【愛でも喰らえ】#5 「うたたねの 夢路に人の 逢ひにこし」
千住新橋から望む荒川は夕暮れ時が最も美しい。
水面が一粒一粒輝りそれが大きな漣のように光が広がる様は圧倒的で、あと何度この光景がみれるのかという深い満足感とこれから静夜を迎える寂寥感がじわじわと湧いてくる。
「今日も綺麗だねえ、乙女さん」
丁子色のカーディガンが夕凪に揺れながら、今日の春の締めくくりの荒川の広大な夕暮れを名残惜しそうに眺め、詩乃は抱っこした狆に見せた。
狆の柔らかい毛が詩乃の顎をたんぽぽの綿毛のようにフワフワと撫で、その感触がたまらなく心地よい。
毛色は淡く消えそうなミルクティーとホワイトの二色で、その優しい色合いも詩乃は好きだ。
大きく一日の終わりの空気をいっぱいに吸い込んで深呼吸する。
ああ、そうだった、病院で動物たちを抱き小さな鼓動を手のひらで探る感触。
あの幸福感を、故郷から遠く離れた下町でまた味わうことが出来たのだ。
半月前、詩乃は浅草の喫茶店「ノワール珈琲店」で、心に留まっていたことを洗いざらい凪琉に吐き出した。
「怖い……絶対失敗する……無意識のうちから感じてるの。とんでもない駄作を出して、相手と比較されて……きっと降ろされるんだろうな……って」
ぼとぼとと涙が黒いワンピースの膝の上に落ちた。
骨ばった手は栄養不足で灰色がかった黄味を帯び処理をせずに伸びた無駄毛が恥ずかしい。自分が未熟なことは十分わかっている。手探りでまだ作品の輪郭しか捉えられていない焦り。
対して相手は、詩乃が一番経験豊かな分野のテーマで花開く可能性を大いに秘めた存在。
悔しかった。
取らないで。
その場所は。
取らないで。
その場所は、私が経験を積んで、いつか形にしたい大事な大事な宝物なの。
得体の知れぬ相手への怖さと憎しみが渦潮のようにとぐろを巻いている。
大きな黒い波に向かうような孤独と、いずれ味わうであろう諦観を予感する気持ちが大きい。
「内実で単行本化も決まっている」と恩田から告げられた時、詩乃が築き上げてきた何か太い芯のようなものがグラグラと揺れ、自信という果実がぼとぼとと落ちた。
柔らかく熟し甘味を秘めたその果実は地面に叩きつけられ、無様に吐瀉されたとてつもなく醜くおぞましい汚物に変わった。
その汚物の上で裸足になって幹を支えている詩乃は、両手が塞がっている今、冷静に考える余力もなく朦朧と運命のままに流される無力感のみで、どのように自力で立て直せば良いのか、もうさっぱりわからなかった。
凪琉は詩乃の手をふっくらした手で包んだ。
「なんくるないさー」
「………………」
沖縄の朗らかな言葉も、詩乃にはそっけなく遠く聞こえる。
「しーちゃん、苦しいね、苦しいけれどこれが作家業なんだよ。おぞましい自分の心と向き合うのがこの仕事の旨みなんだ」
旨み…………?
詩乃はいつも穏やかな凪琉から意外な言葉が出たことに一瞬戸惑った。
「今まで言えなかったんだけども、私もっと若い頃にね、商業で書いていたの」
「え……?」
「ライトノベルのジャンルでね、沖縄の神話に基づいたファンタジーを作ってたのさ。でも全然売れなかった。誰にも見向きもされなかった」
「悔しかったよ。葛藤しているうちに、自分より後にデビューしたもんがどんどん人気になってゆくわけ。歴史ファンタジーを作った子がその年のラノベ大賞を受賞してたり、自分と同い年の子が大作を作ってアニメ化されて大人気になったり。どんどん追い越されてゆくわけ」
凪琉の意外すぎる過去に詩乃は目を見開いた。ちょっと心が追いつかない。波琉はずっとフリーでネットや即売会を中心に続けてきたと思っていた。
「泣いたよ。たくさん。一時はおかしくなって心療内科に通ってた。ユタにあいつ堕ちろーって、祈祷してもらおうとか思うほどだったんさ。けれど商業で結果を出せないものは仕方ない。投資として出版社も出してくれているわけで、その分の利益をうめないものは切るしかないよね。毎月連載できていたのが三ヶ月に一度、半年に一度、しまいには担当さんとも音信不通になったんさ」
「そ、それで……?」
「その頃に妊娠がわかって、旦那さんと一緒になったんさ。子供は嬉しかったけど、全然気持ちは追いつかないさ。追いつくわけない。小説家になるのが夢だったんだもの」
「………………」
「ある日定期検診で太りすぎだから歩けってお医者様に言われたの」
「家に閉じ籠りで食べるか書くか寝るかしかしてこなかったから、身体が重かったの。今季節がいつで、何が外で起こってるのかさえ気づかないでいたのさ。母体が不健康なのは子供に悪いし、お産が大変になると思ってね、毎日東京の街を歩くことにしたの」
凪琉は一口キャラメル珈琲をプファーと味わうと、顔が綻んだ。
「そうしたら、楽しいの!手芸好きには日暮里は聖地だし、とにかく掘り出し物があって安いんさ」
キラキラに大きな瞳を輝かせて、凪琉は自分のお気に入りのお店をたくさん発掘できたことを語った。
確かに、日暮里は布も手芸道具もボタンも毛糸も安くて可愛いものがどんどん見つかる。蚤の市のようなお店もあり、詩乃も好きな街だ。
「ちょうど秋口でこれから寒くなる頃だったから、子供用の産着を縫ったり、靴下を編んだり、材料ハンターで日暮里に通っていたらすっぽり地理も覚えたの。東京の街なんて大きすぎて把握しきれないって思ってたのに。路地で沖縄料理店を発見して島の料理を懐かしむうちにおかみさんと仲良くなったり……ああ、島でやってたこと、こっちに来て忘れちゃってたわあ、って思い出したんさ」
「子供が生まれて、双子だったから目が離せんでねえ。毎日育てるのに必死だったけど、本屋さんに行くでしょう、子供の絵本買いに」
「そしたら、かつて自分が生きていた場所はあるんだよね。どんどん追い越されていった場所が。私がいなくてもずっとその場所で誰かが頑張っているわけ」
「最初は嫌で辛くて悲しくてラノベコーナーには行けなかったよ。今だって辛いね。けれど、一つ振り返って思うことがあったんさ」
「ここに作品が並べられているみんなも、自分と同じだったんだなあって。同じように苦しんで、焦って、つまづいて、一度や二度離れたこともあったかもしれん。自分だけじゃなかったんだなあ。書いていた時はものすごく苦しかったし、辛いばかりだった。けれどその時こそ、作家として輝いていた時だったんだなあ、って」
詩乃はかつての凪琉が自分と全く同じ心境だったことを呆然と聞いていた。
「だからね、今が一番楽しい時なんだよ。しーちゃん。」
「……楽しいって…………こんなに苦しいのに?」
バラバラに散らばった不安のハギレばかりが溜まって、どうパッチワークをすればいいのか途方に暮れている。
楽しさより自分への怒りやパツンパツンに切り刻まれたあらゆる形の不安だけが詩乃の心を覆っている。
「この想いは作家でいる限りずっと続くんさ。だとしたら、落ち込んでいる毎日より、美味しいご飯を食べたり好きな作品観たり読んだり、動物と遊んで楽しく過ごす方がよほど続くと思わない?」
「でも、頑張らなきゃ……」
「頑張るのはいいよ。でも、ずっとは頑張れないよ。壊れるだけ。追い込むのは、ここぞ、という時だけ」
「そんなんでいいのかな……?」
「いいんだよ。息抜きしなきゃ続かんさー」
凪琉は詩乃の手を心持ち強く握った。
「それができる人が、結局続くんさ」
凪琉の言葉を受けて、心が妙にストン、と納得した。
そして不思議な安堵が心身にじんわりと熱いポタージュが染みるように広がった。
この状態が、作家の「普通」。
これからずっと同じ競争が続く。
それならばいざという時に馬力が出るよう自分を日々フラットにチューニングしてゆくことが大事…………
春の嵐はごうごうと詩乃の胸の中を掻き乱した。
帰宅して、どうすれば詩乃は自分が創作の澱みを落とすことができるのかおこたに寝転がって考える。
浅草の壽々喜園で買った抹茶サブレがコロコロと卓上に転がっている。
粉砂糖がかかったサブレのほろほろとした甘みと抹茶の香りが内観するのにちょうどいいお供だ。
詩乃の苦悩とはお構いなしに、お腹を座布団にしてチャップリンが腹を出して眠っている。舌をデロンと出して寝入っている様子はおやっさんのようだ。
猫はいいなあ。何万回猫になりたいと思ったことか。
チャップリンの尾の付け根を撫でながら、ストレスの発散、発散……とぼんやり思っていると、今日の凪琉の言葉を思い出した。
「毎日外に出た方がいいよ。どうしたら外に出れる?」
詩乃は自分が「夢中」から「正気」に戻るには、動物の存在が不可欠だとすぐに思いついた。
外に出なければいけない動物といえば犬である。
思いついたと同時に、近くの里親センターの情報を調べていた。
綾瀬にあるセンターに足を運び、たくさんの犬や猫たちを眺めていると、窓際でおっとりと座って詩乃を見つめていた狆と目があった。
詩乃が近づくと、
「キュウ……ン…………」
と切なそうに鳴いた。
「この子はおばあちゃんに育てられていた女の子です。飼い主が亡くなってしまって引取り手がおらずうちに来ました。よく似た小型犬のチワワが人気で、狆は知らない人が多いんですよね。日本犬なのに」
スタッフの説明を聞きながら、ぽうっと見つめるつぶらな瞳とミッフィーのような口元が可愛らしくて見入ってしまった。
なんて乙女なの。
今夜泊めてくださらない、と上目遣いでおねだりするかわい子ちゃんに、ええで、ええで、ワイでよかったらいくらでも相手するで!と自ら貢ぐおっちゃんの如く、このときの詩乃は見事にハートを射抜かれ、「うちの子」として迎え入れる相談をその日のうちに始めた。
乙女さんは室内犬の狆という犬種そのもので大人しい。
狆は鳴き声が猫のよう、と言われるくらい小さく愛らしいと言われている。
乙女さんも、何か訴えるときに、「キュ……ン」と詩乃を見つめ続け、姫の言う通りに動くとご褒美なのかありがとうの気持ちなのか長いフサフサの毛を振って擦り寄って来る。そしてけして吠えることはなかった。
トライアル中チャップリンも全く威嚇せず、乙女さんと一緒に日向ぼっこをすることが増えたのをみて、正式に譲渡が決まった。
「さすが獣看護師さんですね。グルーミング用品もバッチリ!お目々用の洗浄液まで用意してある!」
譲渡で家にやってきたセンターの方が用意万全の屋内をみてにこやかに言った。
狆は先天的に目の病気になりやすく、日頃の健康チェックとお散歩や起きた後の目やにをふくケアが大事なのだ。
乙女さんがきてから、詩乃の生活にリズムが戻ってきた。
朝起きてお散歩に行き、頭が冴えている午前中に執筆し、今日のノルマが終わったら午後は読書、買い出し、お散歩に行ってのんびりと過ごす。
乙女さんのグルーミングも日々の大切なお勤めとなった。
柔らかい毛と小さな鼓動の温かさに触れると、執筆で思い悩んでいたことがそれでも大丈夫、と思えてくる。
乙女さんとチャップリンにおやつをあげながら、自分にもちんちんに沸かしたほうじ茶とフィナンシェを頂いた時には、これが幸せと呼ばずして何が幸せか、と言うくらい平和な心持ちになる。
まだ人気のない時間帯に銭湯に行ったり、湯船に浸かる。
ストレッチをしながらお笑いの動画をみて、心もほぐし零時前に眠る。
こんな何でもない日常が、尊いものだったとは。
雨空の色だった日々が、今はロココ式のピンクのように優しく柔らかく一変した。随分優雅に過ごしていることに負い目を感じつつも、この「ゆとり」がアイデアを生むことも確かだ。
もちろんライバルの脅威は拭いきれない。
けれど、恐れて暮らすのなら、自分が心地よく過ごす方が余程長続きする波琉の言葉通り過ごしてみると、不思議なことに段々執筆の恐れや周囲について悶々と沼に浸かる時間が減っていった。
乙女さんのおかげで、東京の下町は、夕焼けの桜も美しいことに気づいた。
乙女さんは、眠る時も大人しい。
凪琉が編んでくれたホワイトと赤の毛糸の丸座布団の上にちょこん、と乗って静かに口元を閉じて眠っている。まるで赤ちゃんのようにスッと目を閉じ、地図記号の「消防署」のマークを逆さまにしたような口元を毛糸にほんわりとあて、安らかに眠っている。垂れたふわふわの耳も愛らしい。
「ありがとう、乙女さん」
詩乃の心は、新しい家族のおかげで安寧に満ちていた。
(次回)
(マガジン)
