長田幹彦と「蒼き死の腕環」 湯浅篤志
※次に掲げた文章は、2020年11月に発行された、長田幹彦『蒼き死の腕環』(ヒラヤマ探偵文庫10)の巻末に掲載された「解説 長田幹彦と「蒼き死の腕環」」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。

通俗化される関東大震災後の雑誌
長田幹彦の小説を読んでいると、虚構と現実の淡いに立つ感覚を覚える。虚実皮膜の近松門左衛門の物語ではないけれど、そういう不思議な感覚になってくる。
長田幹彦 『九番館』(ヒラヤマ探偵文庫06)は、横浜の居留地を舞台にしている小説であった。現実にあった横浜の居留地は、明治32(1899)年に廃止されている。しかし、大正時代になってからも、そこは「居留地」というふうに呼ばれていた。谷崎潤一郎が横浜に住んだときの思い出を描いた「港の人々」(大正12年)でも、その呼び方は出てきている。つまり、現実にはないのだけれども、かつてあった、その場所で物語が進められ、場所の名前の力で虚実皮膜のストーリーが支えられていることがわかるのだ。
本巻収録の長田幹彦「蒼き死の腕環」は、『婦人世界』(実業之日本社発行)の大正13(1924)年1月号(19巻1号)から12月号(19巻12号)まで掲載されていた物語である。挿絵は、林唯一。掲載雑誌の目次には「探偵小説」とあり、連載開始時から探偵小説として読者に紹介されていたのがみえる。これは同年5月号まで続き、6月号からは消えている(本文においては、3月号から6月号までタイトル前に「探偵小説」と書かれていた)。
連載初回の『婦人世界』は「家庭幸福建設号」であった。前年の関東大震災からの復興を眼目とした編集内容である。震災の影響で、さまざまな雑誌の大正12年11月号が11月10日頃でないと出そろわない時期だったが、各社は次の12月号を一斉に休刊にし、大正13年新年号を12月中旬には発行しようとしていたときだった(「新年の婦人雑誌は/「復興」が眼目……(一)」『読売新聞』大正12年11月12日付より)。
震災後の混乱した状況の中で『婦人世界』新年号の編集部は、長田幹彦に探偵小説を描いてもらう方針をとったことが面白い。「新年の婦人雑誌は/「復興」が眼目……(二)」(『読売新聞』大正12年11月14日付)という記事によれば、これは『婦人世界』の新編集主任、小倉秀道の意向であったらしい。「震災のため沈みがちな心機を光明方面へ一転しようという意図に変りはない、それには家事の各方面に亘(わた)つて最も実際的な家庭読物を精選満載する」と述べられていた。つまり、長田幹彦の探偵小説なら、「沈みがちな心機を光明方面へ一転」できるという期待があったからだろう。
さらに同号から、一龍斎貞山の講談「烈女お辻」の連載が始まっていた。婦人雑誌に講談を取り入れるという英断も、小倉が仕掛けたようである。要するに、通俗に徹しようとする姿勢が見えてくるのだ。
震災後における雑誌の通俗化の徹底は、『婦人世界』発行元の実業之日本社に限ったわけではなかった。老舗の博文館もそうであった。当時の編集局長であった長谷川天渓は、主力雑誌の『太陽』も通俗化をすると述べている。「新聞に接近して来る/『太陽』の改革振りと/宣伝に努力する雑誌『現代』」(『読売新聞』大正12年11月24日付)という記事の中では、天渓が次のように語っていたのが窺われる。
在来載せてゐる文芸創作を一切省いてしまつて歴史小説とか探偵小説とか一般向きにモツト面白いものだけを載せる、論文も何もかも悉(ことごと)く▽……振仮名付にする。つまり程度をズツト低くして誰にでも読まれる面白い雑誌にする。
このような天渓の発言は、関東大震災の惨事の後、人々の復興に役立つ売れ筋の商品を作るという視線があったと思われる。しかし、天渓はそれ以前から、中間層の人たちにためになる読み物を広めていかなくてはならないという考えを持っていた。
たとえば、「中流階級の活路」(『太陽』大正8年9月号)では、中流社会は損な立場にある、上下社会の中間にあるのだから安全なようであるが、不安である、なぜなら上流も下流も保護や救済を受けているが、中流にはそれがない、しかし中流社会には教育制度がある、それゆえ中流社会の人々は「自由な精神的生活に入るべき傾向」が強いという、そこに中流社会の活路があるのではないか、と述べていた。
少し極端な階級分けのような気もするが、人数の多い中流階級の人々を、より良い暮らしやすい方向へ導こうとする気持ちが見えてくる発言であるといえるだろう。
さらに、その具体的な方策として「民衆文芸としての探偵小説」(『新文学』大正10年1月号)の中では、一般民衆の知的好奇心が盛んにならないと文化を進められなくなるので、そうした好奇心を刺激するために、以前は古い講談物でもよかったが、現在は探偵小説が有効である、と考えていたようなのだ。
すなわち、前述した『太陽』の改革発言の記事と合わせて考えてみれば、天渓は震災後の復興で、人数の多い中間層の人々が自由な精神の発露のきっかけとして探偵小説がよいのではないかという期待を持ち、雑誌改革を進めようとしたことが理解されるだろう。
そして、そこまで天渓が思っていたということは、雑誌作りにおいて、探偵小説の力を無視できない状況にあったということにならないだろうか。これは斯界の人々も同様だった。
探偵小説としての自覚
婦人雑誌のみならず、総合雑誌にまで通俗的な読物を掲載していく傾向は、大正12(1923)年9月の関東大震災を境にして、強まっていった。大正13(1924)年になると、出版業界も徐々に復興してきて、さまざまな読物が雑誌、新聞などを賑わせていく。もちろん、震災以前から通俗読物の需要はあったわけだが、東京や地方の大都市へ流入する中間層の人々、いわゆる都市労働者の増加が通俗物への要求を高めていったといえるだろう。そして大正13年の暮れには、あの大いに売れた『キング』大正14年1月号(大日本雄弁会講談社)が満を持して創刊されている。
このような社会情勢を、作者の長田幹彦が見逃すはずがなく、「探偵小説」としての自覚をもって書いたのが、本巻に収録した「蒼き死の腕環」であった。
この作品に関して幹彦は、「探偵小説時代」(『新青年』大正13年8月夏季増刊号)というエッセイを書き、その冒頭で、次のようにいっていたのが気にかかる。
私は日本の探偵小説といふものには、疾(と)うから失望してゐる。いろいろなものを読んでみても、何(ど)うも面白くない。此頃になつて、一寸(ちょっと)とした興味から自分でも一つ二つ書いてみようと思つて、手馴らしに可成り苦心して書いてみたが、自分の思ふ十分の一の効果も得られない。
探偵小説を書いてみたが、手応えがないことを告白している部分である。「手馴らしに可成り苦心して書いてみた」とあるが、その作品は「蒼き死の腕環」であることに間違いないであろう。「自分の思ふ十分の一の効果も得られない」とも自嘲気味に語っているが、作品を読んでみればわかるように、謎解きという「探偵小説」らしさの少ない点を気にしているのかもしれない。
その理由として、同じ文章の中で「日本人の生活がどうも探偵小説向きではない」ことを挙げていた。「一家族の生活が一軒の家にまとまつてゐて、而(しか)も垣根と雨戸と障子位で、他の生活と隔てられてゐるんでは、いかにも入りが浅い。大概の家では床の下へ潜り込んで聞いてゐれば、どんな秘密でも分つてしまひさうである」とし、探偵小説の舞台としてふさわしくない日本家屋の佇まいを挙げていたのだ。また「米国物の活動にあるやうな仕掛けを東京市内へもつて来たつて、読者にそれだけの現実性を感じさせることは出来ないのだから情(なさけ)ない」とも述べていた。アメリカ映画に出てくるような建物などを、物語の中に仕込んでも、日本の読者に訴えられないと嘆いていたのである。
それゆえ、「蒼き死の腕環」の中では、中心人物である曲芸師の房江と混血の美少年ヨハンをホテル住まいにしたり、海外航路の客船を舞台にしたり、横浜の居留地や東京の洋館を物語背景としたりして、探偵小説らしさを出そうとしたといえるだろう。また、登場人物たちと「英語」での会話も多い。「日本人の生活」らしくない設定にして描いたのだが、しかし、それでもうまくいかなかったことをここで告白していると読めるだろう。
さらに、幹彦はいう。
此頃になつてこんなに探偵物の需要が多くなつた理由を考へてみる。怪奇だから面白い、意表に出るから面白い。物凄いから面白い、科学の可能性と空想とが巧みに、そして刺激的に塩梅してあるから面白い。その面白さに依つて来たところはいろいろあらうが、結局、私は我々の母達が涙香の『鉄仮面』や、『巌窟王』に没頭してゐた時代の心持ちとは全然違ふんぢやないかと思ふ。それよりももつともつと進んだ一種の科学的にデイジエネレート〔退廃〕した心持ちから発足して、丁度ネロが奴隷の女を水牛の餌食としたやうな意味の心持ちで読むのではないかと思ふ
大正13年当時の探偵小説の需要の多さを、従来の読者との感性の違いから述べていた部分である。
科学技術の進歩により生じた、身のまわりの生活環境の変化とともに人々の感性も堕落してしまったことを表現し、より即物的でお手軽な強い刺激を享受する読者層の出現を、ここでは皮肉っていたのかもしれない。もし長田にこうした気持ちがあるならば、この時点で探偵小説を面白く書くのはたいへん難しくなるはずである。
たとえば、物語の前半部分(連載では、第三編にあたるところ)に、房江がだまされて映画を撮られる場面があった。「不思議な画室(アトリエ)」や「悪の華」の章における子爵夫人の邸宅ホールの奇怪で幻想的な光景や、「毒牙」の章で房江を眠らせて弄ぶエロティックなシーンである。
しかし、これらのシーンを幹彦が克明に描いてみても、「蒼き死の腕環」の場合、探偵小説における謎解きの本筋につながる効果は薄いといえるかもしれない。通俗的な物語に見られる、読者の好奇心を刺激するだけの怪奇幻想的な一場面になってしまうからである。言い換えれば、探偵小説という謎解きの力が弱いので、その伏線にもならず、登場人物たちの関係を強調して伝えるための描写にしか見えなくなってしまうのである。
だが、物語の後半、房江がある使命を帯びてフォックス未亡人の邸宅(洋館)へ行き、体験する出来事の場面はどうであろうか。洋館内部の構造も含めて、秘密結社や未亡人の正体を知る驚きは、謎解きという探偵小説のプロットとして機能する可能性を秘めていた。
しかし――それにしても、である。こうした描写があるにもかかわらず、幹彦には探偵小説を書いているという手応えがほとんどなかったのは、前述したとおりだ。通俗情話作家としての長田幹彦が、場面の風景を探偵小説として再構成するとき、謎を提示して、それに決着をつけるというやり方、つまり謎解きのプロットを探偵小説として、うまく機能させられなかったからなのである。そこに「探偵小説」に挑む、当時の既成作家たちの限界があったといえるだろう。
映画にならなかった「蒼き死の腕環」
「蒼き死の腕環」発表の約一年前、小説の中で、同じく映画の撮影シーンを描いた作品に、谷崎潤一郎の「肉塊」(『東京朝日新聞』大正12年1月~4月)があった。これも舞台が横浜で、大正10(1921)年当時の、映画と関わる不良少年、少女の生態を描いていた。主人公の小野田吉之助が、従来の映画にはない新しいタイプの映画を作る話であり、そのため自分の理想であった混血の美少女グランドレンに執着し、身を持ち崩していく物語だった。
吉之助の考える美少女の撮影とは、顔の表情をゆっくりとなめるように写していくクローズ・アップの手法であった。それが芸術的効果を生むと考えていたのだが、結婚して子供もいる吉之助だったのにもかかわらず、だんだんと監督という立場を離れて、少女にのめり込んでいく。その過程に面白みがあり、この撮影描写が、読者に対して吉之助の心情を深めるような力を生んでいた。それは、新聞に掲載される通俗小説の技巧の一つとしては、わりとうまくいっていた。
それに対して、「蒼き死の腕環」のほうは、どうであろうか。読者が『婦人世界』の目次に書いてある「探偵小説」としての期待を持って読んでいくと、そこには〈探偵小説らしさ〉がないことに気づく。洋館での映画の撮影シーンを読んでみても、それが探偵小説のプロットとして生かされていない。幹彦自身にしてみても、風味としての探偵小説の味わいを出せたかもしれないが、自分の描きたい探偵小説になっていないと自覚していたはずである。繰り返しになるが、それが前述した「探偵小説時代」の言葉になっていたといえるだろう。
ところで、「蒼き死の腕環」は『婦人世界』に連載中に、映画化の話があったのは、興味深い。しかし、これは当時の安易な映画制作企画を現しているのかもしれない。
「「蒼き死の腕環」は回を重ねる毎(ごと)に大評判で、今度愈々某大キネマで、八月頃に活動写真にすることになりました。御評判を願います」と、『婦人世界』大正13年3月号の第三編(「不思議な画室(アトリエ)」~「幻夢」)の冒頭にある「前号の筋」の終わりで告知されていた。この第三編は、前述したように、房江がだまされてエロティックなシーンを撮影されたところである。それゆえ、このような告知を出せば、映画企画者は映画化が簡単にできると考えたのかもしれない。映画ファンの欲望に乗じて、スポンサーに訴えかけたかった。
しかし、実際には映画化されなかったようである。大正13年春のこの時点では、長田自身が忙しく、「蒼き死の腕環」の結末をたぶんつけられなかったからだろう。もちろん、映画製作会社が、かってに結末を製作してしまうことも考えられるが、幹彦がそれを許さなかったのかもしれない。
この時期の長田幹彦の忙しさに、複数の新聞小説をさまざまな新聞紙に掲載していたという事実があるだろう。たとえば「呪ひの盾」(『万朝報』大正12年8月~同13年6月)、「黒い塔」(『台湾日日新聞』)大正13年1月)、「火の鳥」(『中央新聞』大正13年2月~10月)などであった。さらに大正13年後半においても、「火焔の鼓」(『やまと新聞』大正13年7月~12月)、「故郷へ」(『満州日日新聞』大正13年10月~同14年4月)の連載などを持っていた。田山花袋に「新聞小説家」(『近代の小説』大正12年より)といわれるのも、無理はなかったのである。
また、『婦人世界』に「蒼き死の腕環」を連載する前に、「沈む夕陽」を『婦人倶楽部』に掲載していたことがあった。大正13年3月号まで連載していたので、前述した『婦人世界』の編集主任、小倉秀道が、売れている幹彦に「探偵小説」を頼んだのは、婦人読者に振り向いてもらうためだったといえるだろう。と同時に、ほかの婦人雑誌に、幹彦の連載を取られたくなかったことも考えられる。
その一方で、幹彦は久米正雄とともに、蒲田にある松竹キネマの撮影所顧問になって活躍もしていた(長田幹彦の大正期の映画との関わりについては、拙著『夢見る趣味の大正時代』論創社、2010年で言及している)。
幹彦が、たくさんの小説の執筆に追われているならば、松竹キネマの撮影所顧問になっていたとしても、年末に完結する長編「蒼き死の腕環」の結末を、その年の春に考えるのは難しい。また映画撮影のセットについても、「探偵小説時代」の中で述べていたように不満な点が多く、それが理由で映画化が無理だったと思われるのだ。
虚実皮膜の「蒼き死の腕環」
この大正13年は、関東大震災の後において、人々が娯楽を求める気持ちが強かったと先に述べた。その中でも、とくに映画は、当時の民衆娯楽の代表だったということはいうまでもない。
「映画と講談と/民衆娯楽の傾向」(「月曜付録」『読売新聞』大正13年4月7日付)という記事では、「民衆娯楽の芸術の有形的な最大代表は活動写真である云ひ得るなら之に相対する無形の方面は講談落語を中心とする所謂娯楽雑誌が選ばれたる代表であらねばならぬ」とし、当時の『講談倶楽部』の編集主任、淵田忠良の言葉を引用し、以下のように述べていた。
曾て松竹キネマの中尾鶯夢君がかう云つたことがある、性愛劇、喜劇、探偵劇、冒険劇、犯罪劇などと多種多様の面白い新映画を沢山輸入されるが、いつもきまつて大入満員を占めるのは我国では何と云つても忠勇義烈とか武勇とか義侠任侠を主題としたものであると、之が偶然にも亦た娯楽雑誌に於て同様なのである。
とどのつまり、娯楽雑誌において人々に求められていたのは、「忠勇義烈とか武勇とか義侠任侠を主題としたもの」だと、いいたかった。淵田忠良や中尾鶯夢のこの発言は、そもそも「忠勇義烈とか武勇とか義侠任侠を主題としたもの」を好きな人たちが、娯楽には必要だったところから発せられていたものである。たしかに、現実世界の人々が娯楽に欲するものは「忠勇義烈とか武勇とか義侠任侠を主題としたもの」なのだろう。それに即せば、映画も観客が入り、娯楽雑誌も売れる。
しかし、震災後の新しい時期では、復興の時代に沿った新機軸のメッセージが雑誌に求められているのは、いうまでもない。その一つが、いわゆる「探偵小説」だったのだ。
そういう観点から考えれば、婦人雑誌に探偵小説を書くためには、少なくても二つの困難に立ち向かう必要がある。一つめはテーマの問題。「忠勇義烈とか武勇とか義侠任侠」を婦人相手にどのように書いていくかという問題である。男性の感性で仕立てられた物語を、どのように女性読者の興味に即して構成していくかである。もう一つは、「探偵劇」の面白さを女性にどのように伝えていくかという問題であった。
幹彦にとって、前者は「情話」という武器で、物語の枠を作ればよいことがわかっていたはずである。「蒼き死の腕環」では、連れ去られたヨハンを房江が助けたいという心意気であった。これは物語の後半で彼女が国家を救おうとする使命と重なっていく。またヨハンの父を探す話を底辺にずっと流していたこともある。登場人物のしゃべり方も、場面によっては個性を際立たせるような俗っぽい口調になっていた。「情」を読者に共感させやすいようにである。後者は、秘密結社LLL団に挑む房江の女スパイとしての役割を描くことだった。
この時期、新聞小説を書く他の既成作家も同様の問題にぶつかっていたと思われる。通俗作家の久米正雄が、「蒼き死の腕環」とほぼ同時期書いた探偵小説に、「冷火」(『時事新報』大正13年1月~6月)という作品があった。そこでも同じような問題が横たわっていた。
久米も「探偵小説」という新しいジャンルのために解決策を考えたはずである。テーマの問題では、久米自身の作品である「蛍草」(大正7年)や「破船」(大正12年)でなし得た、困難であるが燃え上がる「恋愛」を軸にした物語で女性読者をつかもうとし、探偵劇の問題では、盗まれた「ガンジーの涙」という魅力的なダイヤモンドの行方をめぐって、怪盗ルパンまでも登場させ、新鮮味を出そうとしていたのである。
この「冷火」は日活で映画化され、原作がまだ新聞で連載中にもかかわらず、同年5月に浅草の三友館で上映されていた。物語が終わらないのに映画化されるという状況は、謎解きの結末がまだわからないうちに映画で見せてしまうことなのだろうか。それとも、映画製作者が結末を勝手に考えて製作してものだったであろうか。それはわからない。
しかし「冷火」の場合、物語の場所が浅草、銀座を中心とする物語であり、「蒼き死の腕環」のような豪壮な洋館内部や海外航路の客船内部の描写など出てこなかった。それゆえ、映画のロケーションをしたり、背景セットも用意しやすかったりしたと思われ、現実に映画化もできたのである。
小説が映画化されると、視覚に訴えるために、どうしても原作を読んだ読者は、想像で描いた世界との違いを感じてしまうことが多い。白黒の無声映画なら、余計にそれを感じてしまう。そういう経験をした読者は、小説映画から遠ざかってしまうかもしれない。だから、小説の原作に勢いがあるうちに映画化をして、たくさんの人たちに見に来てもらうという商売上の戦略があったといえるだろう。
しかし、長田幹彦の「蒼き死の腕環」の場合は、「探偵映画」の制作が難しいくらい、探偵小説の設定が弱かったことも考えられる。前述したように、連載中の雑誌目次や本文の見出しから「探偵小説」の名称が消えていたこともある。
『婦人世界』編集部もわかっていたのだ。読者に対して、いつもの「幹彦もの」の小説として、楽しんで読んでもらうことを望むようになっていった。結局のところ、「探偵小説」という肩書きは、キャッチコピーとしてしか機能しなくなっていたのである。そうであるならば、映画製作をするならば、いつもの〈幹彦もの〉として作ればいいと思うのに、それすらもできなかった。「蒼き死の腕環」の場合、いろいろな面で映画化が難しかったのでないだろうか。
「蒼き死の腕環」の物語は、関東大震災からの復興の中で、どうしようもない現実と向き合って、そこから抜け出し、「幸福」になっていく夢を婦人たちに持ってほしかったところに、目的があったといえるのではないだろうか。そもそも連載開始の『婦人世界』大正13年1月号が「家庭幸福建設号」であった。
現実の東京、横浜であるのにもかかわらず、どこか夢でも見ているような世界を描き出し、さらに、プレジデント・リンカーン号や天洋丸などの豪華客船の内部での出来事が、大海原に投げ出された孤独な房江とヨハンを救うものになっていて、それを味わってほしかったかもしれないのだ。
物語で繰り広げられる房江の美しく、けなげな姿に、震災後の復興の時代にふさわしい女性の生き様を投影したかったのではないだろうか。それは、震災で行き場を失った女性たちのアナロジーであり、悲惨なリアルと未来を夢見るロマンとの狭間で、読者を鼓舞しようとする試みだったといっても過言ではない。誤解を恐れずにいえば、昭和になってから探偵小説作家大下宇陀児の提唱したロマンチック・リアリズムの源流だったのかもしれない。
長田幹彦の「蒼き死の腕環」の場合、探偵小説には届かなかったが、すでにロマンチック・リアリズムの精神が胚胎していたのである。夢見る世界に届きそうだけど届かない、しかし、それに触れようとしたいロマンの精神を描きつつ、足下はしっかりとリアルな世界に根付いていたのだ。そして最後には「幸福」が訪れる。虚と実の世界を行き来する物語。それが「蒼き死の腕環」という新しい様式の「探偵小説」だったといったら、深読みであろうか。
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