「羽ころも、春ころも」#3
(画像:「東京都 江北荒川堤 五色の桜」 明治期絵葉書 作者所持)
1942年 4月
幾夜もの桜爛の化粧が赤灯の下で微笑し、柔肌に散る花弁とともに宴は繰り返された。
戦争が始まっても人肌恋しく求める客足は絶えぬ。
千住の大通りから裏口に入り、おでん屋や屋台が並び人が二、三人並んで通るだけで手一杯となる抜け道を通って男たちは柳町へ浮き足立ち通った。
「衣料切符なんてザマあないね。手に入るのはスフだよ。ほれ、こんなペラペラの」
遣り手婆やんは、お茶を引いてる遊女たちに、人造綿花で出来た布を投げつけるように見せた。
今年のニ月から衣料点数切符制が実施された。
足立では都市部は一人一年100点で、点数に応じて衣料品が買えるのだが、肝心の綿はステーフルファイバーで作られている粗悪品だった。
「なんだいこりゃ、すぐ破けるじゃないか。これじゃ針も通せないよ。」
「すぐ破けるからスフ、ってんだ。世間様ではこんなもん配って生活をきばってるってわけだよ。お前たちなぞ恵まれてる方さね。絹やあま台なぞ着させて奢って貰えるんだからね。まだまだ夜はこれからだよ。兵隊さん一人でも励まして差し上げれないものかね」
ああ、またいつもの婆やんのお小言が始まった……と遊女たちは怠そうに暖簾に向かったり、手水に逃げたり、まわし部屋に散った。
遊郭でも毎年2回行われていた衣替えがなくなった。
春、秋と着物を一新して綺麗に買い替える慣わしだったのだが、豪華な着物が手に入りにくく手持ちのもので繋ぐようになった。
皆の逃げ足の早さにいつも出遅れてしまうりんは、気まずさを抱えながら遣り手婆やんのお小言や愚痴に付き合うのが常である。
「おりんちゃん、お前なぞは男への根回し、というものをお蘭さんや曙、お竜から学ばなけりゃならないよ。お蘭さんはあの美貌と口上に床上手、曙は男が惹かれる奥ゆかしさ、お竜はどんな客だって満遍なくサービスして御職になったんだ。お前はなんだって鈍臭いし口下手だ。お芋が好き、という男は少ないんだよ。煮るなり焼くなり唯一の取り柄の賢こさを利用して熟考して甘いお芋にしようって魂胆はないのかい。いつまでも初見世気分では客だって白けるさね」
つまりは自分の鈍臭さ、田舎くささを毎度お説教されるのであるが、りん自身も何処をどう上手く立ち回ればお客様に喜んで貰えるのか、仰ると通りの芋子が殺し文句なぞ嘘くさくて本人が吹き出してしまう方なので「はい……すみません……」としおしおと婆やんの言われるがままになるしかなかった。
「ああ、そうだった、おりんちゃん、すまないがね……」
婆やんがおりんの耳にそっと囁く。
おりんは顔が曇った。
「頼むよ、ね」
婆やんは事を伝えたあと、時計をみて座敷の方へ去っていった。
時計は七時半を指している。
おりんは青い顔をして、震える手を押さえた。怒りと無力感という相反する感情が針山のように心の臓に突き刺す。
「…………なんで…………」
滲み出る涙を人にみまれまいと張の奥で俯いていた時、
「おりんさん、お客様だよー!」
と、牛太郎の威勢のいい声が響いた。
慌ててホールに出ると、そこには緑茶色の制服に身を包んだ軍人さんが二人立っている。
一人は顔を知っている。お竜姐さんの馴染みである。けれど後ろで所在なさげに立っていた軍人さんは一度も見たことがなかった。
「早乙女さん……早乙女さんじゃあないか。待ってたのよ。んもう、ずっと」
赤襦袢の上に菖蒲柄の打掛を纏ったお竜姐さんがニ階から降りてきた。
練香の誘う香りと幾分かほつれた髪に潤んだ瞳で馴染みの軍人さんの胸に手を回す。
これが手練手管……寝起きで機嫌が悪いお竜姐さんの素顔を見ているおりんは、別人級の猫の被りようにいっそ惚れ惚れした。
早乙女と呼ばれる軍人さんは、りんに、カラッとした笑顔で伝える。
「花魁さん、こいつね、後輩なんだけど初めてなんだよ。これから北方に向かうってんで連れてきたの。男にさせて、送ってやって下さい。頼みますね」
後ろで何か言いたそうに、怒った顔をしている軍人さんは、早乙女に最後まで言い阻められ、終いにはバツが悪そうにため息をついたまま黙っている。
ホールにはガラス張りに売れっ子順で花魁たちの大きなポスターが貼られている。客たちはそれをみて今宵の相手を決めるのだ。
お客様は軍人さんも多く、公休の日は店にとっても格好の掻き入れ日であった。
「じゃな、ゆっくり飲んで遊んでくれ」
そう言うと、早乙女さんはお竜さんをお姫様のように抱え上げた。
「きゃっ……」
お竜姐さんもびっくりし、菖蒲がさらり、と落ちるような身のこなしで抱えて颯爽と階段に登ってゆく様に、番頭も
「はあー、さすが将校さんだねえ。色気も男気も段違いだよ、これは」
と、眼福と言わんばかりに褒めあげた。そして
「さあ、お二人も春爛漫の長い夜をこれからゆっくり温め合おうじゃありませんか。個室の泊まりで行った、行ったー!!」
と威勢よく二人を押し上げた。
階段で遣り手婆やんとすれ違った時は、軍人さんに「よくお越しくださいました」と愛想笑いをしながらおりんを引っ張り、
「アンタ、いい男当たったじゃないか。将校様だよ。しっかり気張るんだよ」
と、小声で背中を叩いた。
四畳半の赤い布団が敷いてある部屋にお通しする。
軍帽を取らないまま男は何も言わずに突っ立っている。おりんは座っていつもの通り深々と頭を下げ口上を述べた。
「初めまして。逢坂様。今宵相手をさせて頂きますりんでございます」
大体こう言う時は、相手から柔らかい言葉が返ってくるのだが、男は焦りと苛立ちが混ざった声で
「あの……ッ、いいですから。そんなことしなくても」
想像以上に澄んだ声で、おりんが顔をあげると、怒ったような居心地の悪そうな表情を浮かべた軍人さんは、目を逸らして伝えた。
俯き加減の軍帽から覗く瞳は涼やかで、長い。
「無理やり連れて来られたんです。私はそのつもりはないので、貴方は休んで下さい…………」
男の顔は心なしか紅くなっていた。
「あの、私なんかですみません。他の方に変わりましょうか……?」
気張りも意地もないりんは、正直に伝えた。
「いえ!そうではなくて、私は本当に心に決めた相手としか契りたくはないのです」
(次回)
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