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コンピュータ科学の隠れた先駆者/ベティ・ホルバートン (1917-2001)

1946年にプログラム内蔵方式を取り入れた世界初の汎用電子計算機であるENIACが完成した。このENIACでのプログラミングに取り組んだ最初のプログラマー6人は全員が女性であった。写真には彼女たちの姿がしっかり写っているにも関わらず、報道では男性のみしか取り上げられることはなかった。後年、彼女たちに注目が集まり「ENIACガールズ」などと呼ばれることになったが、そのうちの一人がベティ・ホルバートンである。彼女はその後もUNIVACの設計やCOBOLの開発などコンピュータ科学に携わり続けた。


初期の人生と教育

ベティ・ホルバートン(Betty Holberton)は1917年3月7日、フィラデルフィアで生まれた。本名はフランシス・エリザベス・スナイダー(Frances Elizabeth Snyder)である。彼女は数学を学ぶためにペンシルベニア大学に入学しようとした際、数学科の教授から「女性は家にいて子育てをするべきだ」と言われ、代わりにジャーナリズムを専攻した。この時代の偏見は彼女の進路を変えたが、後にコンピュータ科学の歴史に大きな足跡を残すことになる。

ENIACとの出会い

第二次世界大戦中の1942年、米国陸軍兵器部隊はペンシルベニア大学ムーア電気工学スクールに世界初の汎用電子計算機ENIACの開発を依頼した。弾道計算の高速化が目的だった。1945年、ホルバートンは6人の女性プログラマーの一人として選ばれた。これらの女性たちは後に歴史家によって「ENIACプログラマー」と呼ばれ、さらに後年になって「ENIACガールズ」という呼称で親しまれるようになった。彼女たちは当時「コンピュータ」と呼ばれていた計算係の役割から、実際にプログラミングを行う先駆者となった。

ENIACは真空管を使用した巨大な機械で、プログラミングには物理的な配線の変更が必要だった。ホルバートンらは操作マニュアルもない状態でこの複雑な機械のプログラミング方法を自ら学ばなければならなかった。「私たちは自分たちでやり方を見つけ出さなければならなかった」と彼女は1973年のスミソニアン研究所によるオーラルヒストリーインタビューで語っている。

プログラミング言語の開発

1949年、ホルバートンはレミントン・ランド社(後のユニバック)に入社し、UNIVAC Iの開発に携わった。ここで彼女は創造性を発揮し、C-10と呼ばれる初期のソフトウェア命令コード(アセンブリ言語の一種)を開発。これは今日のプログラミング言語の先駆けとなった。

彼女は1959年、COBOLの設計チームの一員となった。COBOLは「Common Business-Oriented Language(共通ビジネス指向言語)」の略で、ビジネスデータ処理用に設計された初期の高水準プログラミング言語である。ホルバートンはCOBOLの開発において、特に「PICTURE句」という概念に貢献した。これはデータ型や形式を指定するための方法で、プログラミングをより直感的にした。

一般的にグレース・ホッパーは「COBOLの母」または「コンピュータプログラミングの母」と呼ばれることが多いが、ホルバートンもCOBOLの開発に大きく貢献した重要な人物として認識されている。彼女の貢献により、プログラミングはより人間が理解しやすいものになった。

使いやすさへのこだわり

ホルバートンのビジョンは常に「ユーザーフレンドリー」なコンピュータシステムの創造だった。当時のコンピュータは専門家にしか操作できない複雑な機械だったが、彼女はより多くの人がコンピュータを使えるようにすることを目指した。

彼女はUNIVACのコンソールキーボードを設計する際、プログラマーの使いやすさを考慮した。例えば、エラーを修正するためのキーを追加するという革新的なアイデアを導入した。「プログラマーは間違いを犯すものだから、それを簡単に修正できるようにすべきだ」という彼女の考えは、コンピュータ歴史博物館の記録によると、今日のコンピュータインターフェースデザインの基本原則となっている。

規格化への貢献

ホルバートンは1959年、米国規格協会(現在の米国国家規格協会:ANSI)のX3.4委員会の創設メンバーとなった。この委員会はコンピュータと情報処理の標準規格を策定する重要な役割を担った。彼女はFORTRANの標準化にも貢献し、プログラミング言語が異なるコンピュータシステム間で互換性を持つことの重要性を早くから認識していた。

「規格化がなければ、コンピュータ産業は今日のように成長することはなかっただろう」と彼女はIEEE(米国電気電子学会)のインタビュー「コンピュータパイオニアへのインタビュー」シリーズで語っている。この先見性は、後のコンピュータ技術の発展に大きな影響を与えた。

後年の活動と遺産

1967年、ホルバートンは海軍兵器研究所に移り、標準化作業を続けた。1983年に引退するまで、彼女はコンピュータ科学の発展に貢献し続けた。

長年にわたり、ENIACプログラマーたちの功績は歴史から忘れ去られていたが、1997年になってようやく彼女たちはコンピュータ史のホール・オブ・フェイム(Hall of Fame)に殿堂入りした。ホルバートンは2001年12月7日、84歳で亡くなったが、彼女の遺産は今も生き続けている。

彼女の同僚ジーン・バーティクは「ベティは私たちの中で最も創造的で先見性のある人物だった」と、1998年のIEEE Annals of the History of Computingの記事「Breaking Code: Women Enter The Computing Field During World War II」で称えている。実際、ホルバートンのビジョンは今日のコンピューティングの基盤となっている多くの概念を形作った。

人柄と哲学

ホルバートンは技術的才能だけでなく、強い意志と先見性を持った人物だった。男性優位の環境で活躍する中で、彼女は常に自分の能力を証明し続けた。同時に、彼女は後進の育成にも熱心で、特に女性がコンピュータ科学の分野で活躍することを奨励した。

「コンピュータは人間のためにあるのであって、その逆ではない」という彼女の哲学は、2000年に発行された「Women in Computing: A Biographical Sketch」(Denise Gürer著)によると、テクノロジーの人間中心設計の重要性を強調している。彼女は複雑な技術を人々がより簡単に使えるようにすることで、コンピュータの可能性を広げた。

現代への影響

今日、COBOLは古い言語と見なされることもあるが、依然として金融システムや政府機関など多くの重要なシステムで使用されている。ホルバートンの貢献したユーザーフレンドリーな設計思想は、現代のすべてのソフトウェアとハードウェアインターフェースに影響を与えている。

彼女の物語は、技術の発展においてダイバーシティの重要性を示す好例でもある。異なる視点を持つ人々が協力することで、より優れた技術が生まれるという事実は、ホルバートンの時代から変わらない真理である。

彼女の功績を称えて、Women in Technology International(WITI)財団は毎年「WITI Hall of Fame」に優れた女性技術者を選出しており、ホルバートン自身も1997年に殿堂入りを果たした。また、彼女の名は米国計算機学会(ACM)が優れた女性技術者に贈る「Frances E. Holberton Award」にも残されている。これらの賞は、次世代の女性エンジニアたちに彼女の遺産を伝えている。


参照

Unknown photographer, Public domain, via Wikimedia Commons


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