父の日――哀れな父に捧ぐ――
4月末の土曜日の夜だった。僕は慢性的な不眠を患っており、当時は2、3時間しか眠れない日が続いていた。そのため疲労がひどく、その時は意識を保つのも難しいほどで、珍しく21時には床に就いていた。すると、母が僕の部屋に入ってきた。母は僕が一人でいるのが好きなことを知っているので、用もなく部屋まで来ることは滅多になかった。母は元々落ち着いた人ではないが、その時の様子は明らかに普通ではなく、ひどく焦っていることが一目でわかった。母が僕に告げたことは次のような内容だった。
酔った父が駅で線路に転落し、病院に運ばれたこと。今から病院へ向かうこと。兄(僕は三人兄弟の真ん中で、兄と妹がいる)が同行すること。いつ帰るかわからず、翌朝にまだ帰っていなかったら妹の朝ごはんを頼む、ということだった。
あまりに突然の報告を、僕の眠気で鈍った頭は上手く理解できず、要領を得ないまま眠りに落ちてしまった。
翌朝目を覚ましたときには、母は既に帰宅していて、医師から伝えられた詳細を僕にも説明した。
医師の説明によれば、頭部へのダメージがひどく、今は全身麻酔が効いているという。明日麻酔が切れたときに目を覚ますかどうかわからない、とのことだった。
2、3日が経過しても、父が目を覚ますことはなかった。そこで僕ら兄弟と母、父方の祖父母での集まりが開かれた。重苦しい空気の中、祖父は涙を堪えながら、父の状態が未だ悪いこと、そして延命治療は行わず、父自身の治癒力に回復を任せることなどを説明した。母は学費の心配などは不要だと話した(元より僕の学費は無料なので心配はしていなかったのだが)。兄と妹は暗い顔を下に向けたまま黙り込んでいた。
一方で僕は、驚くほど何も感じなかった。父は毎晩無茶な飲酒をし、そのままリビングで気絶するように眠っていた。そんなふうに酒に呑まれた父に対し、僕はある種の阿呆らしさを禁じ得なかった。
どうか僕を薄情な奴だと思わないでほしい。僕と父の仲は、決して良好と呼べるものではなかった。しかし、こんなことになってしまった今だからこそ、過去の僕と父を振り返り、改めて冷静に捉えられる真実もあるように思える。僕はそれを実践してみたいのだ。
まだ幼い頃の僕は、端的に言えば、上手く甘えることのできない可愛げのない子供だったと思う。
僕は4歳の時にはサンタの正体を見抜いていたが、信じているふりをした。平均的な子供はサンタを信じるものだと知っていたからだ。僕は両親に愛されないことを恐れた。
他にも、旅行に行ったとき、お土産に欲しいものがあってもそれを伝えられず、その場で泣き出してしまうことなどがあった。
僕は昔から、感情を表現することが苦手だった。言語化できないのではない。自分が相手に何かを要求する権利を持っていると確信するに足るだけの自信が、常になかったのだ。高校でごく親しい友人ができて初めて、人に頼ってもいい場面があるのだと知った。
そして僕は、こうした内向型の例に洩れず、どちらかと言えば痩せ型で、いつもメランコリックで、他人と争っていけるような生活力に乏しい。
一方、父は活力に富んで快活だった。僕より体は一回り大きく、アルコールを一滴も飲まない僕とは違い、よく飲み会などに出席しては遅く帰った。詳しくはないが、職場でもそれなりのポジションに就いていたようだった。
ただし、ギャンブルで隠れて借金を作ったり、箸の持ち方が変だったり、言葉遣いに品が無かったりと、あってはならないほど育ちが悪くもあった。
僕は自己表現のあまりの下手さゆえに、他人と衝突してしまうことがなくはなかった。父と言い合いになったとき、父は僕の言葉に耳を貸さなかった。口論というのは結局、自己肯定の強さを競い合うものだ。僕は自分の方に理がある時でさえ、その正当性を主張することが憚られた。口論では、いつも僕が負けることに決まっていた。
最も不可解だったことは、言い争いの末、父が度々暴力を振るうことだった。自分の気に入らないことがあったとき、取り得る選択肢の中に暴力が含まれている人間がこの世に存在することが、僕には恐ろしかった。
確か僕が中学生の頃だったと思う。自分にできる最大限の防御策を模索した結果、僕は父と話さなくなった。自己表現の苦手さゆえに対立を避けていただけで、僕は父を憎んでいたし、父も同じだと思っていた。
しかし、この防御策は思いもしなかった効果を示した。僕に嫌われることが父には大変なストレスだったようで、明らかに酒の量が増えたのだ。父はリビングで一人、遅くまで酒を飲むようになった。父は僕を愛していたのだった。
僕にとって父が理解不能だったのと同様に、父にも僕が分からなかったのだ。また、僕が自分の感情を上手く言い表せなかったのと同様に、父も不可解な僕と接する術を知らなかったのだ。事実はたったそれだけで、親子揃ってどうしようもなく不器用なだけだったのだ。
それでも僕は父を許さなかった。やけ酒は日増しに増え、それと同時に僕と父の間の溝は、いよいよ修復不可能なほどに広がっていった。
僕と父について、これ以上書くべきことはもうあまりないように思われる。なにしろ、「沈黙」というコミュニケーションの拒絶を僕が選んだのだから。
ただ、振り返ってみると、当時よりも冷静かつ正確に出来事や双方の心理を分析することができる。そして当時を思い返す中で、僕は今回の父の「不運な事故」の真相が、単なる事故以上のものであるように思われてきたため、それを以下に示したい(先述したように酒が増えた原因の一端は僕にあるのだが、そういうことを言っているわけではない)。
少し唐突かもしれないが、僕は現在、日々の生活に倦んでいる。毎朝早く起き、眠い目を擦りながらコーヒーを流し込む。満員電車に揺られながら行きたくもない大学に向かい、帰宅したらすぐにバイトの準備だ。休日にはつまらない一般教養科目の課題や、膨大な量の実験レポートを仕上げなくてはならない。市販の睡眠導入剤が無ければ眠ることすら叶わず、その薬もだんだん効かなくなってきた。目覚ましの2時間前に訳の分からない夢に起こされ、一度起きるともう眠れない。
こんな毎日にずっと食傷気味で、僕の意識は現実を離れ、自分が生まれた意味や生きる意味に向けられる。どうして僕は虚無から分離された個として、娑婆苦に満ちたこんな世界に生まれてきてしまったのだろうか。日々の倦怠の中で、僕は再び虚無へと身を投じたくなる。
昔好きだったことが何も楽しくなくなった。新たな希望を探し求めたが、結局上手くいかなかった。僕は今では、誰かが眠っている僕をそっと絞め殺してくれることを求めて止まない。
話を戻すが、父も僕と同じように、日々の倦怠に足を取られて酩酊の中に引き摺り込まれたのではないかと僕は思うのだ。
先に僕は、父は僕とは違い、実生活へと全身で当たっていく活力を有した人間であるという旨を書いた。しかし思い返せば、父は休日には一日中寝転がって、退屈そうにテレビのチャンネルを切り替え続けていた。僕が自己表現の不得手ゆえに、人付き合いを拒絶した生き方しか選べなかったのと同様に、父も世間の圧力や家庭を持った責任ゆえに、「普通の」生き方しか選べなかったのではないだろうか。僕が薬に頼らざるを得なかったのと同様に、父も寝酒を止められなかったのではないだろうか。父も僕と同じように、繰り返す日々にずっと食傷気味だったのではないか。
僕は生きる苦しさを知っている。線路に飛び込み世間に迷惑をかける人間の気持ちも、分かるつもりだ。なぜなら僕自身、駅でそうする空想に耽ることが多いからだ。この感覚が分からない人もいるだろう。それでも僕は書くが、死には拒否し難い魅力がある。不可解な生とは違って、死はいつだって明瞭だ。僕の人生の結末が、その明瞭なものに決定されているというのは救いであり、苦しい時にはその救いを、否応なく思い浮かべてしまう。
父は飲みの後、駅で、反動のようにやってくる虚無と酩酊の中で、死のビジョンに魅了されてしまったのではないかと思うのだ。通常であればそうしたビジョンはすぐに理性に払拭されることが多い。しかし父はまともに歩けなくなるほど酔うことも多く、理性の制止など最早機能していなかったのだろう。
勿論これは僕の空想であり、単なる考え過ぎかもしれない。僕にはヘッセの『車輪の下』のハンスの死因が自殺だと思われてならないし、僕の空想はこうした考えの偏りによるものかもしれない。しかし、僕と父は最後まで相容れなかったとはいえ、親子だからこそ分かることも、確かにあるように思うのだ。
僕は最早、父を憎んではいない。初めの方でも書いたが、心底阿呆らしいと思っている。しかし、父の苦しみがはっきりと理解できた今となっては、僕は父の安らかな眠りを微かに祈っている。
