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矜持と諦念 | 短編小説

 夜、子どもも寝静まった居間。自分の傷を伝えなければならない、と言う使命感と、それを伝えてもどうにもなるものかという諦めの中で、でもやっぱり、と腹を決めて、相手に伝え始める。
 私の痛みをわかってほしいと思っていたこと。でも、もう、それも無理なんだろうなとも思っていること。子どもにそれが向けられるのは見過ごせないということ。
 どうやったら伝わるか考えて、頭の中で何回も何回も練習した。今日こそは、と思いながら。

 相手はいつものように、まっすぐな目で私を見ている。そして、決まって、心底申し訳ない、という顔をして、私に向き合っている。

「いつもごめん、言ってくれてありがとう。気をつけるよ。」

 相手は真摯に私に向き合っているように見える。その様子を見るにつけ、私はますます気が滅入ってくる。まるで、何にも見えない深い霧の中を、手探りで進んでいるような、そんな心持ちになる。

「…無意識やってることだから、これも何回も言ってることなんだけど。」

「ほんとにごめん。辛いよね。本当に申し訳ないと思ってる。言ってもらえてありがたいと思ってる。」

 相手は心底謝罪している。その顔には、微塵も悪意というものが見て取れない。それがまた、私を絶望の淵に突き落とす。

「ずっと、繰り返しなんだよね。言っても伝わらないから、しばらくしてまた同じことが起こって、ああ、やっぱり伝わらなかった、って絶望する。」

 私は言った。「絶望」なんて強い言葉を言われて、どう感じるんだろう?でも、相手は相変わらず、今日もおそらく私が伝えたいことを飲み込めていない。にもかかわらず、うんうんと頷いて聞いている。

「うん、そうだよね。わかってるよ。僕なりに努力もしてる。」

相手はそう言う。私の視界はぐらりとして、床が歪んだように感じる。

「うん、知ってる。あなた一人の努力ではどうにもならないことも、ずっと言ってる。あなたが無意識にやっていることだから。」

 私は肩を落とした。ああ、やっぱり今日も伝わらない。こんなことが5年も続くなんて想像もしていなかった。でも、無意識にしていることをなんとかしてほしいなんて、そもそも自分の手に負えるものではないのだ。私は、そのことをやっと言葉として理解し始めていた。

「どのようなことが嫌なのか、教えてもらうことはできる?」

 相手は私の目をまっすぐ見ながら、そう尋ねた。私はもう絶望してるので、あきらめてしまう。

「何回も同じことを言っているし、伝わらないのもわかってる。伝えることも辛いし、後から、ああやっぱり伝わらなかった、と思うのも辛い。もう私はできることは全部した。そして、理解させるために努力する事は、私の義務ではない。あとは、私が許すことができるかどうかだと思う。」

 そういうと、相手は、ちょっと黙った後に、優しげな笑顔を浮かべたまま言い始める。

「…じゃあ、僕はなすすべがないよね。君が思うようなやり方で自分を治していくことは考えられないし。自分では調べたり努力したりもしていて、だいぶ良くなってきたと思うし。君の言っていることもわかるようになってきたと思う。」

 とぷん、と私は、真っ暗な井戸に落ちる。ああ、やっぱり最後はこうなってしまう。私の傷ついたことは無くなってしまい、相手のやりたい努力と、努力した、と言うことだけが二人の間にぽっかり浮かぶ。

「そうだね、じゃあ、それを続ければ何か変わるかもね。」

 私はそう言った。今日も伝わらない。もっと早く切り上げるべきだった。早く一人になりたい。

「じゃあ寝るね、おやすみ」

 そう言って、ベッドへ向かう。私は被害者になりたくない。最後まで矜持をもっていたい。自分の尊厳を自分自身で守りたい。でも、そんなことを気にしている場合ではないのかもしれない。

 窓の外では、雨がしとしとと降り続いていた。ずっとこのまま降っていたら、少しは気持ちが楽になるのだろうか。
 違和感を感じて15年。最初の頃は、それを伝える努力をしていた。でも、全然伝わらなくて、あきらめた。でも、言わなきゃわからない、子どもにも影響が出る。決心して伝え始めて5年。

 しかし、私の心に染み付いたこの思いは、容易には洗い流せない。そして、5年伝える努力をして、今後、伝わるなんてことはあるんだろうか。
 過去の自分の行動を悔やみつつも、もうどうすることもできないという諦念にも似た気持ちが、私の身体全体を、みしみしと満たしていく。それでも、まずは明日、一日をなんとかやり過ごすことを考えている。

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