流れる本とモナコの微笑み
巨大な立体交差の歩道橋の近くにある、古びた印刷工場。薄暗い作業場にはインクと紙の匂いが染みつき、ベルトコンベアーの上を終わりの見えない本の列が流れていく。
俺はただ、それを仕分けるだけのアルバイトをしていた。
哲学書、ビジネス書、自己啓発書——どれも興味が湧かない。作業に集中していると、自分の手が機械の一部になったような錯覚を覚える。ただ流れる本を分類し続けるだけの単調な時間。
だが、その瞬間、俺の目は釘付けになった。
ベルトコンベアーに、一冊の写真集が流れてきた。黒い水着をまとったグラビアアイドルが表紙を飾っている。濡れたような肌、柔らかい光の加減、挑発的な笑み。
このページをめくりたい——
強烈な衝動が湧き上がる。ゆっくりと、慎重に、次のページを覗いてみたくなる。手が自然と伸びかけたその時——
「おい! ちゃんとやれよ!」
鋭い声が飛んできた。
振り返ると、同僚の田村がじっと俺を睨んでいた。彼は漫画家志望で、休憩時間にはノートにラフを描いている。口数は少ないが、自分の理想や美学にはこだわりを持っている男だった。
「つい見入っちまったよ」
俺が言い訳すると、田村は呆れたように鼻を鳴らした。
「そんなもんに惹かれてるようじゃダメだな」
「お前だって、流れてくる漫画雑誌に夢中になってる時あるだろ」
「違うね」田村はポケットから何かを取り出した。「俺の理想の女性は、グレース・ケリーみたいな気品のある人なんだよ」
そう言って、1枚のモノクロ写真を俺に見せてきた。
そこに写っていたのは、古い映画のワンシーンのような女性。波打つ金髪、涼しげな瞳、完璧な輪郭の横顔。柔らかいドレスをまといながらも、どこか近寄りがたい気高さを漂わせている。
「……誰?」
「グレース・ケリー。昔のハリウッド女優で、のちにモナコ王妃になった人だよ。美しさと気品、どっちも兼ね備えてる。本物の女性ってやつさ」
「ふーん……お前、こういうタイプが好きなんだな」
「単なる好みじゃない」田村は写真を見つめながら言った。「俺の目指す漫画のヒロインは、こういう女性なんだ。色気だけじゃない、知性と品のある存在。いつか、こんな女性を描きたい」
俺は黙って写真を見つめた。グラビアアイドルとはまるで違う美しさ。俺が目を奪われた黒い水着の写真集とは別次元の世界。
「……まあ、俺にはこのほうが身近だけどな」
俺はベルトコンベアーを流れていく写真集を指さした。田村はため息混じりに笑う。
「お前はそれでいいのか?」
田村の言葉が妙に引っかかった。俺はベルトコンベアーを流れる本を見つめる。俺が夢中になれるものは、この工場に流れてくるだろうか? それとも——
考えながらも、俺の手はまた機械の一部として動き続けていた。
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