内省から始まるアウトプット
内省が自分を立て直した
自分にとって、内省はとても重要な習慣だ。
心が不安定になり、人生が大きく狂ってしまった時期があった。その長い低迷から抜け出すことができたのは、必死にノートに書きながら、自分の内面と向き合ったからだと思っている。
最初はとにかく必死だった。人に話せないこと、誰にも聞いてもらえないことを、ひたすら書き続けた。
やがて、自分の内面と対話する感覚が生まれた。自分の本当の意思はどこにあるのか、何がずれているのか。それを知り、受け入れ、統合していくことで、少しずつ自分自身を取り戻していった。
始めた頃に比べれば、今はかなり状況は良くなっている。それでも、内省を怠ると心の歪みが生まれることもはっきり分かっている。だからこそ、今では毎日の習慣として欠かせないものになっている。
noteを書く時間との葛藤
ただ、ここ最近は、書く時間も文字量も少し減ってきている。
心に余裕ができたことで気が緩んでいるとも言えるかもしれないが、一番の理由には心当たりがある。それは、noteの記事を書くという行為だ。
最近は、できるだけnoteの記事を書くようにしている。「記事」というと、第三者に読まれることを前提にした文章を指すので、自分の場合は必ずしもそうではないかもしれないのだが、まあそれは置いといて、とにかくアウトプットをしていくことも、日常の中で必要な要素だと感じていて、できるだけ継続して公開するようにしている。
しかし、たとえ大した内容でなくても、一つのテーマで文章を書き始めると、それなりに時間がかかる。考えを巡らせ、何度も読み直して修正していると、一時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。
内省の時間が減っている現実
夜にnoteの記事を書いた後、さらに誰にも見せない内省、つまりジャーナリングを続けるのは、正直なところなかなか難しい。
結果として、本来大切にすべきジャーナリングの時間が、noteの記事作成によって圧迫されてしまっている状態になっていた。
困ったものだ。noteの更新頻度を下げることも考えた。やはり内省を優先すべきではないか。そんなことを考えていた、ある夜のことだった。

AIを使った分析と再構成
その日は数日ぶりに、少し多めの文章をジャーナルに書いた。
出来事に対する自分の感情、そしてその感情の原因を自分の内側に求めていく問いを書き続けた。この一年ほど続けているストア派哲学の考え方に照らしてみたり、アドラーやユングの理論に当てはめて深掘りしてみたりと、自分なりの方法で整理していった内容だった。
その考え方が妥当なのかを確認したくなり、ノートをスマホで撮影し、AIに読み込ませて分析させてみた。
すると、想像以上に客観的で的確な分析が返ってきた。それだけでも興味深かったが、さらにジャーナリングの内容を「少し整え、公開すべきでない情報を削除し、note記事として成立する形に再構成する」よう指示してみた。
すると、自分でも面白いと思える読み物が出来上がった(人の評価という意味ではなく、自分の整理としてという意味で)。もちろん、そのまんまでは使えないので、自分の言葉や表現に修正する必要はあるのだが。
ジャーナリングとnoteの両立
そっか、この方法なら、大切なジャーナリングもしっかり行えて、noteの記事としてアウトプットすることもできる。
そもそも、誰かに読んでもらうことよりも、まずは自分の気持ちをアウトプットすることだけを優先してきたので、この方法は自分にとってちょうどいい距離感なのかもしれない。
そう感じた。
自分のために書く
今後は、リアルなジャーナルと連動させながら、noteを効率よく更新していく方法を試してみたいと思う。
noteの収益化なんてもちろん考えていないし、評価や人に読まれることは嬉しいが、それを目的化させるつもりはない。その姿勢は維持しつつ、結果として誰かの何かの役に立つことが少しでもあるなら、それはそれで嬉しい。
