【ピリカ文庫】夕涼み【ショートショート】
日が傾き始めていた。タンクトップ姿の老人が、路上に椅子を出して空を見ていた。
「たくろう、さん?」浴衣姿の女性が老人に声をかけた。「私のこと、分かります?」
一瞬、老人の目に何かの記憶が灯った。しかし、すぐに消えた。女性が困って笑う。老人の右手をとった。「行きましょうか。」
老人は少し戸惑ったように見えたが、ゆっくりと立ち上がった。女性に手を引かれるままに歩き出す。この人は懐かしいにおいがする。
空が茜色に染まり始めている。ときおりそよぐ風が気持ちいい。赤とんぼが横切った。「あれ。」女性が嬉しそうに指をさす。「もうすぐ、夏も終わりですね。」老人も笑った。いつの間にか腰が真っ直ぐに立っていた。
赤い鳥居が見えた。小さな神社だ。入り口まできて、女性が足を止めた。老人が入ろうとするのを引き止める。「わたし、ここ、ダメなの。」笑顔のまま首を横にふった。老人が頷いた。いつの間にか顔のシワが消えている。
鳥居を背にして2人で立つと、空が真っ赤に焼けていた。「綺麗ね。」女性が微笑んだ。「ここで毎年、花火見ましたよね。夏祭りが楽しみで。ハルコ、元気でやってます?」
「元気だよ。」老人が右手を甚兵衛の懐にいれた。
ふふ。と女性が笑う。「その甚兵衛、ハルコの浴衣を初めて縫うときに練習台に作ったんですよ。」
西に一番星が光った。気の早い秋の虫がないている。
「わたし、すいぶん待ちました。」すねたように女性が言うと、老人が染みひとつない手で頭をなでた。「そうやって。」女性が老人の手を優しく払う「いつもごまかす。」頬をふくらませた。「子供の頃からそうなんですから。隠れんぼとか。覚えてます? 私が鬼になるといつまでたっても、あなた隠れ終わらないの。私ばっかり待たされて、ずっと言うはめになるんです。もーいーかい、って。」老人が笑った。女性が老人の目をじっと見る。「もう、いいですか?」老人が言い淀む。妻は綺麗な、少し赤茶色の目をしていた。「もう……。」
「お父さん?」
ハルコが目の前に立っていた。娘は死んだ妻によく似ていた。
妻はどこにもいなかった。腰の曲がった、タンクトップの老人ひとりだけだ。
「どうしたのこんなとこまで? もうご飯ですよ。」
ハルコの声には怒りと心配が混ざっていた。「夕涼みだよ。」老人は嗄れた声で答えた。今度は娘が手を取った。家路につく。
老人が鳥居を振り返る。小さな声でつぶやいた。
「まーだだ、よ。」
ショートショートNo.57
ピリカさんのラジオで朗読していただきました。
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