読書ノート『人生の短さについて 他2篇』(セネカ、光文社古典新訳文庫):その①
◆はじめに
今回は、光文社古典新訳文庫で出ている『人生の短さについて 他2篇』の読書ノートを書いていこうと思う。
本書は、古代ローマの哲学者・政治家であったセネカの代表的な作品を収録したものである。表題作の「人生の短さについて」には、岩波文庫版をはじめ複数の邦訳が存在するが、僕はとっつきやすさを優先し、光文社古典新訳文庫版で読むことにした(以下、本のタイトルを示す場合には『人生の短さについて』、作品そのものを指す場合には「人生の短さについて」と、括弧を使い分ける)。
この本を読んだのは、8月の上旬からお盆休みの前半にかけてのことである。以前からタイトルに魅かれていたので、この機会に読んでしまおうと思い立ったのだ。読み始める前、僕は本のタイトルから、人生の短さ・儚さを前に虚しさや悲しみを覚える読者を優しく包み込むような文章を想像していた。実際の内容は全く違うものだった。ただ、その内容には考えさせられるところがあったし、収録されている他の作品も心に残るものだった。そういうわけで、ちゃんとした読書ノートを書くことにしたのである。
以下では、本書に収録された3つの文章のうち、表題作である「人生の短さについて」、そして一番印象に残った作品である「母ヘルウィアへのなぐさめ」の2つを取り上げ、大まかな内容と感想を書いていくことにしよう。
※以下、文中に登場するページ番号は、セネカ(中澤務・訳)『人生の短さについて 他2篇』光文社古典新訳文庫、2017年に拠る。
◆1.「人生の短さについて」要約
「人生の短さについて」は、セネカがパウリヌスというローマの高官に宛てた書簡に、後年タイトルが付されたものである。その内容を大胆に要約すると、次のようになる。
多くの人が「人生が短い」と嘆いているが、それは誤りである。ひとの生は十分に長い。われわれ自身が人生を浪費しているのだ。財産を管理し倹約に励むのと同様に、時間を管理し大切に使わなければならない。すなわち、多忙に追われたり、物事を先に延ばしたりすることなく、全ての時間を自分のために生きることが肝心なのだ。
セネカは冒頭でいきなり、人生が短いと考えるのは誤りであり、われわれが人生を、たくさんの時間を浪費しているのだと言い切る(16~17頁)。そして浪費の例を次々に挙げる。貪欲にとり憑かれること、無益な仕事に精を出すこと、酒や怠惰に溺れること、他人の意見に振り回されること、偉い人のご機嫌伺いに明け暮れること、確固たる目的がなく移り気であること。セネカによれば、これらは全て浪費である。そして、浪費された時間はただ過ぎるのみであり、その間のわれわれは生きているとはいえないという(18~19頁)。
では、なぜわれわれは人生を浪費してしまうのか。セネカによれば、それは人々が「永遠に生きられるかのように生きているから」である(25頁)。自分が死すべき存在であることを忘れ、仕事を引退した後にまで自分のための時間を先延ばしにしているからである。しかし、ひとが長生きするという保証はない。よしんば長生きしたとしても、残されているのは生の終わりに向かっていく僅かな時間だけである。自分の人生を始めるのをそこまで遅らせようとすることを、セネカは「愚か」だと批判する(26頁)。
この後、何人かの権力者に関するエピソードを挟んで、セネカは多忙な人間について考察する。多忙な人間は「生きるということから最も遠く離れている」。それは「人々の群れが、彼らの人生から、たくさんの人生を奪い去って」いくからだ(37~38頁)。
ここでセネカが想定しているのは、大きな成功を収め、高い地位や名誉を手にした人々である。一般にそのような人々は幸せだと思われている。しかし、実際のところ、彼らは周りに集まってくる人々のために自らの時間をどんどん差し出すために、自分のための時間を手元に残すことができない。それゆえしばしば、「わたしは、生きることを許されていない」とさえ嘆くことになる(39頁)。
さらに後の部分で、セネカは多忙な人間についてより幅広く論じている。ご機嫌伺いばかりしている人や、いかがわしい利得のために懸命になる人、高価な品を買い回る人、身だしなみを整えることにあくせくしている人、ボードゲームや球技に興じている人、雑学の研究に熱中する人などを、セネカは批判している。
ここで注意しなくてはならないのは、セネカのいう「多忙な人間」の中には、いわゆる暇を持て余している人が含まれるということである。直感的には、暇を持て余すことは多忙の対極にあるように思える。しかし、セネカによれば、そのような人は「時間の使い方も潰し方もわからずに、狼狽しているにすぎない」。それゆえ、「彼らは一生懸命に用事を探す。そして、空いた時間はいつでも、退屈にあえいでいるのだ」(74頁)。
このような人はいろいろな楽しみに飛びつくものの、心に不安が根を下ろしているため、それを本当に楽しむことができず、空しい思いを味わうことになる。結局、彼らが堪能できる時間は極めて短くなる。そういうわけで、セネカは暇を持て余すことを「怠惰な多忙」と名付け、批判の対象に加えているのである(54頁)。
では、セネカの考える善い生き方とはどのようなものだろうか。端的に言えば、それは「自分の時間から、なにひとつ取り去られることを許さない」生き方であり、「自分の自由になる時間が長かろうが短かろうが、それをすべて自分のためだけに使う」生き方である(38頁)。多忙な人間が、擦り寄ってくる人々や擦り寄りたい人々、或いはただ退屈を紛らすための雑多な用事に易々と時間を差し出すのと違い、偉大な人物は自分の時間をけちに守り抜く。だからこそ人生を長く生きることができると、セネカはいう。
セネカはまた、未来をあてにすることなく「毎日を人生最後の日のようき生きる人」を称揚している(41頁)。既に触れたように、未来とは訪れることさえ不確かなものである。そんな未来に希望を託すのではなく、目の前のこの時を大切にすることが肝要だというわけだ。
もっとも、セネカは現在以上に過去を大切にしている。現在が短く、瞬く間に流れていくのに対し、過去は変わることも消え去ることもなく、確かに存在している。したがって、過去を見失うことなく、過去と共に生きてゆけば、われわれの人生には豊かな時間が積み上げられるというのである(48~50頁)。とりわけセネカが重視するのは、過去の哲人たちに学び、英知を求めることである。儚く移ろう時間から離れ、永遠にとどまり続ける過去の世界で、われわれ以上に偉大な人々と向き合う。それによって、われわれは多くの財産と幸福を手にすることができるからである(66~68頁)。
◆2.「人生の短さについて」感想
本文の追跡が思った以上に長くなってしまった。そろそろ感想に移るとしよう。
読書ノートの冒頭でも触れたように、「人生の短さについて」を読み始めるまで、僕はこのタイトルから、人生の短さ・儚さを前に虚しさや悲しさを感じる読者を静かに抱き支えるような文章を想像していた。しかし、ここまでの記述からも明らかなように、実際の文章は全く異なるものであった。悲しみに暮れる読者を優しく包み込むどころか、人生の短さを嘆き愚痴をこぼす読者を厳しく叱咤するようなものであった。予想と現実のギャップがこれほどまでに大きいにもかかわらず、打ちのめされずに読み切ることができたのは、よくよく考えれば奇跡的な出来事である。
そのような奇跡が起こったのは、ひとえに、この作品の主張に強く共感したからであろう。〈物事を先延ばしにせず、全ての時間を自分のために生きよ〉というセネカのメッセージに、僕は首がもげそうになるほど頷いた。そしてまた、〈暇を持て余して闇雲に楽しみを求めるような生き方は、虚しいものと知れ〉というメッセージは、今の自分の在り方を深く反省するきっかけになった。
ここ数年、毎日が味気ない、単調で面白くないということを何度も口にしてきた。その度に、僕は面白いものを求めて、行ったことのない場所に出掛けたり、頻繁に名前を聞く作家の本を手に取ったり、新しい趣味を開拓しようとしたりしてきた。
そうして出会ったものの中に、印象深いものがあったことは確かである。しかし、面白いものに巡り会うことより、「期待していたほどじゃないな」と思うことの方が多かったのも事実である。それを試行錯誤の過程と前向きに捉えることもできるかもしれない。だが僕は、成否を綿密に分析し、成功確率を上げるようなことはしなかった。むしろ、経験が無駄になるのを恐れて、その底に巣食う虚しさに蓋をし、偽りの充実感の上に居座り続けた。そして、また虚しさに囚われ、当たっては砕けるというのを繰り返してきた。
それはちょうど、セネカのいう「怠惰な多忙」に相当する振舞いだったのだと思う。暇を持て余してうろたえ、時間が過ぎ去ることを不安に思い、何とか用事や楽しみを作って人生を満たそうとした。それでいて、自分が本当は何を求めているのか、十分に顧みることはなかった。だから結局、自分の時間を手放すことになってしまったのだ。
また、僕は自分がやりたいと思うことを先延ばしにする傾向があった。正直に言うと、今でもある。その背景にあるのは、やりたいことを実際にやってしまうことで、夢や希望が見られなくなることへの怖れである。期待を胸に抱いたまま、肝心なことを何一つとしてなさないという半端さが、今の僕を形作っている。そして、そんな自分の奥底に、自分の人生はこれからもずっと続くという安易な想定があることに、今までの僕は無自覚だった。
怠惰な多忙に身をやつすことなく、また物事を先延ばしにすることなく、自分の時間を大切にせよと、セネカは述べる。それは、僕が密かに渇望していたメッセージだったのではないかと、これを書きながら改めて思った。
ただし、同時に思うのだが、本当の意味で自分の時間を生きるのはとても難しいことである。要約の中では十分に触れることができなかったが、セネカは自分の時間を生きるためには、「確固たる目的」(18頁)、「確固たるいしずえ」(77頁)が必要だと述べている。だが、色んな楽しみに移り気になることからさえ自由になれるほどの確固たるものを、どうやったら見つけ出せるのだろう。
思えば、セネカはこの点について何も述べていない。彼の中では、過去の哲人に学び英知を求めることが、確固たる目的/確固たるいしずえになるのだろうが、人の生きる目的を知の探究に限る必要はないだろう。ただ、そうやって選択の幅を広げた時に、自分の目指す道をどうやって見つければよいのかは、「人生の短さについて」からは読み取れない。
僕自身の話をすれば、幸いなことに、セネカの知を求める姿勢に多少なりとも共感できるところがあった。もとより、「人生の短さについて」を手に取ったお盆休みの頃には、骨太の本を読んで考えたことを文章にまとめようという思いが強くなっていた。だから、自分が考えたいテーマを見つけ、知識を吸収しながら考えることを、あっさりと自分の指針に据えることができた。ただ、それは単なる偶然にすぎない。
このように解決しきれない問題はあるものの、退屈に打ち負かされていろいろな用事や娯楽を詰め込む生き方や、楽しみを先延ばしにするような生き方を反省するきっかけが得られるだけでも、「人生の短さについて」は意義深い作品ではないかと思う。
折角なのでもう少し議論の射程を広げておこう。今の社会を顧みると、人生を雑多な用事で埋め尽くすように仕向ける仕掛けがあちこちにちりばめられているように、僕には感じられる。街を歩けば、種々の看板や広告、店先に並べられた商品が、「あれが欲しい」「これが気になる」という僕らの欲望を搔き立てる。家に戻っても、テレビやインターネットが、バラエティーやドラマ、アニメや音楽、スポーツや雑学など様々なコンテンツを揃え、僕らを誘惑する。たまたまついていたテレビ番組を眺めていたがきっかけでテレビの前に居座ったり、とりあえずチェックした動画がきっかけで何時間もネットサーフィンをした経験は、誰もが一度は持っているだろう。
また、人生の充実度を予定の多寡で測る考え方が広まっているような印象も受ける。この考え方を受け容れると、特に予定がないことが不安や焦りの種になる。そして、ややもすれば、予定を埋めるためだけに用事を作り出すことになる。
一方にはささやかな欲望を惹起する種々の仕掛けがあり、他方には予定の多さを充実度の尺度にする見方がある。こうした様々な要因により、僕らは人生の中に雑多な用事を埋め込んでしまう。
物事を先延ばしにする傾向についても、考えておく必要があるだろう。僕の場合、それは楽しみを後にとっておきたいという性分に由来していたが、先延ばしの要因はこうした性格的なものに限らない。
しばしば指摘されることであるが、今の社会の中では、良い仕事に就くために勉学に励むことが奨められ、良い老後を迎えるために仕事に精を出すことが求められる。良い老後を迎えるためには良い家庭を築くことも大切になるだろう。この時、人生の各段階は次のステップのための準備期間と位置付けられる。言い換えると、現在は未来において目的を達成するための手段になる。目的の実現は未来に先送りされ、現在はそれ自体の意味を失う。もちろんこれは些かオーバーな表現だが、それでも現代社会の中に、或いはその中にいる僕らの生き方の中に、このような側面があることは確かだろう。
このようにしてみると、多忙な人間や物事を先延ばしにする人間に対するセネカの批判は、現代においても十分通用するように僕には思われる。むしろ、今こそその批判に耳を傾けることに、意味があるように思えてならない。
◆思いがけない”中書き”
「人生の短さについて」の読書ノートを書き進めてきた。本文をじっくり辿ったり、自分自身がこの作品から受け取ったメッセージを見つめ直したりしていた結果、時間も文字数も思った以上に費やしてしまった。当初の予定では、今ごろ「母ヘルウィアへのなぐさめ」の読書ノートまで書き終わり、『人生の短さについて 他2篇』全体のノートが完成しているはずだったのだが。——毎度のことながら、やれやれという気持ちである。
これ以上長くするのは気が引けるので、ここで一旦記事を区切って、「母ヘルウィアへのなぐさめ」の読書ノートは別で書くことにしよう。
(第245回 2024.09.19)
