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『おじいさんの脳内上映会―柿の木の下に埋めた、ある家族の記憶―』【一気読み・完結篇】

##あらすじ

孤独な老人・敏夫は、二階に引きこもる息子・健一と、腐敗臭漂う家で二人暮らしをしていた。かつての幸せな家族の記憶を脳内で繰り返し「上映」することで現実の惨状から逃避する毎日。しかし、敏夫の周囲では不可解な異臭や、庭の柿の木の異常現象が続いていた。ある日、敏夫は限界を迎え、意を決して、頑なに閉ざされていた息子・健一の部屋の扉を開ける。そこで見たものは、耐え難い現実か、それとも脳内上映会が見せた幻影か.....。焼け落ちた廃屋から見つかった過去の奇跡と、庭の柿の木の下に埋められたもう一つの秘密。三十年という時間をかけて崩壊したある家族の愛と狂気が交錯する救いのない短編ミステリー。



1. 境界線上の朝 ―限界老人の毎朝と終わらない脳内上映会―


障子から差し込む一条の光の中で、微粒のほこりが舞っていた。
その光の束は、まるで何かを探すように敏夫の顔をなぞる。
鼻をつく、かすかな腐敗臭が布団の中にまで入り込んでくる。
敏夫は、深く刻まれた目尻に光が触れた瞬間、ゆっくりと目を開けた。


時計を見なくても今が何時か分かっていたが、習慣で枕元の時計に目をやる。針は、やはりまっすぐ六時を指している。


ここ数年、敏夫は毎朝決まったこの時間に目を覚まし、布団の中で一時間ほどだらだらと過ごすのが日課だった。七時を過ぎるといそいそと起き出し、味噌汁とパックの白米で朝食をとる。 
その“変わらない日常”だけが、彼をかろうじて現実につなぎ止めていた。


食後はまた寝床に戻り、うつらうつらと一時間ほど二度寝をする。そのあと軽く流しを片付け、テレビをぼうっと眺める。腹はさほど空かないが、他にすることもないので昼食を作って食べる。大抵は、そばかうどんだ。


午後は、猫のひたいほどの庭の手入れをする。といっても、目につく雑草を引っこ抜く程度だ。その後、三日に一度は歩いて二十分ほどのスーパーへ買い出しに行く。夕飯には息子の健一のためにおかずらしきものを作るが、自分は冷奴と納豆、朝の残りの白米と味噌汁という粗食で済ませるのが常だった。

八時頃からまた一時間ほどテレビをつけ、流行っているらしい若い歌手やら俳優を眺めてから風呂に入る。もっとも、風呂は一日おきだ。風呂に入らない日は歯だけ磨き、九時過ぎには布団に入る。そして、毎月二日に発売される月刊のミステリー小説集を読み始めると、いつの間にか眠りに落ちているのだった。


雑誌を読み切ったことは一度もないし、内容を覚えているわけでもない。それでも数年間、毎月購入してきた雑誌が、枕元に盆地を囲む低い山脈のように積み上がっている。天井の蛍光灯からは、寝たまま消せるように長い紐がだらりと垂れている。

自分がどうやって眠りに落ちたのか、毎朝不思議に思うが、思い出せたことはない。それでも朝になれば灯りは必ず消え、読みかけの雑誌にはきちんとしおりが挟まっている。何が「大丈夫」なのかは分からない。それでも敏夫は、その僅かな痕跡を頼りに「まだまだ大丈夫だ」と自分に言い聞かせることができるのだった。


来る三月で七十六になる敏夫は、足腰に多少の衰えこそ感じるものの、健康そのものだ。冬になっても風邪ひとつひかない。まだまだ現役で働けるというのに―。五十年間勤め上げたプラント会社のことを思い出しては、毎朝のように無念さを覚える。


二つ隣の駅から出る始発の座席を確保するため、かつては毎朝十五分も並んだものだった。毎日片道二時間近くを過ごしたあのオレンジ色の電車は、敏夫にとって第二の寝床と言えるだろう。あの頃、あれほど苦痛だった満員電車の喧騒さえ、今では懐かしく感じてしまうのだから皮肉なものだ。


その朝、敏夫はふと、自分は一体何時間、あの電車の中で寝たのだろうと思い立ち、暗算を始めた。一日四時間、週五日、それを五十年……。頭の中で数字が絡まり、訳が分からなくなる。そもそも、積み上げたところで何になるというのか。敏夫は急に馬鹿らしくなって軽く頭を振ってみた。


すると、小川という男の顔がふと頭に浮かんだ。敏夫と同じ高専卒の同期入社で、共に出世街道には乗れなかったが、人懐っこい丸顔で「アンパンマン」と慕われていた。陰鬱な雰囲気をどこかに漂わせ、他人を寄せ付けない敏夫とは対照的な存在だった。


二人は同じ日に定年を迎え、若い社員たちに「ご苦労様でした。いつでも遊びに来てください」と、うやうやしく送り出されたあと、敏夫は二人でささやかな祝杯をあげないか、と小川を誘った。しかし小川は「娘夫婦が祝ってくれるから」と照れ臭そうにはにかみ、申し訳なさそうに「また近いうちに」と言って駅の改札口で握手を交わして別れたまま、その後一度も会っていなかった。


数年前までは年賀状のやりとりだけは続いていたが、小川から母親の喪中の知らせを受け取ったのを機に、それも途絶えてしまった。


その朝はどういうわけか、小川との思い出が次々と走馬灯のように蘇り、あれほど毎日のように顔を合わせていた小川と、今では全く連絡を取らなくなってしまったことが、ひどく残念に思えて仕方なくなった。

今度電話でもしてみるか。小川の番号は、あの茶色い手帳に書いてあったはずだ。だが手帳はどこにやったのか。長いこと見ていない。いや、食器棚の奥にしまったような記憶がある。よし、朝飯のあとで探してみるか。


そう思いながら、敏夫は布団の中でしばらく天井を見つめた。照明焼けした古いクロスの茶色い染みが点と点でつながり、娘や孫に囲まれて笑っている小川のまん丸の顔が、敏夫の顔の何倍もの大きさで、ねぶた祭の絵のように浮かび上がった。


しばらくその笑顔を見つめていると、敏夫は「やっぱり連絡するのはやめよう」と心を変えた。小川の話を聞いたあと、自分には話せることが何もないのだから。

鼻から冷たい空気を吸い込み、天井の小川の顔を吹き飛ばすように息を吐くと、敏夫はぎゅっと目を閉じた。三つ数えて目を開けると、小川の顔は消えていた。

昨夜の眠りは深かったらしく頭は冴えているが、寒さのせいか身体がだるく、腰の痛みもひときわひどい。今日は今年一番の寒さかもしれない。庭に初霜が降りているかもしれない。柿の木も寒いだろうに、と、障子の向こうの小さな庭に、きつそうに根を下ろしている柿の木を思った。


そしてとうとう、天井向こうの健一のことを考える。過去数年間、毎朝のこの時間が、敏夫の単調な生活の中で唯一、敏夫を緊張させ、憂鬱にさせる時間だった。


知らぬ間に握りこぶしを作っていたらしく、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいる。天井の向こうは静まり返り、足音ひとつしない。健一はまだ寝ているのだろうか。最近は全く動く気配がない。風邪でもひいて寝込んでいるのかもしれない。あいつは俺と違って身体が弱いから。その静寂が、以前よりもさらに深く、重苦しくなっていることに、敏夫はまだ気づかないふりをしていた


久しぶりに健一の顔を見て話がしたくなったが、勝手に二階に上がるもんなら、また何をされるか分からない。あの日のようなことは、もう二度とごめんだ…。


2. 五段目の静寂 ―引きこもる息子への届かない歪な愛情―

それは数か月前のことだった。


その朝も、今朝のように人恋しさに駆られた敏夫は、息子の好物である鍋焼きうどんを夕飯に用意した。


スーパーで買ってきた出来合いのものを鍋に移し替え、温め直しただけではあったが、お盆にのせた鍋焼きうどんの見栄えに敏夫はひどく満足し、
「これなら健一も機嫌を良くして、今夜は久しぶりに話し相手になってくれるかもしれない」そんな勝手な期待を膨らませ、敏夫はいそいそと階段を上り、二階にある健一の部屋の扉をノックした。


「健一、鍋焼きうどんを作ったよ。お前の好物だろう?ここに置いておくよ。ところで、元気なのか?」

幾度呼びかけても、扉の向こうは静まりかえったままだ。


「おい、元気なら声だけでも聞かせてくれよ。」


鍋焼きうどんを乗せたお盆を抱えたまま、敏夫は突っ立ち、返事を待つ。しかし、返ってくる気配は微塵も感じられなかった。


お盆を床に置き、躊躇いながらも、すがるような思いでおそるおそるドアを開ける。敏夫の目に飛び込んできたのは、父の気配など微塵も感じていない息子の姿だった。大きなヘッドフォンを被り、猿のように背中を丸め、何かに取り憑かれたように必死に股間に置いた手を動かしている。


昼夜の境界などとうに消失した部屋は、中年男のすえた体臭が澱んでいて、その狭苦しい片隅で、髪の薄くなった貧弱な体躯の息子が、獣のように一心不乱に己を慰めている。


衝撃のあまり、咄嗟に後ずさりした敏夫はは、床に置いた鍋焼きうどんを蹴飛ばしてしまった。

「あっ!」思わず、声を上げる。

異変に気づいた健一は、慌てて脱ぎ散らかしたジャージで股間を隠し、PCから外れたヘッドフォンのコードをぶら下げたままドアへ駆け寄ると、鬼の形相で敏夫の胸ぐらを掴み、力任せに踊り場に突き飛ばした。その時に不自然な姿勢で尻もちをついた衝撃が、今も鈍く敏夫の腰を疼かせている。


はあ、と深く息を吐き、布団の中で肉のそげた腰をさする。あの日のうどんの汁の臭いが、今も鼻の奥から離れない。


あの日以来、敏夫は何があっても二階には上がるまいと固く決め、食事は一日一回、夕方六時に「階段の上から五段目」へ置くことにした。


台所で一人、夕食を摂っていると、のしのしと階段を下り、またのしのしと足を引きずるようにして二階へ戻っていく健一の覇気のない足音が、家中に響く。


翌朝、皿が五段目に戻されてるのを確認し、敏夫はそれを取りに行く。しかし、一日中部屋にこもるだけの生活では腹もさほど空かないのか、食事が手付かずのまま放置されていることも多かった。


今日は風邪薬も一緒に置いてやろう。


健一とは話せない。そう思うほどに、無性に誰かと話したくなる。



敏夫は枕元に置いたラジオのスイッチを入れた。人恋しい時にはこれに限る。


ラジオの向こうから流れる若い女の声に集中する。玉と鈴が転がるような心地よい声音が、乾いた敏夫の心を温かく包み込んだ。「よくもまあ、毎日飽きもせず話すことがあるもんだ……」と呟きながら、目を細める。


ふつふつと、言いようのない感情が心の底から湧き上がり、敏夫はたまらなくなった。無性に、誰かの声を聴きたい。誰かと、言葉を交わしたくて仕方ない。


のそのそと布団から這い出ると、床に脱ぎ捨ててあった茶色のカーディガンを寝巻きの上からひっかけた。敏夫は、隣の台所まで—といっても数歩の距離だが—よろよろと歩いていった。埃をかぶった食器棚の引き出しの奥へ、血管の浮き出た染みだらけの腕を深く突っ込んだ。しばらくガチャガチャと何かを探り、ようやく見つけ出したのは、カビの生えた古い茶色の手帳だった。


指の震えを抑えながらページをめくり、ようやく小川の番号を探し当てる。雑多な紙やゴミが散乱するダイニングテーブルの椅子に腰を下ろすと、今にも落ちそうな危ういバランスで置かれた受話器を取った。おぼつかない指でボタンを押す。呼び出し音が鳴り響くよりも早く、彼は受話器を耳に強く押し当てていた。


「……あ、小川か! そうだ、そうだ、俺だよ、天野だ。元気にやってるか?」敏夫の頬は瞬く間に紅潮し、芝居がかった太くしゃがれた声が、家中に響き渡った。


「……そうだよ、久しぶりだな!……ああ、ああ、元気だよ。お前はどうだ?」敏夫は、うん、うん、と大袈裟に首を縦に振った。


「……おう、そうか。それは良かった。……え?ああ、いや、そうなんだよ。実はさ、うちの健一もな……ようやく嫁さんを連れてきてな。今は同居してるんだよ。ああ、そうなんだ、そうそう……。こんな狭い家にな。毎日が騒がしくてかなわんよ。あいつはすっかり尻にひかれちまって困ったもんだよ……そうか、お前んとこもか。お互い、辛いな!あははははは!」


敏夫は膝を叩き、庭の柿の木まで届くような大声で笑った。暗く沈んでいた部屋の埃が、敏夫の吐き出した息で一斉にに舞い上がる。

「おう、おう、また飲みに行こう。あの会社の近くの居酒屋、まだやってるかな。そのあと、会社に顔出してみるのもいいかもしれんな。おう、わかった。じゃあ、また近くなったら電話するよ。ああ、じゃあな。思い切って電話してよかったよ」


満足げに頷き、敏夫はガチャッと勢いよく受話器を置いた。


しばらく高揚感であがった呼吸で、肩が上下していたが、足もとに何かモゾモゾと動く気配を感じ、視線を落とした俊夫の顔から、一瞬で表情が消えた。


電話機から伸びたコードは、壁のジャックに繋がることもなく、ただ無残にテーブルからぶらりと垂れ下がっている。

破れた障子の隙間から忍び込んだ黒い野良猫が、その揺れる灰色のコードの先を前足で捕まえようと夢中になって戯れている。ふと敏夫の視線に気づくと、猫は動きを止め、じっと彼の顔を見つめ返した。その瞳に一瞬だけ冷ややかな光が宿り、まるで全てを見透かしたかのように、呆れた様子で首を振ると、猫は身を翻して庭の闇へと消えていった。静寂が、以前よりも重くのしかかる。


敏夫は、自分の喉の奥がカラカラに乾いていることに気づいた。台所の流しに行き、縁の欠けた茶碗に水を入れて一気に飲み干すと、流し台にもたれたまま目を閉じた。


皺が深く刻まれた目尻から涙が滲み出した。しかし徐々に、敏夫の口元には笑みが浮かびあがってくる。


潤い出した敏夫の心は、自由自在に時空の橋を越えていく。これは数年前から身につけた、彼だけの秘密の技だった。


今朝の意識は、数十年の時を超え、かつて十年近く住んでいた郊外の公共団地へと飛んでいく。


ここで律子との結婚生活を始め、三年後に健一が生まれた。ブランコと小さな砂場しかない公園で、健一とよく遊んだものだった。


未熟児で生まれた健一は身体が一回り小さく、一年中何かしらの病を患っていた。律子は、敏夫の目には過保護に見えるほどにつきっきりで世話を焼いていた。


「身体が頑丈なだけが取り柄なのよ」そう明るく笑う細い身体の律子も、息子が幼稚園に入ってからはスーパーのレジ打ちを始めた。


無駄を徹底的に省いて節約すること十年。ようやく手に入れたのが、団地からさらに電車で一時間も北に上った、猫の額ほどの庭付きの一戸建て。


敏夫が三十七、律子が三十五の冬だった。


片道二時間を通勤にかけることになったが、念願のマイホームに、二人はしばらく浮かれていた。


身寄りがいなく、苦労して育った律子は、自分たちの庭を持てたことがよほど嬉しかったのか、ホームセンターで買ってきた柿の苗木を大切そうに植えた。


「私ね、自分の庭で柿の木を育てて、好きなだけ実を食べるのが夢だったの」

縁側に座り、飽きることなく苗木を眺めていた律子を思い出す。


障子を開けたら、そこに律子が座っていたりして。


もし彼女が元気に生きていたら、今頃どんな生活を送っていただろう。健一もまた、違った人生を歩めていたのだろうか。


敏夫が今、寝起きしているこの部屋は、かつて居間だった場所だ。テレビを囲み、健一と無邪気に戯れた日々。あの頃、この空間から三人の笑い声が途切れることはなかった。


一階に台所と居間、二階には夫婦の寝室と健一の子供部屋。あの頃、誰もが信じていた。この小さな屋根の下で、これからもずっとずっと、穏やかな幸せが続いていくのだと。


引っ越してきた最初の夜に、新築祝いでもらったカセットコンロを取り出し、家族ですき焼きを囲んだ。


初めて口にする甘い醤油に浸った肉の味に、健一はえらく興奮し、普段は食の細い子が珍しくご飯をおかわりし、頬を真っ赤にして、敏夫と肉を競い合うようにして食べてたっけ。あの晩の律子は、二人の子供をあやすかのように幸せそうにはしゃいでいた。


あの頃が、人生で一番幸せだった。


「せいぜい笑っていればいいさ。これから先は、笑うことなんてないんだから」楽しそうに肉を頬張る「かつての自分」を、今の自分が見下ろして毒づく。


カビっぽい湿った台所の片隅で、あの晩の残り香を嗅ぐかのように深く息を吸い込んだ。


不思議なことに、顔の周りの冷たい空気が、一瞬だけ甘い醤油の混じった温かい湯気に変わった気がした。


すると、目元から一筋の雫が頬を伝い落ちるのを感じ、「いかんいかん」と静かに目を開く。


意識を庭の柿の木へと連れ戻すと、ラジオの向こうの女性が、時刻が七時になったことを告げていた。


3. 階上のため息 ―吐息が招く過去への禁断の扉

昨晩テレビで見かけた少女のように華奢な少年が歌っていた曲を、記憶をたどりながら真似て口ずさんでみる。足にも軽くステップをつければ、胸の奥からふつふつと暖かい湯気のような温かいものが、浮き立ってきた。やかんに水を入れ、火をかけようとした時、パジャマの上に羽織った茶色のカーディガンの袖に、大きな穴が開いているのに気がついた。敏夫はしばらく、その穴に親指を通したり抜いたりして遊んでみる。


「あはははは!」

あばらの浮いた腹の底から、絞り出せるだけの声を張り上げて笑ってみる。すると、不思議と本当におかしくなってくる。指を穴に通したまま、流しに転がっていたおたまをマイク代わりに握りしめ、おぼつかない足取りでステップを踏む。時折、ふらりと体を回転させながら歌い続けた。調子に乗って万年床へ戻ろうとしたその時、枕元に積み上げた雑誌の山につまずき、敏夫は湿った薄い布団の上へと無様に倒れ込んだ。


そのまま起き上がる気力もなく、おたまを握りしめたまま、うつ伏せで数分間、死体のように微動だにせずにいた。やがて息苦しさに耐えられなくなり、ムクっと顔を上げると、冷たい空気を一気に吸い込む。障子の穴から外を覗けば、庭はうっすらと雪化粧し、実を落としきった柿の木が、凍てつく静寂の中に直立していた。風に煽られ、細い枝がゆらりと揺れている。だが、その枝先には季節外れの分厚い葉が数枚、まるで強風を嘲笑うかのようにしぶとく残っていた。そのあまりに深い緑色は、地中の奥底に眠る澱のような何かを、長い年月をかけて吸い上げてきたかのように昏く光っていた。


やかんがシュンシュンと湯気を立て始めたので台所に戻り、火を止めてほうじ茶の缶を開ける。しかし茶葉は一欠片も残っていない。


「そうだった……」


何日も前から切らしていたのに、なぜか毎回忘れてしまう。明日は買い出しの日だ。今度こそ忘れないようにしよう。健一も何か必要かもしれない。夕飯の希望を聞くメモに、付け足して聞いておくか。


仕方なく湯呑みに白湯を注ぎ、リビングへ戻る。障子を開けて縁側に座り、柿の木をただひたすら眺める。狭い庭でひとり寒さに震えているように見えるその姿に、

「お前も、こっちへ来れたらいいのにな」

と白湯をすすりながら語りかける。すると、根元の土がわずかに盛り上がり、木の根っこが地面の下で何かを抱え直したような鈍いぐらつきが伝わってきた。どこからともなく、さっきの電話線で遊んでいた野良猫が現れ、敏夫の膝に当たり前のように乗ってくる。敏夫も驚くふうもなく慣れた手付きで、猫の頭を撫でていると、冷蔵庫に梅干しがあったことを思い出した。


「そうだ、あれを入れてみるか」喝を入れて、立ち上がろうとしたその時、


「う〜ん」


若い女の、うららかな声がどこからともなく響いてきた。敏夫は一瞬、身体を硬直させて部屋を振り返る。空耳だろうと自分に言い聞かせ、頭を振って台所へ向かおうとした。その背中に、もう一度。


「はあ〜……」


今度ははっきりと、天井の向こうから聞こえてきた。心地よく伸びやかで、どこか聞き覚えのある、みずみずしい女の声。天井越しに届いたその声に、敏夫は思わず湯呑みを落とした。


熱い白湯が素足にかかり、足をばたつかせる。床にこぼれた湯を穴の開いた袖で慌ただしく拭いながら、敏夫は天井の向こうを透かし見るように凝視した。


健一の部屋に、女がいるはずがないじゃないか。

健一は三十年近く、二階のあの部屋に引きこもっているのだから。


早産で未熟児として生まれた健一は、体も病弱で一回り小さく、父親である敏夫譲りの陰鬱な空気を色濃く纏っていた。そのせいで、どこへ行ってもいじめの標的にされてきた。幼稚園、小学校、中学校と、いじめは成長とともにエスカレートしていき、教科書をズタズタに破かれた日もあれば、口の端を切って帰ってくる日もあった。ランドセルを川に投げ捨てられたことさえある。学校に行きたくないと泣きすがる息子を、敏夫は「根性がない」と叱り飛ばした。休ませたいと懇願する妻の律子を突き飛ばし、ただの一度も休むことを許さなかった。高専を出るとすぐに北陸の親元を離れ、叩き上げで生きてきた敏夫にとって、虚弱体質な健一は時に女々しく、忌々しい存在ですらあった。泣きじゃくる息子を校門まで引きずっていったこともある。体を鍛えれば変わると信じて野球部に無理やり入れさせたが、そこで待っていたのは、さらなるいじめだった。


そして、敏夫のそうした「教育」は、健一を二階の部屋へと完全に閉じ込めてしまった。


健一は結局、外の世界のどこにも馴染むことができず、この家の二階という小さな箱の中にしか、自分の居場所を見出せなかったのだから。


その健一の部屋から、確かに女の声がした。敏夫は呼吸さえ殺し、足音を消して階段のたもとへ向かう。日が全く射し込まない階段の先を見据えると、五段目には昨日供えたはずの酢豚が、まるで数日放置したかのように冷え固まり、不気味な白い脂を浮かせている。いや、昨日だったか。……いや、一昨日だったか。記憶が澱のように混ざり合い、視界が揺れる。丸二日以上、健一は何も口にしていないことになる。階段の暗闇を仰いでも、家の中は死んだように静まり返っていた。


空耳か?

いや、確かに聞いた。

一度目はラジオかと思ったが、二度目は確かに生の女の吐息だった。幻聴ではない。


敏夫は己に言い聞かせ、許された境界線である「五段目」まで、座っては這い上がり、座っては這い上がる、という動作を繰り返した。階段を上るたび、放置された酢豚から発せられる腐敗した酸味が、肺を刺すように鼻をつく。一段進むごとに濃度を増すその異臭にむせ返りそうになり、とっさに袖で口元を覆った。先ほど床に溢れた白湯を拭ったせいで、袖口は氷のように冷たく、肌に貼りつくその不快感が、ここが異界であることを突きつけるように、敏夫を庭の出口へと引き戻そうとしていた。



冬なのに、どうしてこんなに腐るのが早いんだ?

これでは健一も食えるわけないじゃないか!


赤黒くケチャップ色に染まった酢豚を忌々しげに睨みつけると、敏夫はその先にある二階の踊り場に視線をのばした。


4. 未完の設計図 ―描きかけの過去と深夜の轟音


「私は体が頑丈なことだけが取り柄なのよ」

そう高らかに笑っていた律子が、「頭が痛くて仕方ない」と顔色悪く訴えたのは、引っ越してから五年ほど経ち、健一が中学に上がった春の日のことだった。


「お前は頑張りすぎなんだよ。ほどほどにしろよ」

敏夫は、前日の接待ゴルフと深夜まで続いた酒のせいで、二日酔いの頭痛に苛つきながら、目をちかちかさせ、込み上げる吐き気を抑えつつ、新聞から顔を上げずに気のない返事をした。


「そうね。私もいつまでも若い気でいたけど、もう若くないのよね」

律子は、心配そうに見つめる健一に、おどけた笑顔を作ってみせた。



数日後、中学校から帰宅した健一は、リビングで倒れている律子を発見した。夜遅く病院に敏夫が駆けつけると、律子は、くも膜下出血により意識を失い、いくつものチューブに繋がれていた。


傍らでは、新調したばかりの学生服を纏った健一が、そのブカブカの生地から突き出した枝のような細い腕で、震えながら律子の手に絡みついていた。

「……もう多分、意識は戻ることないって」

健一は敏夫を見ようとせず、震える声でつぶやいた。



それから約六年間、律子は一度も意識を取り戻すことはなかった。 敏夫が庭の柿の実を摘んで数日後の十一月下旬、彼女は静かに息を引き取った。 健一は高校三年生。数か月後に大学受験を控えていた、庭の柿の木が実を落とし、冬の準備に入ろうとしていた頃だった。



ずっといじめに遭ってきた健一だったが、高校三年生になって一気に背が伸びたせいか、ここ最近は平穏な学生生活を送れているようだった。敏夫もようやく肩の荷を下ろした矢先のことだった。当時、敏夫は会社を挙げた大型プロジェクトの渦中にあり、連日終電での帰宅を余儀なくされていた。健一と腰を据えて話す時間は皆無に等しかったが、時折見せる息子の佇まいが、以前とは明らかに変わっていることには気づいていた。



ある日、珍しく早く帰れた敏夫は、たまには精をつけさせようと近所のステーキ屋に健一を連れて行った。父親らしく、大学はどこを受けるつもりなのかと聞いてみると、「建築の勉強をしたいんだ」と、健一は恥ずかしそうに言った。なんでもテレビで偶然目にしたフランク・ロイド・ライトという建築家に感銘を受け、足繁く図書館へ通っては建築の本を読み漁っているらしい。目をきらきらと輝かせ、今まで見せたことのない生き生きとした表情で、最近知ったばかりの建築の知識をひけらかす健一に、敏夫は圧倒された。



「そうか。頑張ればいいじゃないか。お前、建築家になったら『先生』って呼ばれるんだぞ。頑張れよ、健一先生」


軽く冷やかすと、 「父さん、やめてよ」 と言いながらも、健一はまんざらでもない様子で、大きな硬い肉にかぶりついた。


「今度の土曜は父さん休みだから、一緒に母さんの見舞いに行こう」
そう約束した、数日後の出来事だった。



その夜、連日の激務で極限まで疲弊していた敏夫は、二時間の満員電車に揺られる気力さえ残っていなかった。自分へのささやかな甘えとして、会社の駅前で軽く一杯ひっかけたあと、そのままカプセルホテルに投宿することにした。酔いが回り、朦朧とする意識の中で健一へ電話を入れたものの、結局、滞在先を伝えることさえ忘れ、一方的に通話を切ってしまった。



その数時間後。病院から律子の容態急変の知らせを受けた健一は、霜の降りる真夜中の道を、たった一人で、一時間近く歩いて病院へ向かったという。当時は携帯電話など誰も持っておらず、敏夫と連絡を取る術はなかった。



翌朝、敏夫が着の身着のまま出社すると、普段は決して好意的とは言えない課長が、妙に優しい風情で近づいてきた。

「奥さんの体調が急変したそうだ。すぐに病院へ行ってやれ。健一君から朝、電話があったぞ」



敏夫が病院に着いたとき、律子はすでにチューブを外されていた。数週間前に見舞ったときよりも、体は一回り小さくなったように見えた。健一は無表情で立ったまま、母の顔をじっと見下ろしていた。枕元には、寄り添うように庭の柿が二つ並べられていた。その片方に生えた、白くフワフワとしたカビを、敏夫はぼんやりと眺めていた。突然、ひどい吐き気が敏夫を襲い、よろめきながら病室を出ると、誰もいない廊下は、なぜか湿った土の匂いに満たされていた。


健一はその年、願書を出していた大学を受験することなく、部屋にこもりがちになった。 律子が倒れた時も、そしてひっそりと逝ってしまった時も、そばにいてやれなかったことに負い目を感じていた敏夫は、何も言えなかった。一年くらい浪人させるのも仕方がない、そう思うことにした。律子の長期入院費用とローンの返済で、生活は決して楽ではなかった。本音を言えば、健一には早く自立してほしかったが、それでも浪人生活一年分の出費なら、無理な話ではない。むしろ、動揺したまま受験して本意ではない大学に進むことと比べたら、一年の充電期間は決して無駄ではないだろう。高専卒の敏夫は、会社での学歴による不条理を十分に知っていた。



あの頃の敏夫は、部屋にこもりがちな健一を見ても、これが永遠に続くとは思っていなかった。電車に揺られ、窓の外を流れる密集したマッチ箱のような戸建てをぼんやりと眺めながら、一年後、大学で建築を学び、今とは違う世界へ踏み出していく健一の姿を想像するたび、灰色にくすんだ敏夫の生活の中に、かすかな希望の光が差すような気がしていた。


「健一、お前は知らないだろう。父さんがあの頃、どれだけお前の将来に胸を躍らせていたか」

敏夫は五段目の階段の酢豚の隣に腰を下ろし、健一の部屋に向かってつぶやいた。


そして、壁一面を埋め尽くすように、黒いマーカーでびっしりと書き殴られた「死ね」という二文字をぼんやりと見つめた。どうして健一は、何もかもを捨ててしまったのだろう。その問いは、暗くて湿った静寂の中に消えていった。


5. 蝶々と蛾 ―壁に刻まれた罵倒の嵐と重なる後悔―

酢豚の放つ匂いは強烈で、まるで家全体が赤黒いケチャップの海に飲み込まれてしまったかのようだった。袖で鼻を押さえ、吐き気をこらえて二階を見上げる。視線を再び壁へ落とすと、階段脇の黄色く色褪せたクロスには、かつて健一がマジックで書き殴った「死ね」の文字が、びっしりと連なっていた。それは、帰る場所を忘れてしまった無数の蝶々の群れが夜空を羽ばたいてるようで、神々しさすら感じられた。そして、あの日のことが鮮明によみがえる。


律子が逝って半年。健一と顔を合わせる機会は少なかったが、健一も律子の死を少しずつ受け入れ、ようやく新しい生活に足を踏み出せると感じていた。過去六年、病院にまかせきりとはいえ、敏夫と健一はその寝たきりの律子の存在に呪縛のように縛られていた。律子の遺品を段ボールにしまい、夫婦の寝室の片隅に積み上げた時、敏夫は「これから健一と二人で、新しい人生を始めるんだ」と自分に言い聞かせた。



健一は滅多に部屋から出てこなかった。敏夫も毎日深夜近くに帰宅し、あえて話をしようとはしなかった。正直、憔悴している健一を見るのが、しんどかった。それでも寝る前にドア越しに声をかければ、「勉強してるから」という、くぐもった声が返ってきていた。「追い込みすぎるなよ」と、心配してる体で軽く声をかけながら、なんとかなる、大丈夫だ、と深く考えないようにしていた。


来年には健一は大学生になる。可愛い彼女だってできるだろう。敏夫にはなかった青春時代を思いきり満喫して、自分のやりたいことをすればいい。建築の勉強をしたいと言っていたが、もし本当に建築家になれたら、健一にこの家をリフォームさせたっていい。敏夫は通勤電車の中で、うつらうつらと半分眠りながら、そんな未来をぼんやりと想像していた。



しかし、二人の生活に訪れた変化は、敏夫が思い描いていたものとはまるで違う形で、嵐のように突然やってきた。ある夜、深夜を回って帰宅し、玄関の明かりを灯すと、そこはまるで家中が裏返されたかのような惨状だった。靴箱の靴は玄関一面に放り出され、傘立てはなぎ倒され、鏡には深い亀裂が走っている。数段先の階段の途中には、律子がゴッホの「ひまわり」を見よう見まねで描いた油絵が、カッターの刃によって、ズタズタに引き裂かれ、まるで枯れかけのひまわりのように、中途半端にぶら下がっていた。


空き巣かと思い、床に転がっていた傘をひっ掴んで「健一、大丈夫か!」と靴のまま階段を駆け上がった。暗闇の奥、布団にくるまった健一が「くそ爺め、お前が死ねばよかったんだ!」とかすれた声で叫んでいる。その身体が小刻みに震えているのが、ドア越しにも見て取れた。


突然、健一が布団から跳ね起き、壁に立てかけてあったバットで床の野球ボールを打ち込んできた。弾丸のようなボールが敏夫を襲う。慄いて一階へ逃げ戻ると、そこは戦場と化していた。台所やリビングには茶碗や皿が散乱し、テレビ画面には無数の亀裂が入っている。


何だ?何が起きたんだ?敏夫は、パニックのまま明かりもつけず、玄関先の街灯が差し込む薄暗いソファに、コートを着たまま呆然と腰を下ろした。そのとき、背後で足音がした。健一が鬼のような形相で階段を駆け下りてきた。真っ赤に泣きはらした目で敏夫を睨みつけ、「てめえなんか、早く死んじまえばいい!」と吐き捨てると、手元にあった分厚い建築の本を、獣のように投げつけてきた。


今、こうして階段に座り、さっきよりもさらに強くなった酢豚の酸っぱい匂いを嗅ぎながら、敏夫は考える。あの時、健一は俺に何を求めていたんだろう。俺には、健一を理解することができなかった。なあ、律子。お前なら分かったのか。お前だったら、健一を救ってやれたのか。なあ、律子……俺はどこで間違ってしまったんだろう。



健一はその日を境に、発作的に暴れるようになった。ある時は壁中に罵声を書き殴り、ある時はカーテンをカミソリで切り裂いた。どっかからエアガンを調達し、家中を見境なく撃ちまくった日には、さすがに身の危険を感じ、警察に通報しようかと本気で思い詰めたこともあったが、それでもまだ、健一の将来に見切りをつけることができず、寒い公園のベンチで一晩を明かしたことも何度もあった。



ある日、敏夫が予備校に電話して確認すると、天野健一という生徒は一度も在籍していなかった。半年分の授業料をどうしたのか問いただすこともできず、敏夫はひたすら健一を避けて暮らすようになった。はじめの頃は、健一が蹴散らして壊した食器や家具を、癇癪が収まった後で片付けていた。だが、そのうちそれも馬鹿らしくなった。いくら掃除をしても、また健一が暴れて散らかすだけだ。今日、 片付けたところで何も変わりはしない。



敏夫はできるだけ会社に残って残業し、金の許す限りカプセルホテルに泊まり込んで過ごした。土曜は接待ゴルフに駆り出されることが多く、家にいなければならないのは日曜だけだった。たまの日曜くらいは思いきり寝ていたかったが、敏夫は早々に起きて、猫の額ほどの庭の手入れに精を出した。その甲斐あってか、柿の木は庭には不相応なほど立派に育ち、毎年、異様に甘い実をつけた。その生臭く異様に甘ったるい匂いが、かえって吐き気を催させ、敏夫も健一も、一度もその柿の実を食べたことはなかった。あの頃は、可能な限り健一と顔を合わせることを避け、日々の生活をやり過ごすことで精一杯だった。



結局、「いつか昔の健一に戻ってくれるだろう」という敏夫の願いは、律子が二度と意識を取り戻さなかったように、叶うことはなかった。健一は完全に社会との関わりを絶ってしまった。あの頃の地獄のような毎日の中で、もしわずかでも救いがあったとすれば、敏夫も健一も年を重ねるにつれ、健一の暴れる頻度が減ってきたことだろう。以前は目の周りに青あざを作ることもしばしばあり、会社で好奇の目にさらされながら「酔って階段で転んだんだ」と下手な嘘で繕っていたが、敏夫が六十に近づく頃には、健一が暴れることもめっきり減っていた。それだけが、不幸中の幸いのように感じられた。


結局のところ、人間はどんな環境にも慣れるもんだ。「お前も、もう慣れただろう?」庭の縁側に座りながら、柿の木にそう話しかけていた日々を、敏夫は思い出す。


目の奥がひりひりと熱を帯び、かすんでくる。敏夫は、自分が長い間まばたきすら忘れていたことに気づいた。数回、強く瞼を閉じると、壁に刻まれた無数の「死ね」という文字が―それらが、今度は蝶ではなく、おぞましい蛾の群れとなって―斉に壁から剥がれ落ちた。


バタバタと湿った土の匂いのする鱗粉を撒き散らし、重苦しい羽音が部屋を満たす。天井へ向かって黒い渦が舞い上がった。


「うわっ!」


敏夫は悲鳴を上げ、胎児のように身を丸めて頭を庇った。蛾の群れは逆巻く怒涛のように敏夫の頭上で乱舞し、やがて潮が引くように壁の奥へと吸い込まれていった。


静寂が戻る。おそるおそる顔を上げ、鼻と口を覆っていた袖を下ろして、恐る恐る息を吸い込む。昨日から続く不眠が招いた昼夢に違いない。敏夫は、そう己に言い聞かせた。鼻が麻痺したのか、あるいは匂いそのものが薄れたのか、先ほどまでの吐き気を催すような不快感は和らいでいた。敏夫は少しずつ、何度も深く呼吸を繰り返した。大丈夫だ。もう、大丈夫。


再び二階の踊り場を見上げる。そこは先ほどと変わらず、ひっそりと静まり返っていた。もう十時は過ぎているだろうに、健一はいつまで寝ているのか。腹は空かないのだろうか。いや、案外起きているのかもしれない。部屋の中で息を潜め、逆にこちらを窺って笑っているのかもしれない。



最後に健一と話したのはいつだったか。数ヶ月前か。いや、もっと前か。思い出せないことに、敏夫は小さな衝撃を覚えた。その瞬間、胸がざわめいた。健一、お前は大丈夫なのか。まるで先ほど壁から飛び立った蛾が数匹、敏夫の鼻の穴から胸の中へ迷い込み、わさわさと飛び回っているようだった。



「健一」 胸の騒めきを抑えきれず、敏夫は息子の名を呼んだ。運が悪ければ、また怒鳴られるかもしれない。運が良ければ、顔だけひょいと見せてくれるかもしれない。でも、もうきっと以前のように手を上げられることはないだろう。そう思うと、少しだけ強気になり、先ほどより大きな声で再び呼んだ。


「健一」


しかし、二階は静まり返ったままだった。耳の奥で、早鐘を打つ自分の心臓の音だけが鳴り響いている。肺の奥底で、あの蛾たちが羽を休めているような気がした。このまま大人しく階下へ戻るべきか。そうだ、戻るべきだ。そう自分に言い聞かせ、腰を浮かせかけた――その時だった。


ガリッ、ガリッ。


二階からではない。庭の方から、何かが硬いものを引っ掻くような音が聞こえた。 敏夫は一瞬で、息を止めた。


それは、あの夜、庭に穴を掘っていた時に聞いた、スコップが石に当たった音のようだった。忘れていたはずの、汗ばんだ手のひらに残る土の感触。重い塊を引きずった後の腰の痛み。いや、そんなもの、忘れたことなど一瞬たりともなかったのだ。


「……健一、父さんは……」

敏夫が誰にともなく呟いた瞬間、二階の扉が、ゆっくりと、音もなく開き始めた。


6. 偽りの再会、そして醒めない夢 ―愛と狂気の境界線―

扉は数センチだけ開いたところで止まった。しかし、暗い闇が広がっているだけで、その先には何も見えない。


「みゃあ」


どこからともなく、あの野良猫が現れた。猫は敏夫の足元に体を擦りつけ、まるで獲物を追い立てるように、悠々と階段を上り始めた。健一の部屋で一体、何が待っているのか。それを確かめるには、腹を括って上に行くしかない。それに、あの柿の木が黒々と君臨する階下へ戻るのだけは、どうしても御免だった。


全身の力を振り絞って立ち上がると、激しい眩暈に襲われ、咄嗟に手すりにしがみついた。気を緩めれば、そのまま意識ごと崩れ落ちてしまいそうだった。一段、また一段。猫に導かれるように、手すりにすがりながらよろよろと這い上がっていく。猫は時折、そんな敏夫を冷たい顔で振り返りながら、尻尾をピンと垂直に立てて優美に先に進んでいく。手すりには敏夫自身の脂汗が細く長くこびりつき、まるでナメクジが這った跡のようだった。


ああ、とうとう二階まで来てしまった。あれほど「来るな」と言われていたのに。


ごくりと生唾を飲み込むと、全身から冷や汗が噴き出した。額の汗が頬を伝い、顎の先から床へと滴り落ちる。猫は、するりと、細く開いたドアの隙間から健一の部屋に入り、敏夫の視界から消えてしまった。


半開きのドアの奥は真っ暗で、何も見えない。震える手でドアをそっと暗闇へ押し広げた。


「健一……誰かいるのか。おい、健一。入るぞ」


声を震わせ、ドアを開け放った瞬間、強烈な生臭い匂いが敏夫を包み込んだ。せり上がる吐き気に耐えきれず、敏夫は一瞬で意識を失い、その場に崩れ落ちた。


……どれくらいの時間が経っただろうか。


敏夫が意識を取り戻すと、手はドアノブにかけたまま、入り口に立ち尽くしていた。いつの間にか、あの刺すような匂いは消え、ドアの先に広がる部屋には温かな陽光が注ぎ込み、シャボンのような洗濯物の匂いさえ満ちている。そして、あの猫はどこにもいなかった。


「あら、あなた。おかえりなさい。ああ、すっかり寝ちゃってたわ」

少し散らかった部屋の真ん中に敷かれた布団の中で、あの日の律子が、お日様の光を一身に浴びて気持ちよさそうに伸びをしていた。隣には、健一が華奢な背中を向けて眠っている。


「何よ、お化けでも見たような顔しちゃって」

律子は枕から頭を上げて、肘で上半身を支えながら、敏夫を見てくすっと笑った。


「健一の部屋、散らかってるから、この子が寝てる間にちゃちゃっと片付けようと思ったんだけどね。ほら、ねえ、あなたこのマンガ知ってる? 面白いのよ。マンガって言っても、あなどれないわね。夢中になって読んじゃって、気がついたら私まで一緒に寝ちゃってたわ」


隣の健一を起こさないよう、小さな声で囁きながら、枕元にある一冊のマンガをパラパラとめくってみせた。


もちろん知っているさ。それは、俺と健一で一緒に駅前の本屋で買ったやつだ。


「どうしたの? そんな怖い顔して。お腹空いた? あら、もうこんな時間…」

律子は少し気だるげに上半身を起こし、乱れた髪をゴムでひとつに束ね直した。


「でも、本当に汚い部屋よね。この子も男の子なのね。掃除はご飯の後でいいわね」

と、クスっと笑って、律子は布団から起き上がり、敏夫の方へ歩み寄ってくる。訳が分からぬまま立ち尽くす敏夫の横を、律子がすっと通り過ぎた。その瞬間、覚えのある甘いシャンプーの匂いが鼻先をかすめた。彼女はそのまま軽やかな足取りで階段を降り、踊り場に立ち尽くす敏夫を見上げて言った。


「健一はそのまま寝かせておいてあげて。疲れてるみたいだから」

敏夫は再び、健一の部屋に視線を戻した。そこにはあの頃の息子が、小さな背中を丸めて健やかな寝息を立てていた。


「……うむ」


声にならない返事が喉の奥で震え、敏夫は静かに頷いた。ドアを閉めようとノブを握り直す。節くれ立った張りのあるゴツゴツしたあの頃の自分の手が視界に入った。おっかなびっくり階段を一段ずつ降りていく。下の台所からは、律子の鼻歌に乗って、香ばしい醤油ラーメンの匂いが漂ってきた。さっきまでの腐臭は、跡形もなく消えている。気づけば腰の重みも消え、身体が驚くほど軽い。


階段を下りきり、二階を見上げた。 いつもの湿って暗い、恐怖がうづまいているあの空間が、嘘のように暖かくて、優しいお日様の光に満たされていた。階段も、玄関も、廊下も。家中のすべてが、四十年前、この家を買ったばかりの頃の若さと希望を取り戻している。二階には幼い健一が眠り、台所には頑張り屋の律子がいる。そして自分もまた、あの頃の自分なのだ。


これは夢か、幻覚か。いや、そんなことはどうでもいい。ここから自分を救い出してくれるのなら、なんだっていい。寂しくてさみしくて、カラカラに乾ききった心を、また潤してくれるのなら、さっきまでの孤独を忘れさせてくれるのなら、俺は夢だって幻覚だって、喜んで見るさ。ただお願いだから、俺をもう目覚めさせないでくれ…。



俺はお前達がいないと駄目だったんだ。本当に、ほんとうに駄目だったんだ…。


気がつけば、視界が生ぬるい涙で歪み、敏夫の頬をつうっと細く伝い落ちた。


7. このままでいて ―炎の中で永遠(とわ)に続く幸せの食卓―

「できたわよー」

懐かしい声がして、敏夫は息を呑んだ。数十年前の、あの日曜の昼下がりそのものだった。吸い寄せられるように台所を覗くと、ダイニングテーブルの上にはラーメンのどんぶりが二つ、湯気を立てて並んでいる。


それは、新築祝いに敏夫が会社からもらってきたものだった。律子は「もったいない」と大切に棚の奥へしまい込み、結局、一度も食卓に並ぶことはなかった。……いや、違う。あの器は、健一が癇癪を起こして壁に投げつけ、粉々に砕け散ったはずだ。


「美味しそうでしょう。やっぱり家がいいと、ラーメンまでご馳走に見えるわね。ね、やっぱりこの家を買ってよかったわね、あなた」律子は心底嬉しそうに言った。


「ああ」それ以上何か言えば、震える声を悟られそうで、敏夫は短く応えて口をつぐんだ。


真冬だというのに、全開にした障子からは暖かい日差しが降り注ぎ、狭い部屋の隅々まで暖かくて優しい空気で満たされている。そのあまりの心地よさに、思わずこみ上げた涙をどんぶりから立ちのぼる湯気に隠しながら、敏夫は麺をズズっとすすった。


律子は、ラーメンを数回すすった後で、庭に植えたばかりの柿の苗木を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。


「ちゃんと育つかしら」

数秒の沈黙が二人の間を流れたあとで、敏夫は聞き返した。


「……健一か?」

「え?」


律子は箸をどんぶりに置き、くすくすと笑った。


「やあね、柿の木よ。なによ、健一って。あの子は大丈夫よ、いい子だもの。ただちょっと、優しすぎるのよ。それだけよ」


そう言いながらも、律子の瞳の奥に一瞬、深い影が落ちたのを敏夫は見逃さなかった。


「野球チームでもね、またいじめのようなものに遭っているみたいなの。グローブを失くしたって泣いて帰ってきた日あったでしょ?私、叱っちゃったんだけど、本当は他の子に隠されたらしいの。だから今日は、休ませちゃったけど、よかったかしら…。」


「……そうだな」 敏夫は、喉に詰まるような思いで相槌を打った。

「なによ、“そうだな”って。他人事みたいに」律子は少し不服そうに顔をしかめると、立ち上がって冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いだ。細い手首から、すらりと伸びるしなやかな白い腕。肩から首筋へと続く、儚げな曲線。そのあまりの危うさと脆さに、敏夫はたまらなくなり、律子の手首を掴むと、思いっきり自分の胸に抱き寄せた。




「ねえ、あなた、どうしたの? 大丈夫?」

くすくす笑いながら、乱れた髪とスカートの裾を直しながら律子は敏夫から体を離した。

「大丈夫だ。なんだ、夫が妻を求めるのがそんなに変か?」そう言いながらも、敏夫も自然に笑いがこみ上げてきた。

「だって、こんなこと、あなた、したことないじゃない」律子は少し恥ずかしそうに椅子に座り直した。


ラーメンはすっかり冷め、麺は伸びきっている。

「温め直すわ」


立ち上がろうとする彼女の腕を、敏夫は強く引き留めた。

「いいんだ、そんなことは。……今晩は、すき焼きにしよう」

「すき焼き? なんで? お祝いすることなんて何もないじゃない」

律子は大げさに目を見開き、すっとんきょうな声をあげた。

「いいじゃないか。今夜は家族ですき焼きが食いたいんだ。すき焼きを食べながら、今夜、ゆっくり健一と話すよ。な?」

敏夫は律子の手をぎゅっと握った。この手を握るのは、一体何年ぶりだろう。薬指には、あの頃と同じシルバーの細い結婚指輪が光っている。


しばらく、自分の手を強く握りしめている健一の手を見た後で、

「そうね……健一、すき焼き、大好物だもの。元気を出してくれるわね」

そう言って、どんぶりを下げようとする律子を、敏夫は力任せに抱き寄せた。そして、麦茶の冷たさを纏った彼女の柔らかい唇を、自分の固い唇できつく塞いだ。



「あなた、準備ができたから健一を呼んできて」 台所から律子の声が響く。

返事がないのを不審に思った律子が居間に入ると、敏夫は縁側に腰を下ろし、物憂げに柿の苗木を見つめている。

「何やってるの? こんな寒いのに」

律子はぶるっと身を震わせながらも、敏夫の隣に腰を下ろした。


「いや、この苗木がさ、ちゃんと育つかなと思ってな。お前もさっき言ってただろ。こんな狭い庭に植えられて、ついてないって思ってるんじゃないかって」


敏夫は湯呑みの茶を飲み干した。律子はそっと敏夫の肩に腕を回し、背中にしがみつくようにして耳元で囁いた。


「大丈夫よ。私がちゃんと育てるから。狭い庭だけど、ここに植えられてよかったって思ってもらえるように。だから、あなたは何も心配しなくていいのよ」


敏夫はその細い腕を、壊さないように、けれどもう二度と離さないように強く握りしめた。

「……そうだな」


そうだ。俺たちは、今からすべてをやり直すことができる。また、幸せな未来に向かって走り出せるんだ。


するとその時、背後から無邪気な声がした。


「お父さんたち、どうしたの〜? そんなところで抱き合っちゃって、やらしいんだあ!」


健一がおどけた顔で笑い、小さな両手でハートの形を作って見せる。


「こらっ、大人をからかわないの!」


律子が笑いながら追いかけると、健一は子リスのように部屋の奥へと駆け抜けていった。敏夫はその光景を、ただただ立ち尽くして見つめていた。心の底から温かい泉が湧き上がり、全身が幸せの湯気で満たされていく。庭の柿の木までもが、俺たち家族を祝福してくれている。そんな錯覚を抱くほどに、敏夫の意識は甘美な泥沼へと沈み込んでいった。



「なあ、健一。野球は嫌いか」卵をかき混ぜながら、すき焼きが出来上がるのを待ちきれずに、半分椅子から腰を浮かしてそわそわしている健一に、敏夫は優しく声をかけた。


健一はびくっと身体を震わせ、卵を混ぜる手を止めて、うつむき黙り込む。


「そんなに嫌なら、やめてしまえばいい」

敏夫が笑って言うと、健一は驚いたように顔を上げた。


「えっ……いいの?」

「あなた、ちょっと、何言ってるの?」

肉と野菜がのってる大皿を持ってきた律子も、驚いて敏夫を見つめる。


「いいんだ、いいんだ。そんな嫌な奴らがいる場所に行く必要なんてないさ。お前にはもっと他に合う世界があるんだ。……そうだ、明日、父さんも仕事を休むから、みんなでディズニーランドへ行こう。約束したきり、行けてなかったもんな」


「やったー!」 健一が椅子から飛び上がっり、ガッツポーズをする。


「あなた、本当にどうしたのよ。今日のあなた、おかしいわ」半分呆れたように言う律子に、敏夫は晴れやかな顔で答えた。


「いいじゃないか。たまには贅沢しよう。健一があんなに喜んでいるんだ」


律子は、健一の不安げに律子の表情を伺う顔をしばらく見つめると、やがてふっと表情をほころばせた。

「そうね。そうよね。ちょっとくらい、贅沢しなくちゃね」


「やったー! お父さん、ありがとう!」 健一が珍しく、敏夫の背中に抱きついてきた。上気したすべすべの頬が触れた瞬間、敏夫の目尻から熱い涙が溢れ出した。


「ああ……なんて夜だ。俺は今、最高に幸せだよ」 涙ぐむ敏夫を見て、律子が微笑む。「本当に、今日のあなたは変ね」


律子は食器棚の上から、新築祝いでもらったカセットコンロを下ろし、テーブルの真ん中に置いた。


「はーい、準備完了! それではお父さん、点火をお願いします」 おどけた声で、律子がチャッカマンを敏夫に手渡す。それを受け取る敏夫を、健一はまるでヒーローを見るような敬愛の眼差しで見つめていた。


「よし。今、火をつけるからな。健一、今日はいっぱい食べるんだぞ」 敏夫は笑いながらカセットコンロのつまみを捻り、右手に持ったチャッカマンを差し出した。家族三人のカウントが揃う。


「イチ、ニィ、サンの……チャッカマン!」


その瞬間、爆風を伴う轟音とともに、猛烈なオレンジ色の炎が部屋を飲み込んだ。柱がひしゃげて崩れ落ち、天井からは灼熱の破片が降り注ぐ。だが燃え盛る火炎のただ中で、三人は何事もないかのように笑い転げ、楽しそうにすき焼きを食べ続けた。


「あはははは。あはははは。お父さん、美味しいね!」

「うん、美味しいな! もっと食え食え!」



するとどこからか、あの野良猫がふらりと現れた。猫は満足そうに喉を鳴らし、優美に背伸びをすると、煌々と燃え上がる炎の渦中へと飛び込んでいった。



8. エピローグ ―柿の木の下に眠るもう一つの「秘密」の正体―

「あ、お疲れ様です!」


現場に到着した中年の刑事に向かって、丸顔で体のフォルム全体がまん丸の若い刑事が、今にも転がりそうなボールのように小走りに寄ってきた。家半分が焼け落ち、煤で黒ずんだ廃屋。倒れかかった柿の木の手前には、黒いシートで包まれた遺体が二体、並んでいた。


「こりゃひでぇな。ゴミ屋敷か。火元は?」


頬のこけた、どこか陰鬱な面持ちの中年刑事が、険しい表情をさらに歪めて尋ねた。


「はい。どうやら『カセットコンロ』らしいです」


若い刑事は、遺体の傍らに置かれている煤けたコンロを指差しながら、中年刑事の顔を覗き込んだ。

「あれ? そのおでこ、どうしたんすか。でっかいタンコブ、できてますよ」


中年刑事は若い刑事の視界から逃げるように、顔をそむけた。

「ああ、ちょっと昨日、酔って帰って玄関でぶつけたんだよ」

言い訳がましい声はわずかに後ろめたく上ずったが、若い刑事がそんな小さな変化に気づくはずもなかった。


「気をつけてくださいよ。全く、酒飲みはこれだから……」

そう大袈裟に呆れた様子の若い刑事を、中年刑事は重苦しい咳払いをして、強引に話を遮った。


「で、火元……」

「あ、はいはい。先々週の現場と同じパターンっすね。古いコンロを久々に引っ張り出して、ガス漏れに気づかず引火、バーンって爆発。このゴミ屋敷のゴミに火が移って、あっという間に…。きっとそんなところでしょう。事件性はないですよ。こんな爺さんをどうかしようって、もの好きもいないだろうし。どうしてこんな古いもん、後生大事にとっておくんですかねえ」


若い刑事は、煤けたコンロの横にある、半分黒ずんだ「すき焼き鍋」に視線を落とした。


「ちなみに、これ空鍋っぽいっす」

「空鍋? ……仏さんは?」


中年刑事が、疲れた視線をシートの塊へと向けた。


「それが、ちょっと複雑でして。一体はこの家の主、天野敏夫、七十五歳。死因はおそらく一酸化炭素中毒でしょう。……で、問題はもう一体の方で」


若い刑事は、じらすように間を置いた。

「なんだ?」 その田舎芝居じみた勿体づけに、中年刑事はわずかに苛立ちを滲ませながら応じた。


「こっちは、だいぶ前に死んでいたようです。遺体というより、ほとんど白骨化していました。頭蓋骨が粉砕されていたんで、おそらく数ヶ月……いや、もっと前かな。そこに転がってるバットか何かでやられたんでしょう。おそらく同居人の息子、天野健一、四十五歳」



中年刑事の表情が、一瞬、翳った。若い刑事はその表情に気づかず、興奮気味に続ける。


「近所の婆さんの話だと、息子はずっと引きこもりで、滅多に姿を見せなかったそうです。ただ、時々暴れては親父さんに暴力を振るっていたらしくて。親父さん、よく顔に青アザを作って公園に座ってたらしいっすよ。でも、ある時から、ぱったり息子の気配が消えたらしくって。多分その頃に、親父さんが我慢の限界で殺っちゃったのかなあ。近所の連中も『何かあったんじゃないか』と噂してたみたいですけど、怖くて踏み込めなかったとか」


若い刑事は、大仰に首を振った。


「救いようがないっすよね。引きこもりの息子を殺して、死体と一緒に暮らし続けるなんて。悲惨すぎる。……あ、あと、ちょっと訳わかんないのが、田舎の病院に入りっぱなしの奥さんがいるはずなんですが、誰も詳細を知らないらしくて。身寄りもいないみたいだし。何十年も前に倒れてそれっきりだとか。今、そっちも洗ってます」


「……ふ〜ん。最後は、一人で寂しくか」

中年刑事が独り言のように呟くと、


「いえ、一人じゃないっす」と、若い刑事が得意げに制した。

「うん?」


若い刑事は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出すと、

「猫です」

まるで手柄でも立てたかのように、ふふん、と鼻を鳴らした。


「猫?」


「ええ。親父さん、猫をきつく抱きしめたまま離さないんです。死後硬直か、引き離そうとしてもビクともしないんすよ。そのシートの下で、猫と抱き合ってますよ。見ます?」


若い刑事はシートの端をめくろうとしたが、中年刑事は目を背け、


「……そうか、いや、あとでいい」

「気が滅入りますよね。分かりますよ。最後は猫と心中か。駆けつける親族もいないみたいだし、こんな終わり方、俺は絶対にご免ですよ」


若い刑事は大きく溜息をつくと、

「あ、鑑識が来た」と意気揚々と歩いて行った。



中年刑事は、今にも崩れ落ちそうな危うい均衡で立っている、黒くすすけた柿の木に歩み寄った。その痛々しい幹に、そっと掌を添える。

「柿の木か」

「へえ、実もないのによく分かりますね。しかしよく焼け残ったなあ。桃栗三年、柿八年……でしたっけ?」


戻ってきた若い刑事が、場にそぐわない軽口を叩いて、クックと笑った。


「俺の実家にもあったからな」

中年刑事の静かで暗い呟きが聞こえるわけもなく、若い刑事は喋り続けた。


「この木、親父さんが大切に育ててたらしいっすよ。昔はでっかい実をつけて、近所に配り歩いてたらしいです。でも、ここ数年はそれもすっかりなくなったらしくて。……あ、でも、近所の婆さんが言ってました。『あの家の柿は妙に生臭い匂いがして、とても食べられたもんじゃなかったから、迷惑だった』って。……はあ、本当に嫌な仕事納めだ」


と言うと、ポンポン、無造作にポンポンと、無造作に柿の木を叩いた。


その時だった。 メキメキと鈍い音を立て、柿の木が根元からゆっくりと倒れ込んだ。焼け焦げた根が土を跳ね上げ、その根の先には、泥にまみれた「何か」布切れのようなものが絡まっている。



「おい、骨だ! こっちの根元にも、骨が埋まってるぞ!」



緊張を孕んだ声が、冷え切った師走の空気を切り裂いた。現場の人間が一斉に木の根元へ集まっていく。中年刑事はそのまま動かず、ポケットに両手を突っ込んだまま、ただ静かに、煤けた空のすき焼き鍋と、二体の遺体をじっと疲れた目で見つめ続けていた。


0. 断章:夜明けのカラス ―三十年前の十一月、ある家族の崩壊―

ローンの重圧、長距離通勤のやり場のない疲労、同期に置いていかれる焦燥。そして、女々しく泣いてばかりいる虚弱体質の息子。働いても働いても、根こそぎ食いつぶしていく律子の入院費。


「みんなで俺の足を引っ張りやがって」この頃の敏夫は、終電を降りると、駅の向こうにある公園で、ひとりカップ酒をあおるのが日課だった。古びた街灯の下では、いつも二匹の蛾が季節を問わず、舞っていた。


「家で看病してやりたい」

と医者を説得し、律子を無理やり病院から連れ戻した。健一が無事に受験を終えれば、来年からは大学生だ。その学費を捻出するためには、こうするしかなかった。だが、自宅での看護は想像を絶した。次第に、暖房も満足につけない二階の薄暗い夫婦の寝室に、ただ呼吸を繰り返すだけの律子を放置する日々へとなっていった。床ずれのひどい万年床からは、常に湿り気を帯びた生臭い匂いが漂っていた。


その日もいつものように公園で酒をあおり、深夜二時近くに帰宅すると、酒の臭気と、泥沼の底へ引きずり込まれるような疲労感が、狭い玄関をまたたく間に埋めつくした。ドサっと崩れ倒れるように玄関に腰をつき、靴をかったるく脱いでいると、この陰気な家が、いつもとは違う類の「静寂」が支配していることを肌で感じた。


のそり、のそりと気が乗らない足取りで階段をのぼり、寝室を覗く。そこには、顔の上に枕を押し当てられたまま動かない律子と、制服姿でそのガリガリの体を抱きしめながら、添い寝をしている健一がいた。


「……父さん。僕、母さんを、もう、見ていられなかったよ」

健一は律子の首元に顔を埋めたまま、喉の奥から絞り出すような声で敏夫に告げた。小刻みに震えながら「自首する」とうわごとのように言い放つ息子を、敏夫はしばらくの間、無表情に見つめていた。


予期せぬものを見ているようでいて、どこかで分かりきっていた結末を無理やり突きつけられているような、奇妙な感覚だった。


不意に、敏夫の心の中に、経験したことのない怒りのマグマが湧き上がってきた。それは腹の底よりもさらに深い、身体のどこか底なしの穴から突き上げてくるものだった。


「自首だと……? ふざけるんじゃねえ!」


敏夫の怒声が、静まり返った家中に響き渡った。布団から引きずり出された健一は、人形のように力なく宙を舞い、そのまま床に叩きつけられた。


「俺を殺人犯の父親にする気か! 俺がどんな思いでここまでやってきたと思っている! お前も律子も、どいつもこいつも俺の足を引っ張りやがって! どうして……どうしてお前らは、何ひとつまともにできないんだ!」


床に尻餅をつき、恐怖に震えている健一の瞳から、最後の光が消えた。健一はそのまま、糸の切れたマリオネットのように、不恰好な大の字で仰向けに倒れると、そのままぴくりとも動かなくなった。


敏夫はふらつく足取りで庭に出ると、物置からシャベルを持ち出した。


ガリッ、ガリッ、霜の降りた土を削る音が、夜の静寂を切り裂くように響く。懐中電灯の細い光だけを頼りに、敏夫は一心不乱に柿の木の根元を掘り進めていた。この家に越してきて十年。律子が手塩にかけて育て、今ではこの狭い庭に不釣り合いなほど立派に枝を広げ、忌々しいほど偉そうに君臨するその木の隣を、ひたすら無我夢中に掘り続けた。


「大体、俺は柿なんて、大嫌いなんだよ!」


時々口に入ってくる土を吐き捨てては、土を掘り返す。俺がどれだけこいつらのために身を粉にしてきたと思っている。誰も彼もが、俺を馬鹿にしやがって。泥だらけのまま寝室に戻ると、健一の姿は消えていた。部屋には、顔に枕を被せられたままの律子が、物言わぬ肉塊となって転がっていた。


ドサ、ドサ。まだ温かみの残る妻の遺体をシーツでくるみ、階段を引きずり下ろす。ずるずると庭へ引きずり出し、深く、深く、掘った穴の底へ押し込んだ。


泥にまみれ、息を切らしながら敏夫は一心不乱に土を被せていく。その背中を、二階の暗い子供部屋の窓から、健一がじっと、電線で眠るカラスのように見つめていた。


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