ラジオが生まれた頃のラジオドラマ 湯浅篤志
※次に掲げた文章は、2005年5月に発行された、『彷書月刊』第21巻5号(彷徨社)に掲載された「ラジオが生まれた頃のラジオドラマ」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。

復刻ラジオドラマ『君の名は』
平成17(2005)年3月19日から21日にかけて、NHKラジオ第一は、放送80年を記念して、昭和27(1952)年~29(1954)年にかけて大ヒットした連続ラジオドラマ『君の名は』(全九八話・菊田一夫作)の復刻放送を行った。三話だけであるが、台本は当時のものを使って、音楽も忠実に再現していた。ただ、声優は違って、田中美里さん、萩原聖人さんなどであり、語りは岸恵子さんが担当していた。韓国テレビドラマ『冬のソナタ』における主役の吹き替え陣をそのまま採用していたのだ。
「純愛」路線を意識したのかどうかはともかく、私には興味深かった。なぜなら、復刻というより、今のドラマのように聞こえたからだ。時代も風俗も昭和20年代の話だが、あまりそのような様子が伝わってこなかった。当時のドラマを忠実に復刻しているのにもかかわらず、そのように感じられないのは、たぶん役者の声のトーンに原因があるのではないだろうか。
昭和10年代から20年代の映画を見ると、今の人と声のトーンが違うように感じられる。高いような、発音の仕方が違うような、そのような微妙な差異である。テレビと違って、ラジオは映像がないために余計に声が気になってしまう。そこにラジオドラマの可能性があるのだが、今回の復刻ラジオドラマにはそれがあまり感じられなかった。
良いか悪いかは別にして、現代におけるラジオドラマの厳しい問題が内在しているといえるだろう。つまり、聴取者における声への思いも汲みとらなければならないということである。テレビならば、それをある程度映像でカバーできるが、ラジオになるとそうもいかないのである。


ラジオドラマ黎明期の長田幹彦
大正14(1925)年7月12日からの本放送開始に先立って、東京放送局(JOAK)の放送部長の服部愿夫は「耳だけに訴へる一種の劇」をラジオドラマに望んでいた(「ラヂオドラマに就て」『中央新聞』大正14年6月25日付)。当時から声や音の重要性に気づいていたのである。
服部の斡旋で小説家長田幹彦が、放送局の文芸顧問になりラジオドラマの製作を考えていたのもこの時期だった。事実、ラジオのために「悲しき遍路」という作品を書き下ろし、7月28日夜に放送している。
しかし、演出に不慣れだったせいか、劇作家の水木京太に「遍路の歌と其音声ですべてを感じさせなければならない」と厳しく非難されてしまった(「ラヂオ劇を聴く(二)」『時事新報』大正14年8月2日付)。ラジオのための初めての脚本にもかかわらず、けなされてしまったのだ。だがこの批評は、ラジオドラマ発展のためには飛び越えなくてはならない高いハードルだったのではないか。
ラジオのためのオリジナル脚本としては最初だったが、それ以前には演劇や芝居のいくつかがラジオドラマに移植されて放送されていた。特に中内蝶二作の「大尉の娘」は好評だった。井上正夫、水谷八重子らが演じ、人気を博した芝居であり、それをラジオドラマに仕立てあげ放送したのだった。
井上はこれに気をよくし、長田幹彦と相談をして、長田の旧作「夜の雪」という短篇を脚色して放送しようと試みたらしい。しかし、この作品には親殺しの場面があり、放送劇としては絶対許されないものであった。あやめる相手を換えようということまで考えていた(「愛宕山だより」『中央新聞』大正14年8月16日付)。
結局はうまくいかなかったようだが、ラジオドラマにおける倫理面を考えた最初ではないだろうか。その後、ラジオ劇の取り締まり機関もできたようだ。
実際、長田幹彦と井上正夫は、ラジオドラマのためによく働いていた。長田は、翻訳劇である「噫無情」の序幕を独自の創意で脚色し、井上正夫と水谷八重子主演でラジオドラマとして仕立て上げた。9月20日夜に放送されている。
大正14年8月中旬頃には、文壇、劇壇、新聞、雑誌界の人々が集まって「ラジオドラマ研究会」なるものが作られている。メンバーは、小山内薫、長田幹彦、長田秀雄、久保田万太郎、吉井勇、山本有三、岡鬼太郎、井上正夫らであった。
研究会では、今の声優にあたるラジオ女優の募集も行う。10月2日に試験が行われ、長田、井上らによって約10人ほど選ばれた。大正14年12月17日午後7時25分から「ラヂオドラマの夕べ」などが企画され放送されている。
これは、複数の作品が連続して放送される番組である。長田幹彦が放送総指揮であった。放送舞台劇として「続金色夜叉」(長田作)が小林徳次郎の脚色で、ラジオドラマとしては岸田国士作の「紙風船」がそれぞれ続けて放送された。そして最後に長田の作った抒情曲として「見果てぬ夢」が電波に乗った。抒情曲と言っても、前述した「悲しき遍路」もそう呼ばれていたので、音楽も聴かせるラジオドラマのことと思われる。
新しいラジオドラマに向けて
以前、違う場所(『おとなの工作読本』No.7)で『無線と実験』大正15年9月号を紹介したことがある(『夢見る趣味の大正時代』論創社に収録された)。「放送芸術号」と題され、文学者たちがラジオドラマについて、さまざまなな見解を述べていた特集号である。
たとえば、長田幹彦は、音の立体的な形を問題にしていた。前述したラジオドラマとの苦闘から、かなり学んだことがうかがえる。しかし、この当時長田は、東京放送局が社団法人日本放送協会になる際にすったもんだがあり、文芸顧問を辞めていた。
劇作家の小山内薫は、役者のセリフにこだわっていた。言葉の抑揚、変化などをある点まで犠牲にしても、言葉の明瞭さをいかすべきだと提言していた。小山内は、大正14年8月13日夜に放送された「炭坑の中」というラジオドラマのディレクターもしていた。
「電灯の灯りを消してお聞きください」というアナウンスで始まるこの作品は、大正13(1924)年1月に、イギリスのロンドン放送局で放送されたものだった。原題を「Danger」といった。リチャード・ヒューズ作で、彼が音ばかりの効果をねらってくれという放送局の依頼に答えて作ったものだった。たぶん、そういうところを小山内は学び、ラジオドラマにおける言葉にこだわったのであろう。
その他にも、近松秋江、佐竹守一郎、加能作次郎、長田秀雄、上司小剣、吉田絃二郎、佐藤春夫らのラジオに対する意見が掲載されていた。このように劇作家、小説家らがラジオに注目するのは、ラジオに新しい芸術の萌芽をみていたからにほかならない。
ただ、当時のラジオは音質が悪く、レシーバーやスピーカーで聞くラジオドラマは物語の再現性に乏しかった。にもかかわらず、作家たちはいろいろな試行錯誤を通じて、新しい放送芸術を確立しようとしていたのだ。
ラジオドラマの需要が高まってくると、著作権の問題も出てくる。特に海外で制作されたドラマの場合、問題が複雑になる。秦豊吉は「脚本のラジオ放送権」(『文藝春秋』大正14年6月号)で、ベルリンからの著作権の問題を取り上げていた。
演劇評論家の西村晋一は、ラジオドラマについて「もう少したつたら珍らしがりやの日本人に大騒ぎされて、『キング』なんかゞラヂオドラマの懸賞募集なんて事にきつとなるに違ひない」と述べていた(『文藝春秋』大正14年5月号より)。3月から始まったラジオ放送が、仮放送中の時期だったにもかかわらず、その慧眼には驚くべきものがある。
著作権の問題を回避するためには、何を考えればよいのだろうか。ひとつ考えられるのは、ラジオドラマを懸賞募集すればいいのである。入選者と主催者側がしっかりと契約を結べば、著作権の問題もクリアーできる。
事実、読者投稿で江戸川乱歩や横溝正史らを見出した雑誌『新青年』は、昭和2(1927)年1月増刊号にて「探偵ラヂオドラマ」の懸賞募集を行っていた。結果は同年10月号に掲載されたが、良い作品には巡り会えなかったらしい。
それに対して、JOAKはこの年、ラジオドラマ研究会のメンバーに作品の執筆を依頼する。原稿料が破格だったことから、当時「五〇〇円ドラマ」と呼ばれた。このとき生まれたのが、岸田国士「ガンバハル氏の実験」、中村吉蔵「女に負けた男等」、山本有三「霧の中」、小山内薫「珍客」、菊池寛「彼等の希望」などである。
懸賞募集と形は異なるが、お金で創作意欲を高めることまでして、ラジオドラマを創作してもらうほど質の良い作品がほしかったのであろう。それがラジオの普及につながってくるからである。
その後、昭和3(1928)年になると、今度は本当に放送劇脚本の懸賞募集を行った。新人作家発掘を、本格的にやりだしたのである。この当時から昭和26(1951)年くらいまでのラジオドラマの変遷については、土方正己の「ラジオ・ドラマの系譜」(『ラジオ・ドラマ傑作選』菊田一夫編所収)に詳しいので、そちらを参照していただきたい。
ラジオを聴くための経費
今まで見てきたように、JOAKはラジオドラマに力を入れていた。なぜ、それほどまでにこだわったのだろうか。簡単にいえば、聴取者を増加させるために効果があったからである。人々はラジオドラマを聴くために放送局と契約を結んだのである。
当時、ラジオを聴くには、聴取料を払わなくてはならなかった。ラジオ店や郵便局に行って、一定の用紙に住所氏名、受信機の種類を書き込んで一円の切手を貼り付けて放送局に出す。そうすると、一週間ほどで聴取許可証と門標が送られてくる。門標は、巡回員の見やすいところに取り付けておくという決まりだった。
大正14年3月1日の試験放送から仮放送を経て、7月12日の本放送が始まる頃までは、聴取料は二円だった。しかし、高すぎるということで、7月16日から、半額の一円になった(「ラヂオ欄」『中央新聞』大正14年7月17日付)。
ラジオ本体の値段も、高かった。鉱石式でレシーバー付きが二、三〇円、真空管式が受信機だけで一〇〇円前後、これに喇叭型スピーカー等もろもろをつけると、一八〇~二〇〇円くらいだった。大正14年頃の公務員の初任給が七十~七五円くらいだったから、ラジオの値段も推して知るべしである。
ところが、急速なラジオの普及により値段が下がった。昭和5(1930)年頃には真空管式で付属品が一切ついて、三〇円くらいまでになった。そうなってくると、お金がかかるとはいえ、ラジオの魅力に負けて聴取者は増えていく。
大正14年12月末で、逓信省認可数が13万2700口(「ラヂオ版」『読売新聞』大正14年12月29日付)であったのが、昭和5年12月末には、33万4000口にもなった(古澤恭一郎『ラヂオとテレビジヨンの話』より)。おおざっぱな数字であるが、聴取者数増加のひとつのめやすになるだろう。
ラジオドラマ出演者への謝礼
現代でも、NHKの受信料については、とやかく言われているが、当時は、どうだったのであろうか。番組はラジオドラマだけではないが、ラジオドラマを製作するには、どのくらいの経費がかかったのであろうか。
末永昭二さんに教えてもらったのだが、『無線と実験』の編集長だった古澤恭一郎が『ラヂオとテレビジョン』(誠文堂、昭和6年)という本を書いている。その中に興味深い記述があった。
ラヂオドラマ……之は素人が多いので、従つて謝礼も少ない。普通七八十円程度で、BKの最高は約二百円。築地小劇場等は出演者一人当り約二十円。AKでは水谷八重子其他のラヂオドラマをよくやるが、いつも四五百円をかけて居り、八重子一人の謝礼が百五十円位。(中略)上演料……ラヂオ・ドラマ、新派劇、喜劇、或は歌舞伎劇等の放送には、その放送台本に対して原作料或は脚色料を放送局から作者に支払うことになつてゐる。中には特に諒解を得て無料のものもあるが、三十円五十円を贈るのが普通である。但し文芸家協会員のものは、同会規定の八十円である、BK一ヶ年の上演料支出総計約千五百円、但しこれは謝礼予算中から支出されるものでなく、測候所等へ贈る心づけと同じく資料費から支出されるのである。
水谷八重子への謝礼が百五十円とあり、他のラジオドラマ出演者に比べると高そうに思えるが、伝統的な芝居に対しては、もっと謝礼を払っていた。たとえば義太夫なら「文楽座の中堅どころが百円前後、最高は竹本律太夫の千円」、放送歌舞伎劇なら「AKの最高は市村羽左衛門その他一党の放送で約千五百円」、新派劇と喜劇なら「二人位が加はる新派の放送は普通三四百円程度」と述べられていた。
ここに、JOAKがラジオドラマに力を入れる理由があるのではないだろうか。つまり、他の芝居に比べて経費もかからないし、人気もあるからということである。それゆえ、既成の作家よりも新人作家と手を結び、安く番組を作り、聴取者拡大をねらっていけるのである。まだ、民間の放送局もなかった時代のことである。競争相手のいない中で、新人作家を囲い込むのは容易だったといえるのではないだろうか。
民間ラジオ放送とラジオドラマ
時代はくだるが、戦後、民間ラジオ放送が始まり(昭和26年末)、テレビ放送(昭和28年)も視野に入ってくると、ラジオドラマも新しい局面を迎える。その少し前から見てみよう。
昭和22(1947)年7月に、菊田一夫の「鐘の鳴る丘」が始まる。登場人物である戦争浮浪児の言葉遣いが社会問題化し、物議を醸す。しかし、子供の聴取者たちから絶大な支持を得て六〇〇回以上の放送になった。
菊田とよくコンビを組んだ古関裕而作曲の主題歌「とんがり帽子」もヒットした。昭和24(1949)年10月には、父と娘によるさまざまなシチュエーションによるドラマ「えり子とともに」(内村直也作)が始まった。これは、一回ごとにまとまったテーマをもたせたドラマを放送するというものである。
このような新しい状況の中で、昭和26(1951)年9月、日本ラジオ作家協会編集で『ラジオ文藝』という雑誌が発行された。後書きにあたる「副調整室」の冒頭には、「ラジオ文藝の向上と、その世界に新しく、知性ある分野を開拓しようとして、ここに『ラジオ文藝』を創刊しました」とある。

帯で、NHK昭和26年度文部省芸術祭参加作品のラジオドラマを懸賞募集していた。
南江治郎がNHKの審査員だった。結果は、同年12月号に掲載されている。
ラジオドラマと南江の関係については、「教科書に載ったラジオの働き」(『趣味のモダン・アラカルト』P116~117)でも触れています。
この言葉の背後には、その年の12月から開始される民間ラジオ放送のことが頭にあるのではないだろうか。つまり、NHKだけではなく日本各地にできる民間放送にも、ラジオドラマを拡げていこうとする信念である。雑誌そのものも、民間放送のことを意識した内容になっており、その終わりには、日本ラジオ作家協会所属の作家たちの住所録まで載っていた。連絡をくれということであろうか。
協会の幹事でもあった内村直也は、この中で「ラジオ・ドラマの可能性」という文章を書いている。連載の第一話は「音の世界」というテーマであり、人間の「一番内奥の世界を示すものは、声である」と語り、人間の音の世界がラジオドラマの世界に無限の可能性を感じさせると結んでいた。基本的には、大正15年当時の文学者たちの発言内容とそう大差はない。
しかし、すでにたくさんのラジオドラマを作ってきた実作者の言葉には、経験に裏打ちされた説得力がある。ただ、同時に、その向こう側にはテレビ放送のことがあったといえよう。
ラジオドラマは民間放送の誕生とともに、聴取者のさまざまなニーズに応えなければならない状況になってきた。それゆえこのような雑誌が発行され、商業放送もNHKも巻き込んでいく必要があった。さらにいえば、来るべきテレビ放送の時代にも負けないためにも必要だったのである。
地方からのラジオ文化の発信という試みも、見受けられる。昭和31(1956)年、広島県の放送文芸社から『放送文芸』という雑誌が発行された。昭和31年4月号は「スリラードラマ」特集になっていて、そこで「スリラードラマ」について葉書インタビューを行っていた。
前述した『新青年』のラジオドラマ懸賞募集の企画にも関わった森下雨村は、「映画では無理なところが、耳できくラジオでは、不自然も無理もなく、うまくいく筈」と感想を述べ、作家の渡辺啓助も「耳」を主とするラジオドラマを考えていたのが見受けられる。
また、山村正夫は「小説はどこまでも小説で、ラジオドラマはどこまでもラジオドラマだと思います」と言い、ラジオドラマのあり方を「音の世界」から見ようとしていた。さまざまな作家たちがテレビドラマを横目で見ながら、声の世界を創りあげるために格闘していたのである。
………テレビドラマに慣れた現代人の耳に、果たして彼らの声は届いたのであろうか。
