何故…作詞家だったのか? ②
恐れ無き者の強さ
斯くの如く振る舞う
作詞家になるにはどうすればいいのでしょうか? 先ず何から始めれば良いのでしょうか? 必要なことは? ズブの素人が思い付いたこと、それは何より“良い詞”、“良いとされる詞”を書けること…だったと思います。
詩など小学校の授業で書いたか書かなかったか、ましてこの度は歌詞です。作文も最後に書いたのは中学生の頃? 考えても仕方のないことですが
多分、自然に特別何も考えていなかったはずです、あの当時の私だったら。
とにかくそれなりの数を書き溜めようと、向かった先は何故か銀座の伊東屋さんでした。まだPCもワープロもない当時(ある所にはあったのでしょうが…)、当たり前に原稿用紙に書くものだと思いこんでいた私は、「どうせなら作家らしく上質なものを」と、割りと高価な用紙を購入した覚えがあります。“先ずは形から”のスタイルは未だに変わっておりません。
音楽との付き合いは~
元々幼少期から音楽は好きだったとのこと。幼稚園に通う以前から、テレビの歌番組に出演する “ブルー・コメッツ” の「♬ブルー・シャトウ」や “パープル・シャドウズ” の「♬小さなスナック」に合わせて、玩具のギターを弾きながら唄ったらしく、それ以降も洋楽/邦楽のあらゆるジャンルを数だけは聴いておりました。歌詞については「♬レット・イット・ビー」やら「♬ホテルカルフォルニア」を辞書で訳しながら聴いたのも思い出です。そんな訳なのか? 歌の詞は“こんな感じ”という自分なりのツボを得ていたのかもしれません。今思えば、ロマンチックな表現等には結構反応していたと思います。
ただ…ただ書き続ける
「何となくこんな感じかなぁ?」で全てが進みました。その辺の記憶は意外にしっかりあるもので、一応形式も A-B-C-A'-B'-C'-B-C といった具合に整え、それっぽく字数を揃えたりしました。
その頃、両親の手前もありサラリーマンは嫌だと言いつつも、知人の紹介から某プロダクションでモデル/タレントのマネージメントをしておりました。一応正社員として。不慣れもあって結構なハードワークでしたが、社長がとても夢を理解して下さる方で(見た目派手派手なキラキラ女性社長でした…)、大変お世話になりながら空いた時間で書くという毎日が続きました。
書き始めると楽しいもので、〇〇アーティストに提供する詞とか、季節のイメージに分けて纏めたりとか、半ばハマれる趣味を見つけたような、そんな遊び感覚でやっていた気がします。世の詞にも関心は高まり、意識して色々参考にしたり、見方、読み方のセンサーも少しずつは精度を高めたのかもしれません。そして一年程が経過すると、重ねた原稿用紙は結構な厚みになっていました。振り返ると、一番楽しんで書けていたのはこの頃だったのだと思います。
さあ これをどうするか?~ やっぱ営業だな!
書いてるだけでは埒が明かない訳で、量もそこそこになったところ、これを何処か誰かに売り込まないとと考えました。先述のきっかけを下さったメーカーのディレクターさんにお見せした際に「マジでやったんだ? でもその単純さがいい結果を生む気がするよ」と言われた言葉の音が、今も鮮明に脳裏に残っています。
幾つか抜粋された作品をお預けし、ご新規の営業先を考えました。ここで何故か記憶が若干曖昧になるのですが、何方かから頂いた名刺のコピーを頼りに、その後私はそちらに電話をするのですが、そのコピーをどんなシチュエーションで、何方から頂いたのかを全く思い出せずにいます。それが何よりもどかしいのは、結果その連絡先にした一本の電話が、その後の私の運命を大きく変えることになったからです。ただどうしても思い出せないのです。その名刺のコピーにあったお名前は、当時のSMA(ソニー・ミュージック・アーティスト)社長でいらした若松宗雄氏でした。
駄目元のご連絡をするに先駆けした予習によれば、この方は松田聖子さんを育てられた元CBSソニー(現ソニー・ミュージック)の大物プロデューサーでいらした方とのこと。聖子さんとの出会いからそのエピソードが詳しく書かれていました。多少の緊張はあったものの、世間知らず、怖いもの知らずの若さが故の強さだったのでしょうか、躊躇のない私はお電話をした訳です。最初に出られた女性に「斯々然々」事情を伝えると、驚くほどあっさり御本人に繋がれました。とても穏やかな口調で「はい、若松ですが…」と電話口に元?大物プロデューサーの声を聞いたのです。これが全ての始まりでした。
また続きを書きます。
