月には「収穫を寿ぐ欧米の習慣」がそれぞれ放送された。5月14日には、母校早稲田大学にて、ポーランド公使ローメルより、アカデミー勲章を伝達される。そして9月にはポーランド文芸院の会員に推薦された。
 昭和13(1938)年4月、耕地整理のため、家の改築に着手しながら、竹村書房より近刊の「成吉思汗」の翻訳にいそしんでいた。しかし5月10日、脳溢血が再発。17日、午前2時25分永眠。18日密葬、20日身延山関東別院にて告別式がおこなわれた。鎌倉の妙法寺に眠る。享年51であった。
 歿後の夏、ラルフ・フォックス『成吉思汗』(竹村書房)が朝鳥訳で刊行された。また朝鳥の死に伴い、主宰する『反響』も昭和13年8月号で終刊になっている。

  加藤朝鳥の生涯を、彼の主な単行本発行順にしたがって足早に見てきたが、新聞、雑誌などに掲載された朝鳥の著述については、あまりにもたくさんあるので、ほんの一部しか取り上げられなかった。また、単行本などの紹介は代表的なものを記したのみである。しかし、これだけでも十分なほど、大正の初めから昭和にかけて、日本の世界文学翻訳界に貢献した巨人だったことが見えてくる。
 大正末からは、ポーランド文学の紹介、普及に努めた朝鳥であったが、勤務先の立正大学での活動にも精力を傾けていた。主宰誌『反響』も、しかりである。評論やエッセイなども多く、その浩瀚な著述から、文化、文学への造詣が深いことも窺える。博覧強記という言葉がぴったりするのだが、それらを体系化することができなかったという批評も、実はあった。しかし、はたしてどうであろうか。
 宇野浩二の述懐に、彼は朝鳥から「きみイ、翻訳をするのに直訳をするのは馬鹿だよオ」と「彼独特の物やさしい悠長な調子」で言われたことがあったらしい。朝鳥が、ダンヌンツイオの『犠牲』を翻訳したときだった(「加藤朝鳥の思出」より)。
 そこから考えると、朝鳥の翻訳は自由なものであり、言い換えれば、翻訳の中に自分の考えを忍ばせていたといえるだろう。もっといえば、原作者の言葉を借りて、自分を語っていたのだと思われる。そうであるならば、彼の批評が翻訳に内在していることになるかもしれない。そして世界文学を多数翻訳したのは、世界の人々、文化を日本人の視点から認識することにこだわっていたからだといえるだろう。
 創作では、物語を編む主観的な視点が無意識に反映される場合が多い。当然といえば当然のことであるが、特に本巻に取り上げたのは「探偵小説」の創作であり、登場人物の個性、行動において、朝鳥の主観が見やすくなっている。そういう観点から、これらの作品を読んでいくと、朝鳥の創作に関するモチーフを推測でき、詩や小説も含めて、創作をあまりしなかった朝鳥の姿を浮かび上がらせることができるだろう。
 朝鳥が生活に苦しんでいた頃に、手を出した探偵小説の創作であったが、そこには朝鳥の書きたかった何かがあるのかもしれない。
 以下、本巻に収録した「疑問の指先」「虹の秘密」について簡単な解説を付しておく。なお、作品の内容にも踏み込んでいるので、未読の方は注意されたい。  

探偵小説らしくない「探偵小説」

 「疑問の指先」は、『少女の友』大正9(1920)年1月号(13巻1号)から6月号(13巻6号)まで掲載された中編小説である。本文表題には、毎号に「探偵小説」という角書きがあった。『少女の友』に連載されたことから、少女向けの探偵小説仕立ての話になっている。挿絵はあるが、画家は不明。
 ――海辺の磯岩の上に建っている「荒磯御殿」の主、磯村が何者かに殺された。可愛がってもらっていた鈴子は悲しみに打ちひしがれている。だが、毅然として、犯人を捜そうとしていた。そこへ、突如現れたのが、磯村が勘当した息子の春雄であった。彼は突然、父の財産を継ぐと言い出したのだ。
 物語は、そこから亡くなった磯村(お爺さん)が残した「遺書(かきおき)」のありかをめぐって、ストーリーが進んでいく。「探偵小説」という角書きがありながら、たとえば、磯村を殺した犯人は誰だとか、なぜ殺人事件が起こったのかという探偵小説らしい筋書きは後景に退いてしまっていた。
 また、作中で新聞にも掲載された事件の見出しが「荒磯御殿の惨殺」というセンセーショナルな名前になっているにもかかわらず、内容が、春雄と鈴子の家督を継ぐという身内のいざこざ話に終始してしまっている。これらのことから、「探偵小説」という角書きが、たんに読者を惹きつけるキャッチーなレッテルだけになってしまっていた。
 結局、東京からやって来た名探偵によって犯人は明らかになるのだが、その探偵の活躍が描かれていない。これでは、探偵の出ない「探偵小説」になってしまう。探偵の捜査視線でストーリーを構築するのではなく、殺された磯村をめぐる人間模様を描いた作品になっていたのだ。そう読んで見ると、作者の加藤朝鳥の視点は、「家」を継ぐというところにあったのかもしれない。
 ここで、朝鳥がシャーロック・ホームズシリーズを大正5(1916)年に訳しているにもかかわらず、「探偵小説」というプロットを学んでいないという問題がでてくるであろう。しかし、「疑問の指先」の連載最中に、突如、ジャワ行きが決まったとしたら、どうであろうか。前述したように大正9年の夏から、朝鳥はジャワに行っているのだ。
 もし、半年以上の長い連載を『少女の友』から依頼されているとしたら、そのスパンで探偵小説の構成を考えていたはずである。だが、それもできなくなってしまった。東京から来た名探偵の活躍を描くはずだったが、できなかったということになる。「探偵小説」のプロットを組み立てられないという問題ではなく、大正9年当時の加藤朝鳥の私的な事情が「疑問の指先」を探偵小説らしくない「探偵小説」にしたのかもしれない。
 もう一つ、注目しておきたいのは、主人公の鈴子の造形である。家督を継ぐということに対して、自分の意志を貫く、凜とした潔さがある。特に、本文33ページ上段にある鈴子のセリフ「立派な少女として死にます」というところなどに、それを感じる。女性で、しかも縁者でもない人間が、家を継ぐということについて、朝鳥は何か特別な思いを抱いていたのかもしれない。
 

女性の千里眼探偵誕生!

 「虹の秘密」は、『雄弁』大正12(1923)年5月号(14巻5号)から8月号(14巻8号)まで連載された中編小説である。『雄弁』は、大日本雄弁会が発行するオピニオン雑誌であるが、総合雑誌の傾向が強く、この時期にはさまざまなジャンルの文芸、小説も掲載されていた。掲載号目次には「探偵小説」とあるが、本文にはない。
 挿絵はあるが、画家の署名はなく、挿絵中の画家のサインから「千川竿児」ではないかと推測される。千川は戦後、『夫婦生活』などの性文化雑誌に挿絵を掲載したことがわかっている。しかし、大正期の千川に関しては不明である。→千川竿児の挿画については、こちら
 朝鳥は、大正7年から13年くらいまでの時期の『雄弁』に、文芸に関するエッセイなどを多数寄せていた。しかし小説は、この「虹の秘密」くらいのものであり、しかも探偵小説というのが、興味深い。
 ――喫茶店で碧川博士に声をかけられた橋本京子は、博士の経営する碧川心霊研究室「水上倶楽部」へと、仕事を斡旋してもらいたく出かけていく。そこで京子は碧川から、私の助手になってもらいたいと打ち明けられ、催眠術にかかったような不思議な経験をする。博士に気に入られた京子は、円球のような部屋に入れられ、台の上にのせられ、そこで猫の目をした男の姿を目撃する。その男は、もう一人の老人と何かをしていた。翌朝、京子は、猫の目の男と老人が実際の人物であり、二人とも死んでしまったという新聞記事を目にした。京子は、千里眼で、彼らの死を見てしまったのだ。
 碧川博士に千里眼の力を開発された京子は、正式に博士の助手になり、さまざまな難事件に挑んでいった。ここに、女流の千里眼探偵が誕生したのである。

「虹の秘密」 千川竿児の挿画

 加藤朝鳥が、このような心霊ものの探偵小説を書いたのには、何か理由があるのであろうか。実は、朝鳥は「コックリさん」が大好きだったということである。
 川路柳虹の「朝鳥君の憶出」(『反響』昭和13年8月号)によれば、明治42年(1909)頃、朝鳥が河井酔茗の主宰する詩草社に出入りしていたとき、そこで「加藤君が心霊術に凝つて詩草社の例会で「コックリ様」をこしらへてやり出したのだが、一向に足が上つてこぬので大笑ひしたこと」があったそうである。加藤みどりが同人だった詩草社での出来事である。そういう興味が根にあって、超常現象の本や小説も読み、この女流の千里眼探偵、橋本京子を造形したのかもしれない。そして、そこに自分を救い出してくれる理想の女性を見ていたと思うのは、ロマンチックすぎるであろうか。
 

【参考文献】
・岩田ななつ『青鞜の女 加藤みどり』(青弓社、1993年)
・久山宏一「附録『コンラット・ヴァロンロット』――加藤朝鳥による翻訳と言及(1933~37)」(アダム・ミツキエーヴィチ『コンラット・ヴァロンロット』久山宏一訳、ポーランド文学古典叢書第4巻、未知谷、2018年 所収)
・北原尚彦編アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの古典事件帖』(論創社、2018年) 
・藤元直樹編「■戦前H・G・ウエルズ邦訳短編書誌■H・G・ウエルズSF作品邦訳書誌・補遺」(『未来趣味』第6号、古典SF研究会出版局、平成10(1998)年発行 所収)
・『反響』昭和13年8月号(加藤朝鳥追悼号、反響社)
 

※Web上で、加藤朝鳥『虹の秘密』を読まれての感想がありました。
ありがとうございます。気がついた記事を以下に貼っておきます。

※申し訳ございませんが、『虹の秘密』は、版元品切れのため販売されておりません。よろしくお願いします。


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