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ジョンの魂


2024年12月8日(日本では12月9日)、84歳になったジョン・レノンを想う。

今から50年以上前に、アルバム「ジョン・レノン」を聴いた時、そして今年の7月、リバプールを訪れた時、ジョンの魂に触れることができた。

リバプールでジョンの魂に触れる
2024年7月にジョンの魂を求めて初渡英し、リバプール(およびロンドン)の聖地巡礼を行い、母ジュリアの墓前で手を合わせ、ふたりに感謝を伝えた。するとその翌日、教会ホールでクオリーメンのロッド・デービス氏と偶然に会って話すことができた。ジョンが会わせてくれたと思っている。

アルバム「ジョン・レノン」から魂に触れる
1969年9月にビートルズを脱退して1年後、1970年12月にジョンは30歳でビートルズからの決別宣言として「ジョン・レノン」(プラスティック・オノ・バンド)をリリースした。

私は中学1年生のときに、アルバム「レット・イット・ビー」を聴いた後、このアルバムを聴いた。
ビートルズは解散したこと、ジョンは既に母を失っていたことを知っていたので、私はこのアルバムを聴いたとき、嗚咽を抑えることができなかった。
今から50年以上前にジョンの魂が私に届いた瞬間であり、その歌声から魂の叫びが聞こえた。

自分の名前を冠したアルバムタイトルだが、邦題「ジョンの魂」のほうが相応しく、自分のなかでは揺るがない終生ベストのロック・アルバムだ。


人間ジョンのコンセプト・アルバム
1968年10月麻薬所持で逮捕、同年11月ヨーコ流産、1969年3月結婚、妻への人種差別と非難、薬物への依存、1969年9月ビートルズとの決別など、激動の時期を経て、ふたりは孤立感が深まるなか、真実の愛を信じ、しっかりやろうと自分と世界を鼓舞し、苦痛から自分を解放しようとした。

ジョンは、それまで薬や瞑想で苦痛から逃れようとしたが叶わず、プライマリー療法によってこの時期の苦痛からは解放されたようにみえた。

※1970年の春、サンフランシスコで行われた映画「レット・イット・ビー」を観たジョンは涙していたという(同席のヤン・ウェナー談)。
自分が命名し動かしてきたザ・ビートルズが崩壊していく姿を見て、複雑な感情を止められなかったのだと思う。
ジョンはこの療法により、心の叫びを発することに正直だった。

このアルバムからマザーがシングルカットされたが、全11曲が繋がっているようで、人間ジョンの考えをアルバムトータルとして聴くことができる。
この時期のジョンを知ることのできるコンセプト・アルバムと言ってもいい。

コアな音はギター、気心の知れたドラムとベースのみで、一部ピアノを加えたが、余計なものは削ぎ落し、歌詞も俳句や禅の影響もあってシンプルかつストレートで、言いたいこと伝えたいことだけを隠さず明確に真摯に届けてくれた。
そして、ビートルジョンの時代とは全く違う人間ジョンの音楽を創った。

テーマは一貫して「自分のことは自分でなんとかしろ、自分らしくあれ」。

ジョンは平和を希求していた

最初から最後まで
夏の札幌、日曜日の晴れた午後、中学生の私は真剣に聴いていた。
レコードに針を落とした瞬間の鐘の音とともに響いた叫び声から、バンジョーの音とともに呟いたか弱い声まで、全てを自分の心に聴きとどめた。

Side1:Mother、Hold on、 I Found Out、 Working Class Hero、 Isolation
両親との記憶は辛かったが忘れる、今はもう側にはいないのだから。
自分に対しては気負わずに「頑張れ」と、世界にも「しっかりしろよ」と伝える。
自分でしか探せない自分の苦痛を探し出すことができた。これからどうするかは自分で考えなければならない、自分でしか自分をコントロールできないのだから。
ビートルズから脱退、勲章も返還して、自分は労働者階級になる。愛と真実を探してウロウロしているけれど、付いてきてくれるか。
功成り名を遂げ金も手にしたが、孤独を感じている。

Side2:Remember、Love、Well Well Well、 Look at Me、 God、
My Mummy's Dead

過去は戻らないのだから、思い出しても良いが後悔してはだめだ。
束縛を受けない、自由で真実なものが愛。
自分をみつめて頑張るしかない、生き続けることが大切、まぁ、そういうことだ。
楽しくもあり、辛い時もあったビートルズ、ディランやエルビスも信じない。ビートルズ解散も後悔しない。彼らも苦楽を感じる生身の同じ人間だ。彼らに追随する必要はないし、これから自分は、自分を信じて自分の道をヨーコと共に歩む。
最愛の人だった母も既にこの世にはいないのだから。

(God)
エルビスも歌っていたLove Letters(ケイティ・レスター)は、キャバンクラブ閉店の時にかかっていたBGMだった。ジョンはこの歌を思い出し、Godでファンに向けてビートルズの閉店を伝えた。

(Hold on)
気負いなく何気なく歌うこの曲が好きだ(クッキーモンスターの声も)。

その後のジョン・レノン
自由を求め1971年10月からジョンは米国に移り住み、一時政治活動に巻き込まれ、旧友ポールとの確執、ビートルズ解散後の裁判のなか、「イマジン」、「サムタイム・イン・ニューヨーク」、「マインド・ゲームス」をリリース。

その後、1973年10月、ジョンを支え続けてきた戦友であり妻で母のようなヨーコと別離。この頃、アルバム「ロックンロール」制作の時、スタジオでプロデューサーのフィル・スペクターが発砲、ジョンはそれを止めようとした。恋人メイ・パンと家路に着いたジョンは暴れだし、途方に暮れて泣きじゃくったと言う。
1974年に入ってジョンは泥酔してマル・エバンス(ビートルズの元ロードマネジャー)の肩にもたれて「俺は昔、良い子だった」と泣き崩れたこともあった。酔いながら「ヨーコ!」と名前を何度も呼びながら。

その後、同年6月から主にロスアンジェルスでジョンの心情が溢れる「Walls and Bridges」を制作、同年9月にリリース。

土下座・謝罪しても許されず妻に愛想を尽かされ、音楽活動も上手くいかなくなり、ジョンは愛を喪失し、見放され、辛く苦しい時と戦った。
酒に溺れ自分を見失った、まさに「失われた週末」だったが、ヨーコに家から追放されたジョンは1975年2月、安息の地ニューヨーク・ダコタハウスへ戻り、同年10月に長男ショーン君を授かり、家族との絆を確かめることのできる幸せな暮らしに落ち着く。
家に戻ったのは「自分を救ってくれたのはヨーコだったから」、という心境だったと思う。(1976年7月にはFBIとの闘いの末アメリカの永住権を得る)

ジョンの言葉
ビートルズの呪縛から解放されたジョンは幾つもの言葉で私たちを励まし、心を軽くすればよいことを示唆した。
ジョン自身も様々な状況の中で、その時を生きることにいろいろと悩み、もがいていたのが分かる言葉だ。
ジョンは自分にも問いかけていたが、その言葉は私にも響いた。

How can I go forward when I don’t know which way I’m facing. (How):
向いてる方向が分からなければ、進む方向も分からない
Yes is the answer and you know that for sure. (Mind Games):
肯定することから始めるんだ
You’ve got to serve yourself. Ain’t nobody gonna do for you. (Serve Yourself):自分の心は自分で面倒みるんだ、誰も代わりにならない


平和を希求し続ける
ビートルズから解放されて10年間、ジョンはビートルズを葬り、様々な苦難を乗り切り、戻ったニューヨークで愛を育み、子供を育て漸く平穏に普通の日々を過ごすことができた。
1976年に続き1977年、ショーンとの香港旅行では、「落ち着いた気分で自分が自分自身でいる、本当の自分だ」と昔感じた平穏な心を取り戻すこともできた。
1977年から1979年まで毎年来日し、軽井沢や京都でも平穏な暮らしができたと思う。

1980年6月から英領・バミューダ諸島で精力的に作曲。大西洋の嵐のなか、ジョンが船の舵を握っているとき、昔感じた感覚が戻ってきた。1961年の熱狂のなかで、「運命は自分が握っている」という感覚だった。
そして、人生は40歳から始まる、1980年代は素晴らしい時代になる、と一緒に成長してきたビートルズの仲間(就中ポール)、ファン、私たちに対して語っていた。
フラワー・パワー、平和運動は廃れたわけではなく、一人ひとりが自分たちの生活レベルで戦争に加担してはならないことも。
世の中が争いではなく平和に向かうのも、一人ひとりの行動や意識にかかっているのだと。
この世の中を作っているのは、一人ひとりの「平和にしたい」という行動、「命は繋がっているのだ」という意識だからだ。

明るい未来を確信し希望を抱き、1981年3月の日本から始まるワールドツアーを構想しStarting Overした矢先、ジョンは最も憎むべき暴力によって命を絶たれた。
愛情、自分、真実、平和、反戦など、魂から湧き起こる様々なことを曲にしてきた、その人と才能が一瞬で抹殺されたことに、大学生の私は言葉を失い、ラジオで追悼番組を夜通し聴いていた。一瞬、目の前を照らす松明が消えそうになった。


ジョンには家族で幸せな暮らしを続けてほしかったし、その忘れられない事件は只々悔しい。しかし、過去は戻らないのだから、私たちは今を生きるしかない。
中学生の時にジョンの魂に触れ、それから50年以上経った今でもジョンの力は常に私と共にある。今も、これからもジョンはジョンなりに「しっかりしろよ」、「いつになったら分かるのか、悲惨な殺戮を繰り返すことの愚かさを」と世界に問い続けている。

ジョン・レノンの曲、言葉、人となりは私にとっては、永遠に消えない松明のようで私の前にある道を常に明るく照らしてくれている。
最後に、英雄でも理想家でもない普通のひとジョンへの感謝と追悼を込めて2曲を捧げ、心に残る初渡英の記憶とともに2024年を穏やかに終えよう。
ジョンが生前行ってみたいと言っていた北海道(私の故郷札幌)で、パラレルワールドの酒場でジョンと一緒に、「お疲れ様」と美味い酒を酌み交わしながら。

1980年6月から7月末、英領・バミューダ諸島に滞在し作曲。
ニューヨークに戻ってダブルファンタジーをまとめる。

一曲目は、1998年にプロデューサーのジョージ・マーチンのアルバムから「Friends And Lovers」。ジョン亡き後に、ジョージ・マーチンの耳から離れなかった音だが、正にジョンへの追悼。引き続いてショーン・コネリーによる「In My Life」の歌詞朗読も聴くことができる。

二曲目は、リンゴバージョンもあるが、ジョンの優しさが際立つ名曲「Grow Old With Me」のカバー(歌はメアリ-・チェイピン・カーペンター)。


上記の記事はクロサキナオさんの企画参加記事です。
#クロサキナオの2024WinterWonderland
https://note.com/kurosakina0/n/n86f19d957efd

(了)

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