ショートショート トイレットペーパードライバー
選ぶのが怖い。そう思い始めたのはいつのことだったか。
「疲れてます?」と同僚から言われることが多くなり、部下から指示を仰がれると頭が真っ白になることが増え、異動先で新しい部下に「上司でしょう?」と詰められて翌日、俺は会社に出勤できなくなった。
原因不明のめまい、朝に決まって起こる激しい動悸。「二ヶ月の休養が必要」との医者の診断を会社に提出し、両親に実家に連れ戻された。まだ大学生の8つ下の弟が気まずそうに目を逸らした。
帰省する時にしか使わないかつての俺の子供部屋はがらんとしていた。俺はしばらく食べて寝て過ごした。本当にそれだけだ。2週間めくらいに弟がドアをノックし、箱のようなものを押し付けてきた。「作った」と小さく言った。
段ボールの箱にトイレットペーパーが刺してある。レジのレシートを逆さまにしたような。ペーパーには道路のようなものが描かれており、横のハンドルを回すとペーパーが繰り出されて道路が進んだ。手前にはボタンが3つ。ひとつ押すたびにトイレットペーパーの上になるように取り付けられた自動車のおもちゃが左右に動いた。レースゲームだ。弟が昔から手先だけは器用だったことを思い出した。
くるくるとハンドルを回しながら車を走らせる。道の周りに森や動物が描かれていてなかなか凝っている。道路からはみ出ないように車をコントロールしていると、二股の道が現れた。どちらかが行き止まりになっているんだろう。ゲームなんだから。ハンドルを回す手を止めた。選べない。吐き気が込み上げてきた。ただのおもちゃに。ばかばかしい。やけになってめちゃくちゃにハンドルを回す。二股の道をどちらも選ばないまま、車はなにもない草っ原を走りすぎた。別れた道の一つにはカレーライス、もう一つには唐揚げが現れて、中央に現れた「やったー!!」という文字を車が踏んづける。「うるせえ」と俺は小さな声で言った。程なく二股の道は真ん中に収束して車が車道に戻った。「なにが『やったー!!』だ」。恥ずかしいような気持ちになった。カレーライスも唐揚げも、小さい頃からの俺の好物だった。
昔家族で行ったような動物園を走り抜け、道路は今度は三股に分かれ、ひとつには象、もうひとつにはキリン、もう一つにはパンダが現れて、結局またひとつの道に戻る。これじゃあどれを選んでも同じじゃないか。全然ゲームとしてなっていない。弟の性格がよく出ているなと思った。お人よしで、はっきり言って、ばかなのだ。そう思っていた。その愚鈍さが嫌いだった。俺のように賢くやればいいのに。「賢い」。自分で自分がおかしくなる。俺は賢くなんてなかった。会社のレールを踏み外した。ずっと車を脱落させない弟はなんだろう。やさしい。きっとそういうべきだろう。
動物たちの横を駆け抜けて、今度は海岸線に出た。海なんて、最後に行ったのはいつだろうか。巨大な客船が姿を現して消えていく。「いつかみんなで乗ってみたいねえ」と昔母がテレビを見ながら言っていた。この道の分かれ道もさっきと同じ。全ての分かれ道にプレゼントが置かれて、またひとつの道に戻る。走るたびに外に引き出されていたトイレットペーパーの道が足元で折り重なってカサカサいった。もうだいぶ走ったんじゃないだろうか。
ふと、このゲームの終わりを考えた。この道は最終的にどこに辿りつくんだろう。歳が離れすぎているせいか、昔から何を考えているか分からない弟だ。ひゅ、と一瞬息が荒くなった。「同情」の二文字が頭をよぎる。嫌なものだ、兄貴なんて。兄の失態に弟がこんなものを寄越してきて、プライドが傷つけられたように思った。実家とか、家族とか、そういうものがゴールに待ち受けていたらどうしよう。これが兄さんの本当に大切なものだよ、おかえり、的な。感動なんてしたくないと唇の端をかんだ。
カラカラとハンドルが鳴り始め、ゴールが近いと嫌でも分かった。道はもう分岐しなくなり、それどころか草で覆われ始めた。何もない、草原の中をひたすら走る。赤や黄色や白の、花が点々と咲き始めて草原を覆い尽くす。カランと音がしてハンドルが止まった。茶色いトイレットペーパーの芯が見えた。サインペンで「つづく」と書いてあった。「ゴールないのかよ」俺は言った。弟の下手くそな文字が飄々としていて、つい笑ってしまった。
足元に溜まったトイレットペーパーを丁寧に丸めながら手繰り寄せ、段ボールの上に置いた。壁の時計を見た。もう21時をすぎている。ヒゲの生えた顎を撫でて立ち上がる。財布を探してポケットに突っ込んで、弟の部屋をノックした。
「おい。起きてるか?」
弟が中で「ええ?」とも「へえ?」ともつかない間の抜けた声を出した。俺はなるべく大きな声で続けた。
「コンビニ行こう。アイス買いに」
ドアが開いて弟の間の抜けた顔が見えたので、俺は慌ててそっぽを向いた。
「トイレットペーパードライバーの奢りだ」
玄関に向かいながら言った。弟がついてくる足音が聞こえた。
ショートショートNo.794
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今週のお題は「トイレットペーパードライバー」です。
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