「羽ころも、春ころも」#8
(画像: 吉原遊郭 明治期 絵葉書 作者所持)
「突撃ィ━━━━━━━ッ」
げっそりと痩せ細った伊織が、肋が浮いた腹の底から在らん限りの力を込めて号令をかけ、銃を構えて我先にと壕から飛び出した。
殺す。
殺す。
殺す。
一人でも多く殺す。
命ある限り突撃し、敵兵を見たらすぐに殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
樹木さえ生えていない広陵な雪の大地、一年中真冬の気候が続くツンドラの大地よ。
大日本帝国が「熱土」と称した土地は、名前とは正反対の凍土と霧がどこまでも広がる野生の荒地であった。
飢えと凍傷、殺戮に次ぐ殺戮。大本営からの裏切り。。。。
隔絶された雪と雨と強風が荒れる島の守りを指揮していた山崎大佐は、玉砕の覚悟で総攻撃を決起した。
前方から機銃掃射の激しい轟音がバチバチバチと絶え間なく響く。
容赦なく多くの兵士の肉や血、手や目玉が四方に飛び散る。
伊織のすぐ隣で走っていた兵士が倒れた。
吹き出した血が彼の頬に水鉄砲のようにかかる。
伊織が振り返ると、兵士は頬肉がドロドロと剥がれ落ち、骸骨があらわになった。
いつのまにか他の走っている兵士たちも肉が剥げ、髑髏となってもなお突撃しているではないか。伊織の顔もみるみると崩れて落ちてきた。
「!」
途端に、下半身が硬直した。
すぐに下をみると、自分だけ腰から下が氷となって埋まっている。
「畜生!」
前へ動こうと死に物狂いで銃先で氷をかくが、びくともしない。
髑髏たちは、伊織を振り返らずどんどん走り突撃してゆく。
「くそッ俺もいかせてくれッ!」
伊織の瞳に映る仲間たちの後ろ姿は、茫漠たる濃霧の中、どんどん小さくなってゆく。
肉が削げ落ちる激痛を抱えながら、彼らに向かって渾身の力で叫び続けた。
「俺もいかせてくれ━━━━━━━━ッ」
身震いと共にハッと目が覚めた。
真上に、女性の影が覗き込んでいる。
顔中に汗が吹き出ていた。
「……旦那様…………?」
「あ…………」
今に戻った。
…………ああ、そうだった。
自分が今いる場所は日本だった。昨日婚礼をしたばかりだった。
ホッと緊張が解けると同時に喉元を言いようのない追慕が駆けめぐった。
昨日の夜がまだ続いているのか、それとも夜明け前なのか、まだ空気は暗い。その中で灯火管制ランプの最小光源だけが心許無く布団を照らしている。
伊織は荒々しき吐く息とともに、状態を起こした。
顔が蒼白だ。
「……大丈夫ですか……?」
澟は手に持っていた水が入った湯呑み茶碗を伊織に差し出した。
「ありがとう…………」
興奮した五臓六腑を洗い流すように、音をたてて水を飲む。
その様子を不安気に澟は見ていた。
「今何時ですか……?」
「五時です。私は朝餉を拵えてきます。お水のおかわり持ってきましょうか?」
澟はすでに布団をしまい、昨日と同じもんぺ姿に着替えていた。
「……いや」
「旦那様はもう少しお休みなさいませ」
声だけで不安と怯えていることがわかる。申し訳ないことをした。
それでも何も聞かずにいてくれることが有り難かった。賢い女性だと思った。
幾度も幾度もみる夢…………いや、現実だ。
澟が廊下に出てお勝手に向かう足音を聞くと、伊織は大きなため息をついて布団を被って横たえた。
一年中晴れることがない曇天。
吹雪が荒れ狂う轟音。
内臓にまで震動する砲弾。
苔を喰らおうとも、最後まで歌っていた仲間たちの落ち窪んだ瞳と皮骨だけの身体。
今でも伊織の身体中をツンドラの強風が駆けめぐる。
幾度戻りたいと願っただろう。
それが遂に果たせなかったことと、自分が今のうのうと生きていることに憎悪の念が湧く。ずっとこれだ。
殺してほしい。
誰か俺を罵って殺してくれ。
殺し て くれ。
朝餉を食べ、軍服に着替え身支度を整えた後、お供の憲兵がやってきて、旦那様は出勤した。
澟は不穏な空気をはらうように、
「はあ━━ッツ」
と気合を入れて、両頬を叩いた。
「よし!頑張ろう!」
これから隣組のご挨拶と配給に行くのだ。
一九三八年に国家総動員法が成立し、国民全員が戦争に従い、勝利に向けて気力体力を注ぐ一方で、窮乏生活を耐え忍ぶことになった。
隣組はその末端組織である。
足立区では、「隣接する五世帯及二十世帯」を標準とする隣組がおかれた。
全戸加入が義務付けられ、主に配給品を引取り配布することや、町内の連絡、長会費の集金などが仕事である。
男たちは戦場に行っているため、隣組の活動は女性たちによって行われた。
昨日に比べて今日は肌寒い。
澟は伊織が教えてくれた地図を見ながら役所へ向かった。
途中で庭の地上に木戸がある家をいくつも見かける。防空壕だ。
役場は北千住駅の西口を出て右手のすぐ裏にあったので、容易く見つかった。
係の人にたずねて、澟が住む町の隣組が集まる場所へ廊下を渡る。
廊下ではもんぺ姿の沢山の婦人や娘たちが賑やかに今日の配給物を受け取っている。
「小林ミエさん」という名前の女性が役所に来ているはずと地図には書いてあり、澟は
「小林さん、小林ミエさんはいらっしゃいますか?」
と大きな声で読んだ。
二十メートルほど先に、「はあい?」とひょっこり顔を出した女性は、五十近くの面長で上品な顔立ちをした方だった。
藤色の色留袖で作ったと思われる着物と、カスリが入った藍色のもんぺを着用している。胸元の名札をみると、確かに「小林ミエA型」とあった。
澟は緊張しながら頭を深々と下げた。
「はじめまして。同町に先日から住み始めた逢坂澟です。これからよろしくお願いします」
小林さんは、澟の名前を聞いて表情が固まった。
「……ああ、逢坂さん……」
頭のてっぺんから、紺足袋を履いた足元まで舐めるようにジットリと見つめる。
「あの……配給のやり方がわからないので今日お手伝いさせて頂いてもいいでしょうか?」
澟が尋ねると、
「……ええ、今日の分はこれです」
小林さんは、廊下に敷いてあった新聞紙の上にある大根一本とネギ二本、鱒の半身を指差した。
「何軒に分けるのですか?」
「二十戸ね。札に書いてあります」
「ええッ!二十戸?これを?!」
思わず大声が出た。
五戸でも少ない配分だと思っていたからだ。
澟の声に周囲が驚き一瞬空気が止まった。
「あ……す、すみません、これらを各二十戸配るということですか?」
少ない。少なすぎる。
鱒なんて一戸一切れ二切れぐらいだ。尻尾の人も出るだろう。
小林さんは配給品を抱えながら無表情に言い放った。
「あなたの前の住まいでは、随分贅沢されていたかもしれませんが、今はみんなこうですよ」
澟の心の臓が釘で打たれた。
お蘭姐さんが言っていた「廓は守られている」という言葉は本当だった。
この量は、十人分の女郎の配分である。十戸ではない。十人である。
欠乏が顕著な砂糖も、市会議員から流れてきたものを料理人のトン吉が貯蔵してあるのを見たことがある。
それは、不況でも戦時中でも遊郭が儲かっていたからだ。
そして廓の組合は政界、警察、軍隊とも裏では強固に繋がっていた。
戦争中でも男の欲望は変わらない。厳しい規制もなかった。
澟が千寿遊郭にやってきた頃よりは食べ物が慎ましくなったな、とは思ったが、あからさまな窮乏を感じることはなかった。
しかしそれ以前に、澟は自分の過去が知れ渡っているということに恐怖を抱いた。
役所を出て歩いている途中に小林さんから仕事の詳細を聞く。
「今日は私の家で切り分けます。逢坂さんは次々回の配給担当。自宅で切り分けて、各戸に配ってください。お知らせはしょっちゅう回覧板が回ってきますから、確認の印鑑を押してね」
「ああ、ちょっと外で待っててくれる?切り分けたら一緒に配りに行きましょう」
小林さんはそう言って自宅に入った。
「小林古書店」と書かれた看板の下では、箱に詰められたゾッキ本が並んでいる。
澟はその中に紛れ込んでいた林芙美子の「放浪記」を手にとってパラパラとめくった。
店の中から、娘さんだろうか、若い女性の声がした。
「お母さん、あの人だあれ?」
落ち着いた小林さんの声が聞こえた。
「新しく入ってきたご近所さんよ。大磯に行っちゃった神木さんの家の。うちには入れないでね」
澟は本を箱に戻した。
店から極力見えないように軒先の端っこに立って待ち続けた。
これから冬だというのに、背中の襦袢はじっとりと汗が流れた。
(次回)
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