ある喫茶店と、激渋なマスターとの出会い
就活真っ最中だった大学4年生の時、私はある喫茶店とマスターに出会った。
当時の私は、志望職種の企業を悉く不採用となり精神的にとてつもなく参っていた。
周りの友人たちは早々と内定をもらい、意気揚々としてるのに私はまだまだ就活を終わる見込みがないな…
そんなことを考えながら、何か気分転換をしたいなと思い、本屋で一冊の本を買った。
喫茶店についての本。
学生時代、カフェでバイトをしたことをきっかけにコーヒーを飲むのが好きになっていたが、喫茶店にはほとんど行ったことがなかった。
その本の中に紹介されていた、ある喫茶店が気になった。
バイト先の近所だし、今度行ってみるかと思い翌週、その喫茶店へ。
綺麗な街並みに穏やかに佇む喫茶店。
足を踏み入れた瞬間、低い声で渋い雰囲気のあるマスターが優しくカウンター席に案内してくれた。
人見知りなため、普段は人と会話しなくても済むようなテーブル席に座るが、その時は不思議とカウンター席に案内されても嫌ではなかった。
むしろ、マスターがドリップする姿を間近で見れるカウンター席に座れるなんて最高じゃないか!とさえ思って意気揚々と座った。
その喫茶店に来るきっかけになった本を読みながらコーヒーが入るのを待っていると、マスターが「あ、その本…」と言って話しかけてきてくれた。
それを機にマスターと話が弾んだ。
この本を書いた方とのエピソードを教えてくれたり、私のことについても色々聞いてくれたり、おまけにコーヒーの知識が皆無な私に豆の種類や飲み方まで教えてくれたのだ。
素直にこの方とお話しするのが心から楽しいと思えたし、何より当時荒みきってた私の心が少しずつ潤っていくのを感じた。
人との距離感を取るのが絶妙に上手いマスター。
話しかけるタイミングも程よく、だからこそ心地よく感じられる。
見た目は渋い雰囲気を放つマスターだが、一言話すとその物腰の柔らかさに驚く。
何よりもコーヒーに対してまっすぐで、豆一粒一粒に真摯に向き合っている。
それが証拠にコーヒー豆について、飲み方について、お客さんが質問するとどれだけ忙しかろうと関係なく丁寧に説明してくれる。
私は、その日初めてお話ししたマスターのその姿勢に感銘を受けた。
東京のこのど真ん中にひっそりと、でも街ゆく人たちを静かに見守るように佇む喫茶店そのものと同じく、マスター自身も人を包み込む温かみのある人だと感じた。
当時、まだ大学生だった私。
その店に来る他の常連さんたちは素敵に、そしてかっこよく歳を重ねた先輩方ばかりで、私は言ってしまえばまだまだ若造の身。
だけど、お店に行くたびにその常連さんたちは私に声をかけてくれて色々な話をしてくれたし、マスターも常連さんと私とを結びつけてくれるようにサッと手を差し伸べてくれた。
人見知りな私が、見ず知らずの人たちとの会話を楽しめるようになったのだ。
なんて居心地がいい喫茶店なんだろうか。
こんな故郷みたいな温かな場所が東京のこのど真ん中に存在するのか。
私はその穏やかな空間とマスターが紡ぐ人と人との繋がりに心地よさを感じて、毎週のようにこの喫茶店を訪れるようになった。
その後就活を無事に終え、大学も卒業し明日から新社会人になるというその日、私はいつものようにその喫茶店へ。
その時、たまたま隣に座った女性のお客さんが私に話しかけてきてくれた。
「あなたは今学生さん?」
「はい、あ、でも明日から社会人になります。」「この店には前から来ていたの?」
「はい、数ヶ月前から…」
という会話をすると、その女性が優しく笑ってこう言ってくれた。
「学生の頃からこういうお店に出会えるって素敵な経験をされてるわね、羨ましい。」
私は他の常連さんに比べれば、経験も何もかも浅い若者…なんて思っていた私にそんな言葉をかけてくれたのだ。
大学生の頃から私はこんなにも心地の良い喫茶店に巡り会えて、心から尊敬できてかっこいいと思えるマスターにも出会えた。
これって私の人生の大きな財産だよなぁ、とその女性の言葉を聞いてそう思えるようになった。
その後会社を辞めて東京を離れ、2年ほど地元に戻った後オーストラリアへ来たのだが、渡航直前に2年ぶりにマスターに会いに行くことができた。
2年ぶり。
2年前まではあれほど通い詰めたけど、流石にもう忘れられてるかな?
でもマスターが淹れるコーヒーを飲んでから渡航したい。
そう思って、ドキドキしながら喫茶店へ。
店に入った瞬間、マスターが私の顔を見て、
「久しぶり。」
笑顔で、それだけ言ってくれた。
実家に戻ってきたような、何も変わらない安心感がそこには広がっていて、とても嬉しくなった。
2年前と何も変わらず、穏やかに、だけど相変わらずの低く渋い声で2年間の積もる話をたくさんしてくれた。
私が大好きだった心穏やかになれる時間がまだここにはあった。
オーストラリアから戻ったらまた行こう、私はもうすでにそう決めている。
またマスターに会いに、あの美味しいコーヒーを飲みに行こう。
