長田幹彦と「九番館」 湯浅篤志
※次に掲げた文章は、2019年11月に発行された、長田幹彦『九番館』(ヒラヤマ探偵文庫06)の巻末に掲載された「解説 長田幹彦と「九番館」」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。

長田幹彦は誰だ?
長田幹彦(ながた みきひこ)という小説家の名前は、今ではほとんど聞くことがない。本屋に行っても小説がないのは当然で、古本屋に行ってみても、あまりお目にかかれない。もし読もうと思ったならば、図書館に行って、検索をして、書庫から出してもらうしかないだろう。それほど、忘れられた作家になっている。
大正の初めから昭和にかけての頃は、長田幹彦は、押しも押されぬ通俗文学作家の一人であり、流行作家であった。その作品は、時代とともに生きる、狭くて苦しい人々の日常生活に漂うさまざまな感傷を、ロマンティックでありながらリアルなまなざしで描き出したものだった。そこはかとない感情のもつれが、人々の心に染み入っていく内容を持っていた。
そういう情話が新聞や雑誌を静かに賑わし、どこでも長田幹彦の小説が読めるような時代だったのである。娯楽の王様になりつつあった映画でも、彼の小説を原作にして作られたものが多かった。彼の作り出す物語は、大衆の心に現実を教えてくれるものだったのである。
長田幹彦は、明治20(1887)年3月1日、当時の東京市麹町区九段坂上で次男として生まれた。長男は、詩人、劇作家の長田秀雄であった。父の長田足穂は警察医をしていたが、明治24(1891)年に、富士見町に居を移し、そこで輔元医院を開業していた。ここで、この巻に収録した「九番館」の登場人物、原島貞一郎が医師であったことを確認しておこう。自分の家族のあり方をモデルにした可能性があるのだ。
幹彦は、当時の東京高等師範付属中学を明治37(1904)年に卒業し、その後、早稲田大学英文科へ入学した。大学では講義をさぼって、図書館でツルゲーネフやトルストイを読みふけったらしい。そのため、大学には八年いた(?)と自身で述べているが、卒業年が『新青年』初代編集主幹の森下雨村と同じ、明治44(1911)年7月というのは興味深い。大学卒業名簿には、「明治四十四年得業◎英文学科第一部」の場所に、森下岩太郎(雨村)の他に作家の吉田源治郎(吉田絃二郎)、加能作次郎らの名前とともに、長田幹彦の名前が記されている。
翌年、長田幹彦は、文壇作家としてのデビューを果たす。「零落」という作品が、『中央公論』明治45(1912)年4月号に掲載され、当時、一作ごとに名声を高めていた谷崎潤一郎と対比されるように文壇で持てはやされるようになった。谷崎の耽美的な悪魔主義に対して、幹彦の作品は揺れ動くセンチメンタルに彩られたリアリズムの作風であったので、過大に評価されたのかもしれないと、幹彦自身が述べていた(「跋」『青春時代』昭和27年より)。
「零落」は、幹彦が大学在学中に遊蕩三昧の生活で父親から勘当され、自暴自棄になって北海道を放浪したときの経験を描いた作品である。石狩川畔の旅人宿で無聊を託(かこ)っていたとき、登場人物の「私」は、ふとした偶然で芸者たちと出会った。「野寄座という芝居小屋」を見に行き、そこで旅役者の一座を知ることになる。世間の荒波にもまれ、もがく彼らの話を聞くうちに、自らもその感傷に感化されてしまい、同じ一員として旅に出るという物語であった。ここで再びモデルの話を持ち出して恐縮だが、「九番館」に出てくる貿易商で富豪の中川政広もまた、幼い頃、北海道へ移住していたことが思い出されるだろう。
この当時、文壇作家として認められるためには、『中央公論』の文芸欄に作品が掲載されなければならないという風潮があった。長田はその前年、文芸雑誌『スバル』に掲載した「澪(みお)」で、正宗白鳥や岩野泡鳴に認められていた。それがきっかけとなり、『中央公論』編集長だった滝田樗陰に目をかけられ、「零落」を『中央公論』に作品を載せることができたのだ。
流浪と論争の向こうに
運良く、文壇デビューを果たした長田幹彦であったが、しかし放浪癖は直らず、すぐに京都へと旅立ってしまった。そこでは谷崎潤一郎もいて、彼とともに遊んでいた。谷崎もそのときのことを『青春物語』(昭和8年)に書いていた。よほど楽しかったのだろう。
このように幹彦の小説には、登場人物が一カ所に落ち着かないものが多い。前述した「九番館」の中川の人生もそうだった。幹彦自身の放浪癖が、作品の登場人物の性格にも関わってきているかもしれない。
文壇作家としての幹彦の作品は、「哀艶情話」と呼ばれていた。流浪の北海道、京都の生活を中心に、狭い世間の男女の機微を描いた作品は、いわゆる「幹彦もの」と称されている。一部の作家、評論家は、これらの作品を売れれば構わない「扇情的な戯作」とまで揶揄していた。
しかし『旅役者』や『祇園夜話』(大正2年)などの作品が単行本化され発売されると、江湖に評判が高く、大きな売り上げとなっている。さらに竹久夢二が装丁した『鴨川情話』(大正4年)などは、表紙の夢二式美人と相俟って人気を博すこととなった。作品の登場人物が、夢二の描く女性の雰囲気とマッチしていたからである。
だが、そういう売れ行きを妬んだためであろうか、大正5(1916)年に、それらを総称して「遊蕩文学」と呼びならわし、文壇から葬り去ろうという遊蕩文学撲滅論が起こってしまう。評論家の赤木桁平らが、遊蕩文学を作り出す長田幹彦や近松秋江、吉井勇らに気炎をあげ、彼らを文壇から葬ろうとしたのである。その運動は、文壇作家や評論家たちを巻き込み、いわゆる遊蕩文学撲滅論争に発展していった。
しかし、それにもかかわらず、長田幹彦は雑誌や新聞に小説を書き続けてることができた。雑誌の編集者たちが、幹彦の描き出す作品を要求したからである。彼らは、幹彦の作品が男女関係の世間体に縛られた読者たちを喜ばせることを知っており、出せば売れると判断することができたからであった。
ところで、遊蕩文学撲滅論争は、大正教養主義の影響を受けた、いわゆる自己の真実を追究し、それを告白することで主観の乗り越えを模索する、文壇人たちの問題意識と連動していた。それゆえ、作品に登場する人物たちが自らの煩悶、反省を告白する心境小説の形をとることになった。文壇文学の流行は心境小説、告白小説となり、大正後期の私小説興隆の基盤を醸成していくことになった。
さらに、大正6(1917)年のロシア革命の影響もあり、労働者や無産者を中心とする民衆芸術のあり方に関して、論争が引き起こされていくことにもつながっていく。それは民衆芸術論争であった。現在の苦しい生活から脱出して、新しい生活を導く民衆のための芸術を欲することでもあった。
こうした並列した一連の論争の流れは、大正9(1920)年から翌10(1921)年頃における文壇内に起きた現実社会に目を向ける労働文学運動(プロレタリア文学運動)を経て、大正11(1922)年、有島武郎の出した「宣言一つ」をめぐる論争にまでたどり着くことになった。その流れの中で、文壇人から、今まであまり目を向けられなかった下層の階層の人々の内面の問題を考えることも浮かび上がってきた。
彼らの生活と、どのように向き合うかが、インテリにおける大きな課題となっていったのである。社会のさまざまな階層に目を向け、そこで生じる人間の生き方を描き、人権の向上のみならず社会をより良くしていこうとする意識が、大正デモクラシーの中で大きくなっていったのだ。
時代風潮に敏感であった幹彦は、この流れを見逃さなかった。そもそも幹彦の文壇デビュー作「零落」も、地方を渡り歩く旅役者、つまり共同体の周辺にいる人々に目をむけたものである。それゆえ、彼の作品においては、もともとそういった秩序の外にいる人々へのまなざしは内在しており、時代の流れをキャッチするのは容易だった。そこで、いわゆる〈社会小説〉への興味が、この大正中期から後期にかけて、長田幹彦の意識を支配していったといえるであろう。
長田幹彦のめざす〈社会小説〉
今回、この巻に収録した「九番館」であるが、この作品は、博文館発行の『家庭雑誌』大正9(1920)年6月号(6巻6号)から大正10(1921)年5月号(7巻5号)まで掲載されたものである。挿絵は、山田隆憲。表題の角書きに「長篇小説」とあった。
『家庭雑誌』は、中流家庭の主婦をターゲットした雑誌であり、家庭生活に潤いを与える記事、読み物が中心の雑誌だった。「九番館」が連載中の大正10年4月号の表紙は、キューピー人形を抱いた淑女の絵であり、社会の流行を取り入れようとする姿勢が強い。「九番館」はその後、単行本として、大正10年8月8日付で博文館から発行されている。
長田幹彦は、この時期、〈社会小説〉を描きたい気持ちが強かったようだ。幹彦は「九番館」とほぼ同時期に、「社会小説」として「闇と光」(『東京朝日新聞』大正9年6月21日付~大正10年2月19日付、240回)という新聞小説を書いていた。それを書くにあたって述べた「社会小説『闇と光』に就て」(『東京朝日新聞』大正9年6月20日付)の中で、次のように述べていたことが気になってくる。
今度の作では私は今迄の作品と全然異つた範囲に材を取り、風雲暗澹たる満蒙から西伯利(シベリヤ)の荒野に於て日本の国運の興廃の為めに身を挺して死生の巷に出入してゐる某老政治家の半生と、その一女である可憐な令嬢の奇しき運命を事実のまゝに描破し、現代の風潮と国家社会の緊急な問題にも触れてみたいと思つてゐる。これは私が最近に企てゝゐる新社会小説列冊中の一篇として、是非とも江湖の識者諸賢の厳正な鑑賞と批評とを仰ぎ度いのである。輓近(ばんきん)新聞小説界の傾向を窺ふに、読者の思索的生活乃至趣味性が時運と共に驚くべき程度まで向上発展してきた為めに、作家も従つて一層厳粛な態度が執れるやうになつて来てゐる。在来の低級な通俗小説や所謂続きもの式に、徒(いたず)らに作為を弄し、不自然極まる脚色の波瀾に依つて卑俗な、安価な涙を強ひる低(てい)のものではもう到底現在賢明な読者の興味を繋ぐことは不可能になつて来てゐる。私達が長い間翹望(ぎょうぼう)してゐた時代、即ち芸術が実際生活と歩武(ほぶ)を一にし、作家が真剣になつて新聞小説を書くことの出来る時代が到頭やつて来たのである。殊に本紙の如きは各方面の知識階級に大多数の読者を持つてゐる関係から作家にとつては執筆する上に猶一層自由な境地が展(ひら)かれてゐるのである。
「闇と光」の最後には、ロシアのハバロフスク周辺で日本人がパルチザンに襲撃された話が出てくる。当時は第一次世界大戦終結後の日本であるので、満蒙やシベリヤに、いろいろな興味を持って目を向けている日本人も多かった。上記の引用部にあるように「読者の思索的生活乃至趣味性が時運と共に驚くべき程度まで向上発展してきた」ことが背景にあったので、このような政治情勢の話題を新聞小説に載せても、幹彦の作品を楽しみにしている読者に海外の「現実」が届くと考えたのであろう。社会風潮に敏感だった幹彦は、実は新聞小説を読む読者に大きな期待をしていたことが、読み取れる文章だといえるのではないだろうか。
この当時、パルチザンが日本軍人とたびたび衝突していたのは事実であり、『読売新聞』大正10年8月5日付には「パルチザン盛に暴れ廻る/日本軍との衝突頻々たり/【国際浦盬廿九日発】曩(さき)にマンゾフカ付近に於て日本軍隊の輸送列車を襲撃して三輪参謀長以下多数の日本軍人を殺害したパルチザンは其後益々暴行の度を加へニコルスク、エヴゲニエヴカ間の鉄道沿線に出没して橋梁を焼棄し電線を切断してゐるが遂には此付近の鉄道線路をも破壊すべき形勢である」とあった。決して大きくはない記事であるが、こうしたロシアのウラジオストックから通信を基にして、幹彦は社会小説の素材に仕上げたのであろう。
引用部にはまた、「私が最近に企てゝゐる新社会小説列冊中の一篇」とあるが、これは、「闇と光」だけではなく、たとえば大正8(1919)年に『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に連載された「白鳥の歌」であり、また、大正8年から大正9(1920)年にかけて『新家庭』に連載された「しぐれ唄」でという作品も含まれていた。
前者の「白鳥の歌」は、幹彦自身が小笠原長幹伯爵にお世話になったときのことを「少なくとも大正四五年代の貴族社会の実情を極めてリアルにかいたつもり」ということだった(「待合政治の内幕」第一話『青春物語』昭和30年より)。小笠原長幹伯爵は、幹彦に「政治小説をかかせたくて、それこそ必死になつて誘導してくれた。まったく啓蒙至らざるなしであつた。僕(長田幹彦)が議会政治の虚々実々を身をもつて体験することが出来たのは一に小笠原伯爵のおかげである」とまで述べていたのである(前掲書より)。小笠原伯爵を通じて、貴族社会の生活に入っていった幹彦がいた。その体験を彼自身のいう「新社会小説」に仕上げたといえるだろう。
後者の「しぐれ唄」は、明治のたばこ王、村井吉兵衛とその家族をモデルした物語である。実業家が、社会の趨勢とどのように対峙していくかを家族のあり方と共に描いていたものである。その雑誌広告(『新演芸』大正9年11月号による)によれば、「著者が最近に手を染めだした社会小説は一作毎にその緊張の度を加へて来ました。某大家が本篇を批評して、大正の時代思潮と世相とを最も価値ある取扱ひ方で具象した得難い作品であると激賞して」いたとあった。第一次世界大戦後の大正時代に生きる実業家を、不況という世相と共に、リアルな〈社会小説〉として扱っていたのが読み取れるのである。
そして、幹彦の「社会小説」という創作意識を、出版社も読者に向けてアピールしていたことがわかるだろう。それほど、当時の幹彦の創作と〈社会小説〉は、切っても切れない関係になっていたのである。
『九番館』は〈社会小説〉か?
幹彦の唱える〈社会小説〉とは、前章引用部の言葉を借りれば、「現代の風潮と国家社会の緊急な問題」にも触れられている内容を持つものであった。それでは、「九番館」を、もし〈社会小説〉と呼ぶことができるならば、どのような内容を持つものとして考えられるだろうか。
「九番館」は、登場人物の原島貞一郎のおこした貧児院が舞台の一つであった。それと桐原子爵の洋館、中川政広の邸宅の描写のコントラストが、社会格差の象徴となって見事に描き出されている物語だった。
貧しい者と富める者。この時期、貧困児童の救済は社会問題になって事実もあった。先ほど引用したパルチザンの日本軍人襲撃記事と同じ新聞紙面には「就学の資力なき/貧困児童の救済/公共団体に補助させる/法律にて規定せんとの議」という記事があった。英国などでは、貧児だから就学を猶予したり免除されたりすることはなく、最低限度の教育は無月謝で学用品も給与もしくは貸与し、給食も公費でまかなうとあり、それに対して我が国では何らこれらに対策がなく、国家将来のことを考えると、等閑に付すべきではないとし、議案提出が遅れていることを嘆いているものだった。このような格差の激しい社会であることを、幹彦は見抜いていたのだ。それゆえ、「九番館」の設定に、貧児院と洋館、邸宅のコントラストを使ったと考えられるだろう。
さらに、警察の中村刑事がそれらの建物に訪れるとき、観察する彼のまなざしが読者の興味とともにあったことを忘れるべきではない。長田は、読者の社会への関心を中村刑事に代弁させていたのだ。それを通して、「現代の風潮と国家社会の緊急な問題」に読者は触れることができたのである。
それらに加えて、中川をはじめ原島や桐原子爵、そしてかつ子らが、日本へ来る前に、アメリカ社会で厳しい生活を強いられていたことも、日本社会との関係でいえば、「現代の風潮と国家社会の緊急な問題」を示しているといえるかもしれない。かつて小説家の島崎藤村が『破戒』(明治39年)の最後で、アメリカのテキサス行きに主人公瀬川丑松が自身の生活の出口をみたが、「九番館」においては、その先のアメリカ生活の過酷さを示唆しているものと思われる。
また『九番館』の単行本発行と同時期には、プロレタリア作家の前田河広一郎が自らのアメリカ帰りの船の中で、希望を失った船客の様子を描いた「三等船客」(大正10年)が、総合雑誌『中外』に発表されていたという事実もあった。この作品は、アメリカ帰りの日本人達の姿を相対化する内容を持っていて、「九番館」と合わせて読めば、より一層、当時の社会構造の問題点が見えてくるかもしれない。当時の読者のアメリカへの思いに、現実を突きつけるような読書環境もあったのだ。
この当時、アメリカでは排日運動が盛んであった。アメリカにおける日本移民は、太平洋沿岸の州内に強固なる地歩を獲得しつつある時期であったからである。そのため、カルフォルニア州の議会では、日本人植民地の発達を阻止し、アメリカ人の土地、資源また自身の人種、国民を保存するために、大正2(1913)年、「外人土地所有禁止法」を成立させた。大正10年にはその改正法により、日本人の土地所有が完全にできなくなってしまったのである。
オレゴン州や、また太平洋沿岸ではないが、テキサス、ユタ、アイダホなどの州も、当時同じような状況にあった。カルフォルニア州の「外人土地所有禁止法」の厳しい改正に合わせるかのように、オレゴン州やユタ州、アイダホ州でも同様な法律案が議会に提出されていた(『読売新聞』大正10年1月22日付、31日付による)。そして、その声は次第に大きくなり、大正13(1924)年には、連邦議会でいわゆる排日移民法が成立してしまったのだ。
そういえば、長田幹彦は、読者のアメリカへの思いを、自身の初めての新聞小説「霧」(『東京朝日新聞』大正2~3年)の中で、登場人物の俊子の叔父に、次のように述べさせていた。
私(わし)が英国へ行つとつた時分、彼国の紳士達は亜米利加が一番離婚の訴訟が多いと云つてひどく亜米利加人の道徳心の薄いのを罵倒しとつたが、私も全くそれには同感だつた。日本なぞよりも遙かに人心が腐敗してゐると云れとる外国が既にさうだ。
これを読むと、大正初めにおける日本人の暗いアメリカ人観を表象しているようだが、その背後には、アメリカにおける排日法への流れがあるのかもしれない。
ところで、現実世界における日本人のアメリカへのまなざしは、小説世界だけではなかった。この時期、キリスト教社会運動家の賀川豊彦によって、行動に移されていたのだ。賀川は、明治末に神戸神学校を出ると、社会改良運動に身を投じた。とくに貧民の救済に力を尽くしていたのだ。大正3(1914)年には渡米して、プリンストン大学ならびに神学校に通い、アメリカの社会運動や労働運動を研究していた。大正6(1917)年の帰国後には、神戸のスラムで無料診療をおこなったり、また労働組合の設立にも奔走していたのである。
賀川は、大正9年には、それまでの経験を自伝的小説『死線を越えて』で描き発行している。その後、一年あまりで大ベストセラーに成長したのはよく知られた出来事である。
そう、実は長田幹彦の「九番館」も、そういう社会の出版状況の中で描かれていたのだ。前述したように、幹彦は、社会風潮に敏感だった。それゆえ、社会小説にも手を染めたのであるが、賀川豊彦の運動を知らなかったとはいえないだろう。「九番館」で貧児院を作り、医師になり、その周辺の貧しい人々を診療するところなどは、キリスト教を背景にしているところを含めて、賀川豊彦の『死線を越えて』にインスパイアーされたことは間違いないと思われる。「九番館」の背景に社会小説の素材として、賀川豊彦の仕事のあり方をアレンジして仕込んだといえるのではないだろうか。
探偵小説としての「九番館」
「九番館」には、覆面の男が何回も登場する。初めて現れるのは、中川邸での饗宴の後、午前二時をまわり、松枝子が寝る場面である。彼女は誰かが忍び込んでいるのに気づき、ベッドの枕許にある置き電灯をつけた。
明るい電灯の光は溢れるように、さっと室内に漲りわたった。と、そのなかにぬうっと立っているのは背丈(せい)の高い男らしく、頭から足の先まで真っ黒な衣(きぬ)を被って、顔には目だけを明けた同じ色の覆面をしている。そして石像のようにじっと立っていて身動きもしない。
「ぬうっと立っているのは背丈(せい)の高い男らしく、頭から足の先まで真っ黒な衣(きぬ)を被って、顔には目だけを明けた同じ色の覆面をしている」という覆面の男の出で立ちは、戦後、江戸川乱歩が書いた「化人幻戯」(昭和29~30年)に出てくる明智小五郎の変装のプロトタイプになっているといえるだろう。
「化人幻戯」では「天井からの淡い反射光の中に、頭から足の先までまっ黒な人間が立っていた。ピッタリと肉体の曲線をそのまま出した黒ビロードの上衣(うわぎ)、ズボン、黒い手袋、黒い靴、ピッタリ頭部を包んで、目と口に三つの穴があいているブロードの覆面。スラッと背の高い曲芸師のような男だった。」(「17 幻戯」より)とあり、幹彦も乱歩も、そのモデルになるような人物の場面が出てくる映画を、大正時代に見たような感じが伝わってくる。それは白黒サイレントの怪奇探偵映画だったかも知れない。
また、覆面男が中川家へ放り込んだ手紙や、あるいは電話でお金を請求する場面などは、義賊であるアルセーヌ・ルパンのやり口を思い出す。私利私欲のために盗むのではない、欲張りな大金持ちや悪事を働いて莫大な財産を作り上げた人間から盗み、貧しい者、不幸な者、親のない貧児を救いたいというルパンの願いが、覆面の男の言葉に反映されていたといえるだろう。
それでは、「九番館」の連載当時、ルパンはどのようにみられていたのだろうか。評論家の馬場孤蝶は、「探偵小説の研究 何故の興味?=犯罪の芸術化=民衆の味方=新聞と犯罪記事=巨賊リユーパン=(上)」(『読売新聞』大正10年1月30日付)の中で、「アルセイヌ・リユーパンといふ大賊は、金持とか、貴族とかいふ者を苦しめるものであるが、決して殺人を行はない、そして、これを捕へやうとするものは探偵の警部であるガニマアルといふ官吏であるのだから、読者はリユーパンに対する同情を持つ事が出来て、そしてリユーパンに翻弄される相手が警察官吏であるが故に、リユーパンを悪む心がさう起つて来ないわけである。さういふ処が民衆に訴へる物語としては誠に巧みに作られてゐる」と述べていた。
これらの言葉から、「九番館」の覆面の男と中村刑事の対峙の仕方を思い出しても悪くはないだろう。覆面の男が複数の人物が変装した結果であることや物語後半のカーチェイスの場面など、長田がモーリス・ルブランの一連のルパン作品を意識していたといっても過言ではない。ちなみに、自動車好きの長田幹彦であるがゆえに、このような早い時期にリアルで迫力あるカーチェイスの場面が描けたことは特筆すべきであろう(長田幹彦の自動車好きに関しては、拙稿「疾走する自動車~ビークルとしてのメディア~」『夢みる趣味の大正時代』論創社、2010年を参照してほしい)。
『九番館』発行元の博文館も、ルパンに関しては、同じように考えていたと思われる。単行本『九番館』の巻末には、奥付の次ページに、つまり本の広告の最初に、モーリス・ルブラン作、保篠龍緒訳『虎の牙』の広告が出ていた。そこには「奇々怪々なる「虎の牙」を中心として、縦横自在の腕を揮ふアルセーヌ・ルパンの活躍は、蓋し近来希に見る怪奇探偵小説の白眉である。敢て大方の諸子に一読を薦む」と紹介があった。つまり、「九番館」の読後には、同じような匂いのする「虎の牙」を読んでほしいという願いが感じられるのだ。
そして次の広告は、天岡虎雄訳『人猿タアザン』だった。「バーロー氏の原著と活動写真によつて今日世界の隅々にまで知られてゐる」という言葉で始まっていた。すなわち、「九番館」という小説は、「虎の牙」や「人猿タアザン」と同じような種類の小説として読んでもらいたかったのではないだろうか。博文館の広告戦略がここにあった。
しかし、そこではまだ、「九番館」が「探偵小説」としてネーミングされていなかった。
「探偵小説」と記されたのは、『九番館』単行本が発売されるときの新聞広告だったのである。そこで、堂々と「探偵小説」と名乗っていたのである。『読売新聞』大正10年8月7日付の紙面には、その広告冒頭に「文壇の寵児長田幹彦氏が、始(ママ)めて執筆せる探偵小説!」とあった。続けて「海外に於て不義の富を積める政商に対し、社会的使命を帯びて現はれたる覆面の怪人物が、神出鬼没して魔の如く活躍す。花の如き美人が相思の子爵との間を割かれて地下室に泣き、一ツ隣たる少女が銅像の台下に拘禁されて飢に叫ぶ。一波は万波を生んで滔天の勢ひをなす。蓋し最近の小説界に於ける偉大な収獲たり」と、簡単なあらすじ紹介がされていたのだ。
これだけ読むと、どのような物語なのか、という興味が湧いてくるだろう。ようやく単行本発行日の奥付に書いてある「大正10年8月8日」の前日になって、『九番館』が探偵小説として読者に紹介されたのがわかるのであった。
・ご興味のある方は、以下の場所で通販されていますので、お買い求めくださるとありがたいです。よろしくお願い申し上げます。
