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tomatokechap18
戦国の築城名人 山本勘助
この文章は、NHKラジオのラジオ深夜便での、歴史家の小和田哲夫先生の最新の研究の発言をもとに記事にしている。
甲陽軍鑑(武田信玄・勝頼のことを中心に述べている軍記)は、偽書であるというのが、定説で、甲陽軍鑑に出てくる山本勘助は、フィクションであるという風に言われていた。
ちなみに、山本勘助というのは、勘助51歳の時に、武田信玄に見いだされ、
信玄の軍師になったという人物。
小和田哲夫先生は、最近の研究によれば、北海道で文書が見つかり、山本勘助は、山本菅助と記されていたが、確かに実在した人物といわるている。
菅助は軍師というより、築城術の名人ということで、築城という技術者として
重宝されたらしい。
山本勘助は、通説によれば、武田信玄による上杉謙信との第四次川中島の戦いで、妻女山にこもる謙信の部隊を、武田軍を二手に分け、別動隊を妻女山の謙信をけしかけ、その下の八幡平の平野に降りてきた所を武田信玄本隊が、待ち構えるという、別名、キツツキ戦法を進言した。実際は、武田の別働隊の動きを察知した謙信が、分からないように、山から軍隊を移動させ、翌朝、武田信玄本隊に、車懸かりの陣で、襲いかかった。謙信軍は、信玄本隊に肉薄し、信玄本人にも傷を負わせ、武田家のナンバー2の武田信玄の弟、信繁を討ち取った。
山本勘助も責任を感じ、戦死した。
このキツツキ戦法の記述は、通説でいわれていたことで、小和田先生は、山本勘助は、武田信玄のもとで、海津城・小諸城を築城するなど、築城術を遺憾無く発揮したと言われていた。
甲陽軍鑑は全て信じるわけには、いかないが、かなりの真実を内包しているとの、小和田哲夫先生の見解でした。
