その事例は、誰のものか
前の記事を書きながら、ずっと引っかかっていたことがある。
そもそも——過去の依頼者の事例を、たとえ匿名にしても、あんなふうに公開してしまっていいのだろうか。しかも、士業が。
社会保険労務士には、法律で守秘義務が課されている。「正当な理由がなくて、その業務に関して知り得た秘密を他に漏らし、又は盗用してはならない」(社労士法21条)。しかもこの義務は、廃業して社労士でなくなった後も、ずっと続く。破れば、1年以下の拘禁刑または100万円以下の罰金という罰則まである。事務所の従業員も、同じ義務を負う(27条の2)。それくらい、重い。
じゃあ「名前を伏せて、匿名にすれば大丈夫」なのか。ここが、思ったより危うい。
**一つ目。**障害年金の相談で扱う情報は、病歴そのものだ。病歴は、個人情報保護法で「要配慮個人情報」とされ、原則として本人の同意なしに取得・利用してはいけない、いちばん慎重な扱いが求められる情報だ。それを、宣伝の"ネタ"として本人の同意なく使うのなら、匿名かどうか以前の問題が残る。
**二つ目。**「匿名」は、思うほど匿名じゃない。初診の時期、就労状況、遡及の顛末——具体的な事実を並べれば並べるほど、少なくとも本人は「これ、私のことだ」と気づく。場合によっては、周りの人にも伝わる。特定できてしまえば、それはもう匿名ではない。
正直に書くと、これが即・違法だと断定はできない。完全に一般化され、誰の話とも結びつかないところまで抽象化されていれば、「秘密の漏示」には当たらない、という考え方もある。ここは専門家の間でも線引きが割れる、グレーな領域だ。(私は法律家ではないので、断定はしない。)
でも、法的にセーフかどうかと、士業としてやっていいかどうかは、別の話だと思う。
士業の看板は、「この人になら、いちばん言いにくいことを預けられる」という信頼で成り立っている。その信頼のなかで知った、他人の弱った瞬間。それを同意もなく、フォロワーに向けた"つかみ"に変える。たとえ名前を消しても、依頼者との約束の芯を、どこかで踏み越えている気がしてならない。
では、なぜ専門家でさえ、これをやってしまうのか。
たぶん、そこにも構造がある。SNSで発信しなければ顧客が来ない時代に、いちばん手っ取り早く"つかめる"のが、リアルな事例だ。専門性を切り売りする競争のなかで、依頼者の物語が、いつのまにか一番おいしい素材になっていく。悪人だからやるんじゃない。仕組みが、そうさせる。
当事者として、いちばん怖いのはそこだ。
私が今日、誰かに相談した困りごとが、明日、知らないところで「あるある」として消費されるかもしれない。次の"事例"は、私かもしれない。
秘密を守るというのは、罰則があるから守る、という話じゃないはずだ。弱った人が、安心して助けを求められる場所。それを、専門家の側から壊さないでほしい。ただ、それだけを願っている。
