「次は、私かもしれない」と、その人は言った
前の2本を書いたあと、匿名で連絡をくれた人がいた。
いままさに、ある専門家に自分の手続きを依頼している——そういう立場の人だった。専門家がSNSで依頼者を戯画化した投稿を見て、こう思ったという。私の案件は、ちゃんと誠意をもって扱ってもらえるんだろうか。私も、いつか「事例」として発信されてしまうんじゃないか、と。
不安になって、その人は自分から問い合わせたそうだ。聞きたかったのは、たった数点だった。
本気で、依頼者を「取り憑かれた人」だと思っているんですか。
なぜ、あの投稿は消したんですか。
私の案件は、誠意をもって取り組んでもらえますよね。
私の話は、コンテンツにされませんよね。
——どれも、依頼者なら当然に抱く問いだと思う。
ここから先、やりとりの詳しい中身には踏み込まない。私はその場にいたわけではないし、一方の話だけで相手を断罪するのは、私がこの一連の記事で批判してきた"コンテンツ化"と、結局は同じ穴に落ちることだからだ。だから事実として書けるのは、「その人は、問い合わせたあとも不安が消えなかった」ということ、それだけだ。
でも、この一件は、私がずっと言いたかったことの、いちばん痛いところを突いている。
専門家が依頼者を"素材"にするコストは、抽象的な話じゃない。いま現在、その人に自分の人生を預けている、生身の依頼者に、まっすぐ跳ね返る。
考えてみてほしい。あなたが誰かに、いちばん言いにくい病気のこと、働けなかった時期のこと、お金のことを、やっとの思いで打ち明けたとする。その相手が、別の依頼者の必死さを、笑いの素材にしてタイムラインに流していた。次は自分かもしれない、と思わないほうが難しい。
信頼というのは、そういうところで静かに崩れる。
助けを求める人は、ただでさえ勇気を振り絞っている。「こんなこと相談していいのかな」を何十回も飲み込んで、やっと専門家のドアを叩く。その手前の勇気を、"コンテンツ化"は根元から折ってしまう。折れた分だけ、制度にたどり着けない人が増える。
だから私は、これを個人の失言の話にしたくない。
「あの事務所が」「あの人が」と名指しして溜飲を下げても、たぶん何も変わらない。変えたいのは、依頼者の物語が"つかみ"として消費されても、誰も止めない——この構造のほうだ。
その人には、一つだけ伝えた。不安なら、正式な窓口がある、と。都道府県の社労士会には相談・苦情の窓口があるし、やりとりを書面で残すこと自体にも意味がある。ただ、すぐに何かが動く仕組みではないことも、正直に添えた。過度な期待で消耗してほしくなかったからだ。
最後に、当事者みんなに向けて書いておく。
あなたの話は、コンテンツじゃない。あなたの必死さは、誰かの"つかみ"のためにあるんじゃない。それを忘れる専門家がいるのなら、私は当事者の側から、何度でも書く。
