愛は不定型
追い求めても得られない経験、誰にでも、一度や二度はありますよね。
それも感覚的には痛切なものが。他人からの見た目はともかく。
ごきげんよう。岡埜 由木古です。
いきなりどうしたと思われそうな導入でしたが、モノカキングダム2025のテーマが「あい」だったもので、
目に留まったからには参加してみよう、参加してみるからにはド直球で、「愛」に対する私個人の鬱積と、現時点での結論を、まとめておこうと思いました。
とは言え日本人が日本語で考える、おそらくは間を語源にした「愛」です。キリスト教的愛とは異なります。
まず頭に浮かんできた文言は、
愛には辿り着けない何かがある。
同様に、
愛には応え切れない何かがある。
その「何か」をちょっと見極めてみようじゃないか。
はい。この時点で私を前からご存じの方はともかく、初見の人をほとんど置き去りにしている自覚はあります。
有り難くも踏みとどまって下さった方は、上の太字二行を、今ここでゆっくりと読み味わってみて下さい。3〜5回は頭の中で繰り返してもらうと、何がしか当てはまるような、自分個人の実感なり実体験なりが、思い起こされて来はしませんか。
……しませんか。いえ、しない方にまで無理に続けてもらおうとは思いません。
頷けた方に対しても、私個人の一例を出しておきますよ。
私の小説読んで読んでって言い続けてるのに読まれないよね。
言われ続ける身になってみたら正直もろもろの理由で読む気しないし自分の都合だってあるから困るよね。
ほら、そこ。痛い奴だって苦笑しない。ああ。去って行かれるなら止めはしませんが、
残って下さった方には、私の一例と同一でなくとも、同様の事柄には身に覚えがあると信じて、話を先に続けますよ。
なぜ辿り着けないのか。
それは自分の求める方向に求める形で存在しているとは限らないから。
なぜ応え切れないのか。
それは求められる方向から求められる形で相手に提供できるとは限らないから。
すなわち愛には指向性と可塑性がある。
欲しい、と思った時点で、そう願った者には、一定の方向からやってくる一定の形状しか、「愛」には見えなくなる。
愛は実を言えば不定型な上に、どこにでも存在しているのだが。
形を変えるので時として、名称すらも変わる。つまりとても愛には見えない、愛とは呼びようのない愛すら存在する。
存在、する。そこに関して私は嘘などつけない。
しかし求めても得られないものなのだと諦め切る前に、冒頭に書いた太字二行中の、「何か」に思いを馳せてみたい。
どういった方向からのどういった形状かを、それ以外は「愛」に見えないほど鮮明に、思い浮かべてしまっている人物が、現時点でただ一人存在するのである。
無論、自分自身だ。
んなもん自分にしか提供でけるわけないやんけ。
この単純だが強固な事実を、実感、できるかどうか。知識、ではおぼつかない。これが他人様から見た場合の痛さと、周囲に与える迷惑度合いを決定付ける。
従って、うん、指向性はなるべくなら潔く諦めよう。
なるべくなら、って言ってる時点で潔くはないが、とにかく保持していても良い事は少ない。はっきり言っておくと、期待を向けている相手の側は、こっちの願いなんざ知ったこっちゃねぇんだ。
しかし可塑性、の方は、元来が不定型である事を心得れば、どうにか出来るだろう。
なんなら指向性すらも変えてくれる。自分自身が愛にもなれるのだから、自ら周囲に撒き散らせば良い。
万事解決。
……と言いたいところだが不定型ゆえに定まりはしないのだが。
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