遠い日の送り火(幻想小説)
《シリーズ恵那・第一篇》
いつも傍(そば)にいて、ただ、父親が娘を見守るかのように佇む故郷(ふるさと)の山——鳥海山。
視えてしまう——それは、好まざるものであっても、他人の想いの形を知ってしまうということ。
麻上恵那はその「不思議なちから」を持って生まれた。
———
2025年……猛暑の夏、彼女は、夜の街——Club Literacy(クラブ・リテラシー)——で働きながら、人々——おっさんだけど——の心にある熱き情念の「残像」と向き合い続ける。
涼やかな「あい風」がそよぐお盆の午後の日、彼女が触れたものは……。
——いま、むさくるしくも、哀しくも美しい、おっさんたちの、もとい、お姉さんたちの深淵な物語が始まる。
そして、おっさんたちの、さほど美しくもない物語も、ついでに始まる。
お姉さんたちから仄かに漂う、バンテリンのメンソールの残り香——おっさんたちの、しつこくも空しい、魂から迸るほどの熱き想いは、叶わないけれども癒やされてゆく。
——Club Literacyへようこそ。
——いま、おっさんたちの、過ぎた日の青春の扉も、ちょびっと開かれる……ついでに。
———
あい風——東北地方の日本海側に春から夏にかけて北東から吹く風——万葉集で東風と書かれる「あゆかぜ」が語源とされる。
——豊漁などの幸せを運ぶ風。
———
主人公・麻上恵那が登場するシリーズとして不定期で展開する予定です。
———
———
第一章 白い稜線
どこかで母の啜り泣く声がしていた。
早く傍に行って声をかけなければと思ったが、声が出ない。
行かなければとの気持ちばかりが急いて、気づけば同じところに戻っていて辿り着かない。
目の前に白くなだらかな山の稜線が見えるところに……。
——夢だった。
うなされて目が覚めた。
まだ午前零時前だ。
武蔵境駅の近くにある、ひとりで暮らすマンションの部屋だった。
——大学時代からずっと住んでいた。
時折、見る夢だった。
目が覚めると、ほとんどが記憶から消えており、白い稜線が見える悲しい夢だったという印象しかない。
……
麻上恵那(あさがみえな)は、今年、二十九歳になる。
長い髪がどこか憂いを帯びた佇まいに似合っていた。
他人(ひと)からは、男性からも、女性からも綺麗だとよく言われる。
女性らしい身体つきだとも……。
……
恵那は、いま、昼は武蔵小金井駅の近くにある、こぢんまりとした不動産会社で営業事務の仕事をし、夜は吉祥寺にあるClubで働いている。
七月に入ったばかりのこの夜——今日は昼の仕事も、夜の仕事も休みであったため、夕方から部屋でゆっくりしていた。
夏の陽射しも激しかった日で、駅前にある大型スーパーで買い物をして部屋に戻った。
喉の渇きのせいで缶ビールを飲み、夕食を取ってベッドに横になっていたら眠ってしまい、いつもの夢を見たようだ。
雪国育ちのせいか、オリオンビールに憧れがあった。
……
洗面台の前に立ちながら、鏡を覗きこんだ。
図らずも睡眠を取ったせいか、幾分スッキリした自分の顔が映る。
ただ、その白い首筋から左肩にかけて、男性の顔が浮かんでいるのが視えた。
古典的な言い方なら「取り憑いていた」とも言えるだろう。
——夜の仕事で見知っているお客様だった——ここに映ったのは、初めての方だった。
まだ薄ぼんやりとしたものであったが、確かに視えた。
彼女には、それが誰であるかは、わかった。
……
恵那の顔の方を向いていた。
強い好意のような執着を寄せているらしかった。
心あたりはあった。
今日初めて映った方は、ここ二カ月間くらい、週一回ほど来店されており、さかんに恵那に「一緒に食事に行こう」と誘ってきていた。
——ただ、このごろ、この方からは、香水とは違う——メンソール系の香りが微かに漂っていた。
大切なお客様ではあった。
ただ、いつも「昼の仕事が忙しくて……」と言い訳をして、やんわりと逃れていた。
——「えーっ! ボク、さびちー」と泣いている振りもしていた。
普段、どの女の子にも「自分は体育会系です」と自慢されている方だった——お店では駄々っ子だった。
ご自身が勤めている会社では、社長さんの次くらいに偉い方のようではあったが……。
……
実際、女の子の方からではなく、知り合って間もないお客様から食事に誘われたときの兼ね合いの取り方は難しかった。
恵那に限らず、女の子たちには、どうしても「怖い」という思いも付きまとっていた。
……
鏡に映る光景は、驚くというよりは、もう、見慣れてはいた。
気をつけないと……と思うよりも……数が増えた。
どっと疲れた。
現代風(いまふう)の言葉で言えば、「視覚的情報の過多による疲労や諦念」とでも言うのだろう。
いま鏡に新しく映るようになったお客様以外にも、恵那への執拗な想い——を放つお客様が何名かいる。
濃淡の違いこそあれ、恵那の肩や首筋の後ろあたりには、いま、べったりと複数の男性客の顔が浮かんでいた。
……
敢えて自宅の鏡でまで、見たくはない光景ではあった。
ただ、恵那にとって、夜の仕事のお客様が放つ、こうした執着のような情念は、比較的容易に予測可能だった——そうした人たちが示す言葉や行動と、鏡に映る、恵那の肩あたりに視える、その人たちの顔や表情から窺える情念は、おそろしく見事に一致していた。
——「裏表がない」というか、「裏こそが表そのもの」というか……その意味で潔いというか、恥も外聞もないというか……なりふり構わないというか……。
——ある意味、そうした感情が飛び交う処で働いているのだからと諦めのような気持ちでいられた。
恵那にとって、不意打ちや奇襲をされるよりも、事前に戦闘配置につくことができた。
「即時発進・迎撃可能な臨戦態勢」に入れる第一種戦闘配置とか……米軍なら防衛準備態勢「デフコン1」という最高警戒態勢を取れた。
……
そのことよりも、時折、見てしまう夢の方が、恵那の気持ちを沈ませていた。
理由はわかっていた——幼いころから、これまで、決して離れて逝かない悲しい光景だった。
ずっと、会いたいと思い続けていた——あの日だって、朝からずっと楽しみにして待っていた……。
でも、帰って来ることはなかった……あの日からずっと……。
——いま、ほんの少しでも、その温もりに触れたり、言葉を交わせたら、何かが変わるかもしれないと思った——でも、叶わなぬ願いだった。ないものねだりだった。
……
「Club Literacy」(クラブ・リテラシー)
——恵那が一年ほど前から、周りには内緒でキャバ嬢として働いている、吉祥寺の西鉄通り沿いにある店だ。
ほぼレギュラーだ。
ただ、「リテラシー」という店名には少し笑ってしまった——ひと言で言えば、「理解力や読解力」という意味だろう。
ときどき、どうして、そのような店名にしたのか、その意味を考えることはある——変わっていらっしゃるお客様というか、個性的なお客様に出会ったときなどだ。
きっと、キャストの女の子たちだけではなく、お客様も含めて、上品なお店を目指しているんだろう、と思うことにした。
……
今日のような悲しい夢を見た夜、恵那は強い好意を抱いている、遥か年上と思われるあの人に、思わず、長文のLINEを幾つか送ってしまう。
今夜も、そうしてしまった。
あの人は、必ず、恵那が送った数と同じか、少し多い数の返信をくれた。
繊細な言葉の選び方や使い方も、好きだった。
時折、あの人が静かにかけてくれる——「色んな想いが混じって、それが綺麗なんだよね」「ずっと傍(そば)にいるはずだよ……」——との言葉は、いつも、ぽっかりと凍えた心の雪に陽をあててくれるようだった。
あの人からは、いつも微かに、爽やかな透明感ともいうような、よい香りがした。
……
夜、このお店で働くようにならなければ、あの人と出会うことはなかった。
あの人に会ったのも、ここで働き始め、少し慣れてきた夏の終わりころだった——まったくの偶然だった。
きっと、あの人はそこまでは憶えていないだろう。
恵那ははっきり憶えていた——昨年2024年の八月二十二日だった。
……
ふと、ひとりで東京に出て来た日の光景が浮かんだ。
あの日、故郷(ふるさと)である海沿いの街の駅では、母と妹、そして幼いころから父親代わりのように親身になってくれた伯父夫婦が見送ってくれた。
三月の終わりころの、大学に入学するための上京だった。
……
心細さで涙が溢れていた。
母も、妹も、義伯母もみな涙ぐんでいた。
在来線の特急列車で新潟まで行き、そこから上越新幹線に乗る。
流れる車窓から、いつまでも、故郷の街並みや白い稜線が続く山々を見ていた。
——もう十年近くも昔のことになっていた。
———
第二章 視えてしまうもの
恵那は、東京の私立大学法学部を卒業し、新宿区内に本店がある、不動産の売買や仲介、賃貸の仲介をしている大手の不動産会社に就職し、営業事務をしていた。
この会社に就職して二年目のときだった。
恵那は宅地建物取引士試験を受験することを目指した。
試験は十月だった。
実際、大学時代よりも勉強をした。
特に民法が難しいと思った。
「権利関係」という試験分野だった。
……
そんなとき、会社の方で営業職や営業事務職向けに、外部講師を招き「宅建試験受験のための集中講義」を開催してくれた。
恵那も受講した。
講義は業務終了後の夜間に社内の会議室で行われた。
——疲れてはいたが、一度も休むことなく出席した。
……
講義がわかりやすかった。
大学時代にここまで理解させてくれる授業はなかった。
民法第百七十七条のことは、この講義を聴いて初めて理解できた。
恵那が持つ「不思議なちから」との折り合いを付けさせてくれる気がした。
……
不動産——土地や建物のことだ——に関する権利の優劣についての民法の規定だった。
講師の先生は理解させてくれた——目に視えない権利を持つことと、それを人に言えることの違いを。
たとえ権利を持っていても、登記という外形がない以上、他者との関係では、権利はないものとして扱われるときがある——「消極的信頼を保護する」という言葉だった。
——視えないものは「ない」と信じてよいということだ。
……
時として「登記がない以上、権利もないもの」として扱われる。
——視えないもの——たとえ、それが不動産の権利と呼ばれる価値のあるものですら——それを示す登記という外形がない以上、ないとして扱ってよい……。
ここが好きだった。
心が救われる気がした——恵那には「どんなに気持ちが楽になれるだろう」と感じられた。
このように徹底的に割り切ってしまうことができたならば……。
……
この冷徹な論理を実感できたとき、自分が専門家に近づけたようで、嬉しく感じられた。
学んで理解して知識を身に付けることが、とても楽しく感じられた。
他の科目は本当に易しく捉えることができ、暗記さえできれば、覚えさえすれば、大丈夫と感じた。
試験には一回で合格した。
その年の十一月、公式サイトで自分の受験番号を見つけたときには、涙が流れてきた。
……
権利は決して目には視えない——ある意味、好意や執着、嫉妬や憎悪といった人の想いや情念とまったく同じだった。
人の想いや情念も、決して目に視えるものではない。
——ただ、片鱗がその人の言葉や行動という外形に顕れていれば、まだ窺い知ることはできる。
でも、言葉や行動といった外形にはまったく顕れず、ただ心の中だけに、想いが秘められ、情念が渦巻いているとき……。
普通の人なら、「知らない」「気づかない」で済ませられるだろう。
……
しかし、恵那には、普通の人が言葉や行動から推し測る以上に、他人の好意や執着、嫉妬や憎しみといった情念が視えた。
——そうした情念が向けられた相手の肩や首筋のあたりに、その人の顔が浮かんでいるのが視えるという形で……。
……
このため、恵那には「言葉や行動といった外形がないからといって、ないとして扱う」ことができなかった。
そのような割り切った決めつけができなかった。
そうしよう、そうしようと努力はしてきた。
……
他人の情念であれば、恵那に向けられたものも視えた——鏡に映る自分の肩や首筋の後ろあたりに、相手の顔が視えた。
不動産に関する権利の扱いでの冷徹さが羨ましかったし、どこか、心が落ち着き、救われるようで惹かれた。
言葉や行動といった外形がない以上、「ない」と割り切って、気にせずともいいんだ、という気持ちを、強く後押ししてくれているようだった。
……
逆に、恵那自身の想いや感情——自分自身の想いや感情——は、彼女にはどうしても視ることができなかった。
むしろ、自分の想いや感情の形こそ知りたいのに、視ることができなかった。まったく視えなかった。
そこには、普通の空間があるだけだった。
そして、母や妹といった、濃い血縁関係にある女性の想いも、恵那には視えなかった。
母や妹の顔が、鏡の中の恵那に視えたことはなかった。
父親のような濃い血縁関係にある男性の想いがどうなのかは、幼いころに父を亡くしており、恵那にはわからなかった。
……
その年、試験は三十名あまりの社員が受験していた。
——合格者は五名に過ぎず、女性の合格者は恵那だけだった。
社内での合格者としては最も若かった。
そこからが忙しくなった。
会社が実務経験を積ませるため、さまざまな、不動産に関する契約場面に立ち会うことが多くなった。
営業事務というより、ほぼ営業職になってしまったが、仕事が面白かったし、知識や経験も積め、何よりも充実していた。
不動産取引に関する知識や経験——土地や建物を売ったり、買ったりする際の価額に影響する事情、土地を貸す賃料額を幾らにするかに関する事情——などが、不動産鑑定士といった専門家には及ぶべくもないが、自然と身に付いていった。
……
ただ、二十七歳のとき、体調を崩して退職した。
夜遅くまでの激務と、社内で発生したある出来事の片鱗を視たことでの精神的な摩耗による過労だった。
いっとき、酷く心配した母が上京して、看病というか、世話をやいてくれた。
……
若くして、宅地建物取引士試験に合格していただけではなく、二年以上も大手の不動産会社での数多(あまた)の生の実務経験を積み、宅地建物取引士の資格まで持っていたことから、再就職先はすぐに見つかった。
いま、勤めている武蔵小金井駅近くの会社だった。
新宿区内の不動産会社での出来事から、あまり大勢の人がいない、こじんまりとした職場を選んだ。
ここは残業などはほぼなかったが、以前の会社よりも給料が低くなるため、夜の仕事を始めた。
———
第三章 おっさんの想いも飛び交って
夜の仕事をするかどうかは悩んだ。
あのとき、大学時代からの女友達にも会って相談した。
新宿駅西口の地下街にあるカフェで待ち合わせをした。
親友の子だった。
……
彼女も夜をしていた。
——経験も長かった。六本木のお店で働いていた。
「恵那なら高級店でも採用されるわよ」と言われもした。
……
彼女からは、
「送りの車はあるけれど、送りの待ち時間もあるから、往き帰りの時間も考えなさい」
「翌日の昼の仕事のことも考えるのよ」
「中央線なんだから、自宅近くの駅とは絶対に違う駅にあるお店にしなさい」
「なるべく高級店と呼ばれている店がいいわよ」とも言われた。
面接には、ドレスやヒールとかを用意して行った方が良いとも言われた。
ドレスには流行があるようで、「SUGAR」というサイトを教えてもらった。
……
スカウトという方法が一般的なようだったが、なんとなく怖かったので、彼女が名前を挙げていたお店のひとつに、ホームページから応募することにした。
別れ際、彼女が笑いながら言った。
——「あんたって、昔から勘は鋭いのに、少し天然なところがあるから……ヌーブラは忘れないようにしなさいよ」
まるで、姉のようだった。
……
お店から「開店前に面接をしたいので午後六時に来てください」とのメールがあり、日を決めて出向いた。
お店がある吉祥寺駅北側の「西鉄通り」と呼ばれる歓楽街の通りは、道行く人は男性も多かったが、綺麗な女性の姿もかなり目立った——学生時代や新宿区内の不動産会社に勤務していたころには、まったく訪れたこともない通りだった。
……
店長との面接だった——年齢の割には少し髪の長い「和田さん」という男性の方だった。
——「キャストとして採用したいので、良かったら今日、体験で働いてみない」と言われた。
ドレスやヒールやバッグは、既に用意して持参していた——いわゆる体験入店をした。
自宅で試着はしていたが、こうした場で着るのは初めてだった。
ヌーブラが必須であることは、すぐにわかった。
……
人前で初めて着たドレス——濃いチャコールグレーのレース生地のセットアップドレス——は胸や腰のラインがはっきり出るもので、正直、気恥ずかしかった。
このドレスに、散りばめられた銀色のラメが燦めくヒールの高いパンプスを合わせていた。
長い髪は、女性のヘアメイクさんがセットをしてくれた。
化粧室で、鏡に映る自分の姿を見たときは、思わず
(えっ……あたし?)
と思ってしまった。
店内を歩くとき、お客様の幾つもの視線が注がれていることを感じた。
ただ、一時間も経つころには、そうしたドレス姿にも慣れてきた。
……
体験入店では、他の女の子を指名しているお客様の中で、多くは感じが良く、女の子たちからも人気のあるお客様の席へ「ヘルプ」という形で付けられる。
年上と思われるお姉さんも多かったが、みな感じが良く、「こうするのよ」と言いながら丁寧に教えてくれた。
お客様のグラスの周りについた水滴をさりげなくハンカチで拭き取り、
乾杯のときは自分のグラスをお客様のグラスより下に掲げ、
席から離れるときは御礼の言葉を告げながら低い位置でグラスを掲げお客様とグラスを合わせるなどだ。
——合コンや職場の飲み会などでは決して見られない、プロとしての所作だった。
ただ、お姉さんたちの肩や首筋の後ろには、濃淡の違いこそあれ、どの方にも、男性の顔が視えた。
このことが、恵那に妙な安心感を抱かせた。
女性の職場という感覚を持つようになった。
……
お客様も比較的年配の方が多かった。
きっと、父が生きていれば同年代くらいなんだろうと思えた。
——父は恵那が五歳のときに交通事故で亡くなっていた。
仕事からの帰り、実家近くの交差点で信号を無視したトラックにはねられたものだった。
妹は二歳ほどで、まだ、毎夜、自宅で寝転がっている父の身体によじ登るのが楽しくて仕方がなかったころだった。
いつも、朝、父は玄関先まで妹を抱きかかえ、妹を見送る母に渡し、帰宅すると最初に恵那を抱きかかえてくれていた。
あの日の朝も、普段と同じように、母と妹の三人で父を見送った——夕方になれば帰って来て両手で抱きかかえてくれると信じて——そのときが最期だった。
……
あの遠い日、葬儀と思われる席で、棺に縋って泣き崩れる母と一緒に、彼女も妹を抱きしめながら泣いていた光景が、形を変えながらも心から離れて逝くことはなかった。
毎夜のように、カタコトの言葉で父を捜し求めていた妹の声が離れたことはなかった。
……
体験入店をした日の夜遅く、店長から呼ばれ、空いている席で「どう?」と聞かれた。
他のお店に行って同じような体験入店をするのもしんどいし、お客様も落ち着いた感じの方が多く、何よりも他の女の子たちがどの子も感じが良かった。
ここで働くことを決めた——Club Literacyだった。
——源氏名は、体験入店で名乗った「えな」にした。
……
幸運もあったのだろうが、比較的順調に売り上げを伸ばせた。
地元の不動産会社関係のお客様も多く、これまでの知識もかなり役に立った。
お客様どうしがする不動産関係の話題——多くは話題となっている土地が幾らで売れるのかということだった。
——こうした話にも、決して出過ぎることなどなく、話を聴き理解し、グラスに付いた水滴を拭き取りながら、さりげなく「時価額の出し方って難しいんですね」などの相槌を打てた。
———
第四章 視えないもの
恵那に限らず、働いている女の子たちは、みな、ドレスを脱いで着替えれば、普通の女性だった。
心には、普通の女性として扱われたいという強い気持ちがあった。
どの女の子も、異性と接する機会は、昼の仕事よりも、圧倒的に夜の方が多かった。
このこともあってか、夜の仕事でも、女の子の方が真剣に好きになってしまうこともあった。
ただ、恵那は、大学生のころからできる限り、そうした感情に陥らないように心を砕いてきた——この視えてしまう「ちから」のせいだった。
……
そんなときだった——あの人に会ったのは。
昨年の八月終わりころの夜だった。
あの人はかなり年上だったが、好意以上の感情を抱いてしまっている。
彼女自身も気づいていた。
……
不意だった。
あの人が自然に放っている、他のお客様にはまったくない雰囲気としか言えなかった。
年上の男性が持つ色気だけでなく、他のお客様とはまったく異質の雰囲気を纏っていた。
あの人自身はこうしたお店の経験はなかったようで、初めて会ったときも、仕事の関係での知り合いにほぼ無理矢理に連れて来られた感じだった。
かといって、感じは悪くなく、気さくに会話にも応じてくれた。
あの人の隣にいると、いつの間にか、恵那の方が癒されている感覚に陥っていた。
礼儀と感じたのか、あの人はすぐに恵那を指名してくれた。
……
ご本人が意識しているとも思えなかった。
何よりも、すべてのことに気づいていながら、口にしない繊細さを併せ持っているように感じられた。
幼いころに触れたことがある、どこか懐かしい優しさのような不思議な感覚だった。
——思わず、LINEを交換してもらっていた。
ただ、これまで、恵那の左肩にも右肩にも、あの人の顔が視えたことはなかった。
最初は、何も視えないことの不思議さに戸惑った。
自分の姿を鏡で見たとき、自分の肩のあたりや、首筋の後ろにあの人の顔を探したが、どこにもなかった——視えなかった。
こうしたことは、これまで経験したことがなかった。
……
あの人はヘルプで付く他の女の子たちからも人気があった——あの人の隣に付きたいという子が多かった。
——いわば、女の子たちからの逆指名のような感じだった。
でも、だからと言って、そうした子たちの肩あたりに、あの人の顔が視えることはなかった。
……
何も視えないことと、実際に接しているときにあの人から感じられる繊細な優しさとの食い違いというか、違和感には、何か別の理由があるのではないかと思うようになった。
しだいに、その違和感は、たとえあの人の顔が自分の肩や首筋の後ろあたりに何も視えなくとも、そこには、別の何かがあるのかもしれないと感じさせた——温かい別の何かが……。
……
あの人と一緒にいるとき、心から笑っていたり、ついつい安心して自分自身のことを話している自分がいた。
——故郷の山のことも、幼いころに父を亡くしたことも、そして時折見てしまう白い稜線の夢のことも……。
あるとき、ただ、ひとり、あの人だけには本名を告げていた——あの人だけには、どうしても普通の女性として見て欲しかった。
……
七月に入ったばかりの——昼の仕事も、夜の仕事も休みの——この夜、恵那はあの人を思いながら、再びベッドに身を横たえた。
いつの間にか心地良い眠りに落ちていた。
———
第五章 抗い得ないもの
七月も終わろうかという日の夕方だった。
恵那は昼の勤務を終え、武蔵小金井駅から上りの中央線・快速列車——東京行き——に揺られ、入り口の扉近くに立ったままガラス窓に少し身体を預け、遠ざかる外の景色を見ていた。
猛暑の日が続いていた。
東北生まれの恵那には、東京の猛暑には、なかなか慣れることができなかった。
……
西の彼方には、沈み逝く夕陽が、薄い光を浴びせてひときわ高い山——富士山——の稜線をオレンジ色に染め上げていた。
ふと、夜の店で、セミロングの髪形の似合う美しい女性のピアニストの先生——亜希子先生だ——が、よくグランドピアノの生演奏で弾いている曲が耳に浮かんだ。
お店の女の子たちからも、好かれている先生だ。
恵那も、亜希子先生が好きだった。
そのピアノの旋律は、東京から遥か遠く離れている故郷の四季ごとに変わる山々の景色や、母と妹の三人で生きてきた日々を想い起こさせた。
……
恵那の故郷は、山形県の酒田市だった。
庄内北部の海沿いの港街だ。
——涼やかな夏の風が欅の葉を揺らし、木漏れ日が三角形の屋根に揺れている雰囲気の街だった。
日本海からの汐の香りが漂い、北には、いつも鳥海山が静かに佇んでいる。
この山のなだらかな左右非対称の稜線が美しく感じられた。
幼いころから高校を卒業して東京に出てくるまで、どんなときも、ここで起きた事柄のどこかには必ずこの山があった。
恵那は、ここが好きだった。
……
故郷の実家には母と妹がいる。
もともとは父の生家である。
母の生家も同じ市内にあり、いまは母の実兄である伯父家族が住んでいる。
幼いころに父を亡くしたことだけではないと思っているが、伯父も義伯母も、当時はまだ生きていた祖母も、恵那や妹にはほんとうによくしてくれた。
伯父は小学校や中学校の授業参観に来てくれたり、家族で運動会にも来てくれ、母と一緒に恵那の高校の卒業式にも出席してくれた。
妹に対してもそうだった。
恵那も、妹も、伯父のことを幼いころから好きだった。
……
恵那の「視えてしまう不思議な能力」は、母と妹にも共通するものだった。
ただ、彼女には決して欲しくはないものでもあった。
……
恵那がその不思議な能力の片鱗らしきものに初めて触れたのは、彼女が小学校六年生で、妹が小学校三年生だったときのことだ。
祖母の通夜の席での出来事だった。
通夜は母の実家でもある伯父の家で行われた。
棺の置かれた祭壇には、線香が焚かれ、菊の供花や供え物の果物が飾られていた。
その中に蜜柑があった。
この辺りの風習なのか、いくつもの蜜柑を盆に月見団子のように盛って飾ってあった。
通夜が始まる直前、菩提寺の住職がすでにお見えになっており、祭壇の前で伯父らと静かに言葉を交わしていた。
母は故人の娘であるため、祭壇に向かって右側の前方の席に座り俯いていた。
恵那と妹は、母の後ろに座るはずだった。
その席へ進もうとしたとき、妹が足を止めた。
彼女は空いている席をじっと見つめ、そこから動こうとはしなかった。
妹が小さな声で恵那に囁いた。
——「その席は座っちゃだめ。誰かはわからないけれど、年をとった女の人が座っている……」
祭壇の香立に立てられていた線香の煙が、風もないのにゆるやかに横に流れた。
戸惑って立ちつくす恵那たちを追い越して、伯父の家の同い年ほどの従兄弟がふたり、その席に座った。
悪気があったものではなかった。
その瞬間(とき)だった。
月見団子のように盛られていた蜜柑が、音もなく崩れた。
一番上の蜜柑がひとつ落ちたのではない。
積まれた蜜柑全体が、ゆっくりと崩れた。
……
その場にいた誰もが立ち上がり、不思議な光景に息を呑んだ。
住職ですら、驚きを隠しきれない様子だった。
ただ、母だけは、崩れた蜜柑とはまったく別の方向を見つめていた。
そして、静かに一度、目を閉じ、手を合わせて頭を下げていた。
義伯母がさりげなく蜜柑を置き直し、通夜が始まった。
恵那と妹は少し離れた席に座り、通夜に参列した。
……
小一時間ほどでお焼香の客も途切れ、住職と親族らで、別室の通夜膳を囲み、後を伯父夫婦に任せて、その夜は家族で帰宅した。
母が妹に言った。
——「視えちゃったのね……」
母は言葉を続けた。
——「あれはね、おばあちゃんのお母さんが迎えに来てたのよ」
「おばあちゃんにも、視えたの」
「女にだけね……」
……
この日、母は「実はね……」と初めて口にした。
祖母の母方の家系の女性は、代々この辺りで「イチコ」(市子)と呼ばれ、死んだ人と話したり、占いのようなことをしていた。
曾祖母の代まで続いていたが、いまは、それも途絶えていた。
ただ、その後も、このような不思議な能力——亡くなった人を自身に憑依させたり、或いは霊のようなものを視るちから——だけは、その女系だけに細々と引き継がれていた。
……
祖母の通夜のときは、恵那には、まだ、薄ぼんやりとした影のような気配しか感じられなかった。
嫌な感じがしなかったので、錯覚かもしれないとも思っていた。
ただ、母と妹には通夜の席にいた曽祖母の姿がはっきり視えたのであろう。
恵那に何かがはっきりと視えてしまったのは、大学三年生のときだった。
———
第六章 昼も同じようなもんだった
大学二年終わりの春休み、数日、恵那は酒田に帰っていた。
鳥海山はまだ二合目辺りから上は多くを雪に覆われ、晴れた青い空の中に佇んでいた。
……
恵那が、妹と同じように、人の形をはっきり視えてしまったのは、大学三年生の春も終わりのころだった。
それは、同じゼミ仲間の男の子の左肩あたりに視えた。
その男の子の肩あたりに視えたのは、髪の長い女の子の顔の半分ほどだった。
もう半分は彼の首筋や頭の陰に隠れている感じだった。
恵那にはすぐに誰であるかがわかった。
同じゼミに所属している、三か月ほど前まで彼と付き合っていた、恵那の友人の女の子だ。
ただ、別れを切り出したのは彼女の方だと、ゼミ仲間の噂で聞いていた。
その彼女が、生き霊のように彼に付くなんてあるのだろうか——そう思いながらも、恵那は男の子の左肩あたりを改めて見つめた。
彼の方は、恵那の視線に気づき、少し戸惑ったようだった。
視えた。
間違いなく、あの子だった。
……
このところ、彼女はどこか上の空で、ゼミのときも落ち着きがなかった。
この日は姿を見かけなかった。
気になって、その夜、恵那はLINEで「今日、大学で見かけなかったけど、大丈夫?」と送った。
既読はついたが、返信はなかった。
……
午前零時を回り、ベッドに横になろうとしたとき、突然、LINE電話の着信音が鳴った。
彼女からだった。
電話に出ると、泣き声が聞こえた。
「どうしたの?」と尋ねた。
しゃくり上げながら、彼女が話し出した。
——憧れていたサークルの先輩に交際を申し込まれて嬉しくなり、思わず、彼に別れを告げてしまった。
でも、その先輩が四年生の女性とも付き合っていることを知ってしまった。
どうしていいかわからず、彼に謝って相談しようかと迷っていた。
ただ、三日ほど前、大学で彼が同じサークルの二年生の女の子と腕を組んで歩いているのを見てしまった——。
どちらも軽率な先輩と後輩だと思い、恵那は呆れたが、黙って聞いていた。
言葉の返しようがなかった。
ただ、その先輩の男性には腹立たしさを感じた。
それでも、ゼミ仲間である男の子の首筋の後ろに視えた女の子が、彼女だったことだけは確信できた。
……
高校時代の古文で読んだ、『源氏物語』に登場する六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)という高貴な美しい未亡人の物語が思い出された——彼女の「光る君」への想いが生き霊となって、彼の若い妻である「葵の上」や「夕顔」に祟って殺してしまう物語だった。
しかも、亡くなった後も、死霊にまでなって別の女性も——あれは、たちが悪かった。
ゼミは週一回だが、会う度に、彼の首筋から肩あたりに半分ほどを覗かせている女友達の顔や色合いは、はっきりと濃く視えるようになっていった。
表情までもだった。
ただ、彼女の姿を大学で見かけなくなった。
サークルにも顔を出していないとのことだった。
大人数の講義の最中、突然泣き出したり、留処なく喋り続けることがあって、いまは大学を休んでいると聞いた。
LINEを入れたが、既読も付かなかった。
……
ここからだった。
このことが恵那の大学生活や、やがて職場での人間関係にまで影響してきたのは。
視えてしまうとは、「人の、人に対する情念」を知ってしまう、窺えてしまうということだ。
——すべてではないが、他人の情念にまつわる事柄を、高い確度で知ってしまう。
それは、他人が放つ情念であれば、恵那自身のことでも同じだった。
大学生のときも、新宿区内の不動産会社に就職してからもそうだった。
……
元彼女との別れ話が拗れているにもかかわらず、誰とも付き合っている女性がいないかのような素振りで恵那に言い寄ってくる先輩もいた。
——首筋から左肩あたりに、恨んだ表情の知り合いの先輩女性の、半分ほどの顔を付けながら……。
交際にしても、似たようなことはあった。
最初は仲良く続いていても、鏡に映る自分の姿の後ろに、薄ぼんやりとでも交際相手の顔がうかがえなくなると不安になった。
気持ちが薄れたのかとか、何の想いも抱いてもらえていないのかと落ち込んだり、悩んだりした。
却って、自分の方から、交際相手との距離を取り出し、やがて終わってしまう。
——まるで、傷つくのが怖く、自分から壊しに行ってるようでもあった。
……
そして、やはり、自分自身の想いや感情の形を視ることはできなかった。
——交際相手のことを好きで、強く悩んでいるはずなのに、交際相手の肩のどこにも、自分の顔は視えなかった——自分自身を視ることはできなかった。
このことが、最初のころは、自分自身の気持ちなど、この程度のものなんだとも思わせた。
いったい、何のためにこんな「ちから」を持ってしまったのだろうと呪った。
……
新宿区内の不動産会社に勤務していたときだった。
——意外な人物が、意外な人物と交際していたということもあった。
男女のどちらも、恵那にとって、仕事上ごく身近な存在だった。
男性は恵那の直属上司で、営業部の第一課長であり、女性は恵那よりも一年後輩の、恵那と同じ第一課所属の営業事務職員だった。
男性の方は結婚していた。
……
夜遅くまで、みなで残業をしていた日だった。
社内の女性用化粧室で化粧を直していたとき、隣にその後輩女性が立ち、彼女の姿が鏡に映った。
ふと鏡に映る彼女を見ると、後輩女性の首筋の後ろあたりに、彼女よりも年上と思える、見知らぬ女性の半分ほどの顔が視えた——憎しみを湛えたような表情だった。
ただ、そのときは「何かあるのかな」と思う程度で、さほど気にも留めなかった。
……
翌週ころの夕方、営業部第一課の会議があった。
——各営業担当者が担当している案件の進捗状況を報告したり、ディスカッションをする場だった。
会議の議長は、担当地域ごとに分かれている三名の各係長が順番で担当していた。
当然、恵那たち、営業事務職員も会議に出席する。
ただ、会議にはあの後輩女性の姿はなかった。
急な体調不良で有給休暇を取得しているらしかった。
第一課長である男性は聞き役やアドバイザー役であったが、妙に落ち着きがなかった。
報告されている案件を取り違えたり、事案の内容を混同しており、上の空の雰囲気だった。
そのらしくなさを訝しく思った恵那が、第一課長を見た。
第一課長の首筋から左肩あたりに、半分ほどの、あの後輩女性の顔が視えた。
(げぇっ、嘘でしょ……)
思わず、声が漏れそうになった。
慌てて、手で自分の口を押さえたほどだった。
——それは、恵那が大学三年生のとき、ゼミ仲間の男の子の肩あたりに浮かんでいた友人女性の表情とまったく同じものだった。
……
不倫だった。
見間違いではなかった。
あのとき、後輩女性の後ろに視えた——取り憑いていた——女性は第一課長の奥様だったと瞬時に察した。
仕事で信頼していた二人でもあり、ショックだった。
……
あまりにも場にそぐわない、予測もしていなかった展開に神経がすり減った。
誰かに相談することもできなかった。
その後、後輩女性は有給休暇を使い切って退職し、第一課長は急に関連会社に転籍になって職場から消えた。
……
しばらくしてから、社内で秘かに、でも大きく噂が流れた。
ふたりは長く不倫関係にあり、あの会議があったころ、第一課長の奥様が営業部長に相談したらしかった。
——しかも、噂には「第一課長は絶倫だった」という尾鰭(おひれ)まで付いていた。
「いったい、そんなことまで、本人たち以外で誰が知っているんだ」という極めて冷静なツッコミというか、噂まで流れていた。
どうも尾鰭を付けた噂を流したのは、隣の第二課長らしいというオマケまで付いていた。
その後、しばらく、営業部第一課は社内で「絶倫一課」とか「絶倫一家」と呼ばれ、この話は「絶倫一課事件」とか「絶倫一家事件」として、陰で多くの社員に親しまれ、社内で面白可笑しく、社内娯楽として、長く語り継がれていた。
(……上手いことを言う……)
この事態に焦ったのか、第二課長は「自分が言ったのは、尾鰭の方だけだ」という謎の言い訳をしていた。
――あまりにも、小物感が拭いきれなかった。
(正気か……)
課長職にもあろう者がと思った。
そのうち、第二課長はどこか地方の支店に異動になった。
……
結局、蓋を開ければ、昼も、夜も、大差はなかった——というよりも、夜よりも泥沼のようでさえあった。
恵那も「大丈夫か、この会社」とまでは思わないようにした。
営業部第一課に所属する女性社員の幾人かが退職や異動を申し出ていた——「一課離散」とか「一家離散」と呼ばれた。
(……またしても、上手い言われようだった)
恵那も、退職申し出をしたひとりだった。
……
人や人の言葉が信じられなくなっていた。
つい、喋っている人の首筋から肩のあたりばかりを凝視していた。
こんなの視えなくていいと思った。
……
恋愛にも臆病になっていった。
——ただ、普通の女の子と同じような恋愛だってしたかった。
安心して人を好きになりたかった。
……
絶倫一課事件のときもそうだったが、女性の首筋の後ろや肩に、別の女性の顔が覗いているのはよく視た。
こうした場合の多くは、恨みや嫉妬のような憎悪を伴う嫌な感じだった。
まさに、六条御息所のようなものだろうと思った。
……
中央線・快速列車の東京行きは、武蔵境駅に滑るように流れ込みながら、静かに停止した。
列車の扉が開く。
降りる人々の最後に続きながら、ホームに出た。
とたんに、もわっとする蒸し暑さに襲われた。
———
第七章 情念もエレガントに舞って
八月に入ったある夜——連日の猛暑は続いていた——夜遅くになっても外は酷く暑かった。
熱気で湿った吉祥寺の東の空には、暑い空気で輪郭が滲んだ十三夜ほどの月がぼんやり浮かんでいた。
そのせいもあって、店内の冷房は全開という感じで効いていた。
女の子たちが着るドレスはいずれも薄着で露出も多く、肌寒い感じすらした。
……
店内には、亜希子先生が弾く、悲しい雰囲気のピアノ曲の調べが流れている。
——確か……『パリは燃えているか』という曲だった。
連綿と繰り返されてきた、愚かしいとさえ言える、人の苦難の歴史をなぞるような印象の曲だった。
あるとき、亜希子先生が弾く、この曲が流れていたとき、あの人がふと教えてくれた曲だ。
あの人も好きな曲らしかった。
そのこともあって、恵那もYouTubeで聴いてみた。
惹き込まれていた——父を亡くし、幼いころから、母と妹の三人で送ってきた長い日々が想い出された。
恵那は、亜希子先生に、この曲が好きなことを告げた。
亜希子先生は、微笑みながら、嬉しそうに頷いていた。
そのときからだった。
亜希子先生は、恵那がお店にいるときは、よくこの曲を弾いてくれていた。
この曲が流れると、恵那は故郷で過ごしてきた日々が想い出され、あの人が傍にいるように感じられた。
ただ、あの人がなぜこの曲が好きで、あのとき、さりげなく、恵那にこの曲を教えてくれたのかはわからなかった。
いつか、あの人に聞いてみようと思っていた。
亜希子先生が奏でる悲しげなピアノの旋律に泣いているかのように、シャンデリアの白い光が揺れていた。
……
「お客様、ご来店です」
店内にエスコート係の黒服の声が響く。
他のお客様の相手をしている女の子たちを除き、待機席と呼ばれる席に座っている女の子らは全員が席から立ち、入店してくるお客様に一礼する。
たまに男性のお客様に連れられて女性のお客様もお見えになることはあるが、ほとんどが男性のお客様だ。
今日も、とても人気がある三十代はじめの綺麗なお姉さん——ゆうりさん——のお客様が、おひとりでお見えになった。
ゆうりさんは、恵那が手持ち無沙汰にしているときは、自分のお客様の席にさりげなく呼んでくれたりもした。
このとき、ゆうりさんは、他に指名してくれているお客様二人の相手をしており、指名のお客様が三人被ったことになる。
……
こうなると、ゆうりさんは、指名してくれているお客様一人につき、約五分交代で、三つの席を行ったり来たりしなければならない。
男性たち——おじ様たち——を惹きつけて止まない端正な微笑みを湛えながら席を離れ、次の席に移るまでの待機位置に静かに佇み、細い手首を軽く反らせ左腕の肘を内側に折って、さりげなく腕時計を覗く。
——その立ち居振る舞いは、忙しなさをまったく感じさせず、妖艶でもあり、却って人目を惹いた。
……
ゆうりさんのお客様は、どの方も、いつもどこか深刻そうだ。
ゆうりさんが隣にいても、あまり話そうとしない。
下を向いたり、電子タバコを吸ったり、思い悩んだ様子をしていることが多い。
ひと言で言えば、思い詰めている様子だ。
……
ゆうりさんは、気づかぬ風を装いながら、目の前の別の席に座っている、他の女の子を指名しているお客様を見たりしている。
だいたい、女の子たちは、自分を指名しているお客様かどうかに関わらず、お店に見えるお客様をすべて、さりげなく見ている。
見えない位置にいない限りは。
……
そうした深刻そうなお客様は、ゆうりさんが席を外し、恵那たちがヘルプで横に付いても、飲み物こそ勧めてくれるが、あまり会話は弾まない。
心ここにあらずという感じだ。
恵那は、ゆうりさんに好意以上の感情——彼女をどうにかしたいという強い執着——を抱いているのだろうと見ている。
……
実際、こうした日のゆうりさんの細い首筋から華奢な肩には、三人の男性の顔が視える——取り憑いていると言っていいだろう。
それ以上の人数のときもあるが……六条御息所は美しい女性だったが、ここでは明らかに男性——おじ様——だった。
互いに知らない方どうしのはずなのに、せめぎ合う感じだった。
ちょうど、朝の満員電車の中で、おじ様どうしが偶然に空いたひとつの席を巡って、言い争ってトラブルになっているような感じだった。
牧歌的だった平安の世とは異なり、現代では生き霊たちも競争が激しいのであろう。
……
閉店になり、更衣室に入った。
先に、ゆうりさんが着替えていた。
恵那も、ゆうりさんも、どちらからともなく「お疲れ様」と口にしていた。
ふたりは、「送りの車」の方向が同じだった。
傍で、ゆうりさんが「肩が酷く凝っちゃっていて……」と言いながら、首筋あたりから肩にかけてバンテリンを塗っている。
メンソールの爽快な香りが、更衣室に流れていた。
その香りだけで、疲れが和らぐようでもあった。
その美しい端正な横顔には、明らかに疲労の翳りが滲んでいた。
……
不意に、ゆうりさんから「肩甲骨の間あたりにバンテリンを塗ってほしい」と頼まれた。
凝る原因は、とてもよく理解できた。
(あれだけ男たちが揃って本気なら……)
とまでは口にしなかった。
……
恵那はゆうりさんの白い肌にバンテリンを滑らせながら、それとなく「塩風呂が効くみたいですよ」と告げた。
彼女は、思わず、目を輝かせ、真顔になって
「そうなの?」
「どのくらいお塩を入れるの?」
「アジシオでもいいの?」
などと聞き返してきた——その表情が無邪気でもあり、同性の恵那にも可愛らしく魅力的だった。
あれだと調味料っぽいし、天然塩の方が……とは、彼女の天然さが可愛らし過ぎて、このときはまだ口にすることができなかった。
……
恵那は、こうした肩凝りをもたらす情念を抱いている男性のお客様を、秘かに「六条御息所くん」と呼んでいる。
確か、源氏物語では、美しい女性が睡眠中に生き霊になっていた。
何かの物語としては、「女性の生き霊」の方が何となく妖艶な美しさが漂う——圧倒的に絵になる。
ただ、ここでは男性が覚醒中に生き霊を発生させていた——あの紫式部も間違えたのかもしれない、とは思わなかった。
むしろ、それだと——おじ様だと——とても美しい絵などにならないことに、彼女も気づいていたのだろう。
——きっと、紫式部も「おじ様が生き霊になる物語など、誰が読みたいと思うのだろうか」と考えたのだろう。
現代においては、生き霊のダウングレード感は否めなかった。
……
紫式部も「おじ様の生き霊」なんて、むさくるしい印象を否めなかったのだろう——千年以上も前の平安の昔から……。
流石の感性だ。
やはり、経験を積まれた男性——おじ様——は、生き霊になるのではなく、これを退治する役割こそが相応しいと考えたのだろう。
あの修験者や僧侶たちみたいに……。
――平安の昔も、おじ様——おっさん——に対する社会的要求の度合いは高かったのだろう。
千年以上も昔から、男女のバランス感覚は変わらないんだと思った。
……
最近、恵那も肩が酷く凝る。
こうした仕事である以上、仕方がないと、半ば受け入れている。
誰が六条御息所くんであるのかも、わかっている。
お風呂で、少し高いけれど、ヒマラヤ岩塩——濃いピンク色の石塊だった——の欠片を肩のあたりに擦り込んだり、これを入れた湯船に疲れた身体をゆっくり沈めた。
——鏡の中に映っている、肩あたりに視える顔は、どれも、心なしか色褪せたようだった。
……
お風呂上がりにバンテリンも塗った。
おじ様たちの切なくも熱い想いは、強いメンソールの香りに明らかに戸惑っているようだった。
ただ、ひとりだけ、恍惚とした表情を浮かべている方がいた。
——ほんの一瞬、見知らぬどこかの変態なのかもとの思いが過ぎった。
よく視ると、先月から左肩に映りはじめた、メンソールの微かな匂いを漂わせていた、あの元体育会系のお客様だった。
どうもメンソールの香りに耐性ができてしまったようだった。
……
そう言えば、あのお客様——おじ様——は、このごろ、軽いぎっくり腰になって腰に湿布薬を貼っているとのことで、メンソールの匂いを漂わせていた。
——ただ、「腰の痛みを押してまで、何もそこまでしてまで」という一途なひたむきさというか、健気さというか……安静にしていた方が……。
ある意味、半ば呆れながらも、感心の気持ちを禁じ得なかった。
まるで、昔、流行っていたと聴く、青春学園ドラマのようだった。
——「飛び出せ!ナントカ」とか「われらナントカ!」とか。
きっと、かつて高校生だった彼らがひたむきに打ち込んでいたサッカーやラグビーが、現代(いま)は、こうした夜の街なのかも知れなかった。
チームのため、痛みをこらえ、鎮痛剤を打ちながらも、試合に出場するとでも言うような……。
ただ、ここにはソロでの来店であり、チームメイトがいるわけでもなかったが……。自分のためだった。
昔、こうした高校生の学園ドラマがあったことは、あの人が教えてくれた——よく、登場人物たちが太陽に向かって走ったりしていたそうだ。
恵那もYouTubeで観てみた——昭和だった。むやみに熱かった。
そして、高校生のはずの彼らは妙に老けて見えた。
いまは西陽に向かって走っている感じが否めず、どこか、やりきれなさも感じた。
——父が生きていれば、もしかしたら同じように走っていたのかも知れないと考えた……。
———
第八章 あい風のそよぐとき
八月のお盆の時季、恵那は昼の仕事の夏休みを利用して、夜の仕事を休み、酒田に帰省した。
昼の仕事は普通の夏休みだが、夜のお店はこの時季も営業している。
普段、レギュラーの女の子たちは、店休日以外はなかなか休みを取りにくい。
それもあって、レギュラーの女の子たちは、お盆の時季、帰省をしたりするため休みを取る。
……
あの人には酒田に帰省することをLINEで知らせていた。
「気をつけて、行ってらっしゃい。お父さん、首を長くして待っていると思います。大好きな山がよく見えるといいね」という短い返信が入っていた。
これまで、LINEでとはいえ、心を許している人に見送られながら、酒田に帰ったことはなかった。
東京にも戻る処があるんだという想いを抱かせた。
視えない空間にある何かを、気づかせてくれているようだった。
心なしか、故郷の風の匂いや季節ごとに色合いを見せる山々の細やかな変化にも気づけるような気がした。
……
鳥海山は——夏の陽に反射し、透明感のある青い空のなか、頂上近くに白い夏雲の欠片を浮かべ、五合目あたりまでをエメラルドグリーンに輝く草木に覆われ、そこから上は少し赤みが入った茶色の山肌を見せ、白い筋状になった根雪をところどころに残しながら——佇んでいた。
北東から流れる涼しげな風が、欅の葉を静かに揺らしていた。
……
実家の仏間には、父のためのお盆のお棚が祀られていた。
真菰の新しい匂いがした。
鬼灯が吊るされ、桃や葡萄などのお供えの果物が置かれていた。
胡瓜と茄子の馬や牛も並んでいる。
母と妹で迎え火は済ませていた。
……
昼間、母から「ゆっくりしていなさい」と言われ、ひとりで留守番をしていた。
午後——ひとり、盆棚の前に座った。
ろうそくに火を灯し、三本のお線香に火を移し、手であおいで火を消し、香炉の灰に立てた。
薄く白い煙りが微かに立ちのぼり、白檀の香りが漂った。
りんを一度鳴らし、手を合わせ、目を閉じた。
ここにいることが懐かしく、幼かったころの日々が想い起こされた。
若々しい真菰の匂いと樹々に包まれているような白檀の香りが、すぐ傍に父がいる、どこか懐かしい空気感や匂いを感じさせた。
……
傍で父が微笑みながら、床に寝転がって幼い妹と遊んでおり、父の身体に妹が戯れながらよじ登ろうとしている、幼いころに、よく目にしていた光景が、妙に鮮やかに映った。
恵那は思わず声をかけた。
——「お父さん……」
そのときだった。
恵那の声を聞き届け、それに応えるかのように、冷房が効いている部屋の空気が流れ、恵那の髪を優しく撫でた。
……
風はいつまでも、恵那の髪を揺らしていた。
あの日以来、父の体温を初めて感じられたようで、彼女の目からはとめどもなく涙が溢れていた。
部屋の中で、この地方に春から夏にかけて幸せをもたらすとされる、あい風がそよいだようだった。
長い歳月に渡って不憫な思いをさせ、いま美しく成長した娘を、父が詫びながら慈しんでいるようだった。
幼かった恵那を、父が両手で高く抱き上げてくれたような心地だった。
――いつも、夕方、仕事から帰宅すると真っ先にしてくれていたことだった。
あの日、してあげられなかったことを謝りながら……。
恵那は、力強く温かい父の手に安心しきって、ただただ、キャッキャッと笑っていただけだった。
……
明日の夜は、送り火を焚く。
遠い日——幼かったあの日——から、母と妹の三人で、決して途切れることなどなく、ずっと続けてきたことだった。
恵那は、あの人の、恵那への繊細さが、父親が娘に接する優しさと似ていると思った。
自らの気持ちなどではない、相手だけを慮る優しさだった。
後で、あの人に鳥海山の写真をLINEで送ろうと思った。
あの人にも見てもらいたかった。
……
夜、祖母らのお棚を祀っている伯父の家に、母や妹と一緒に出向いた。
伯父の家で、みなで食事をした。
義伯母が作ったお煮染めは、幼いころから口にしていた祖母や母が作った味と一緒だった。
そのことが言葉にはならない郷愁を抱かせ、胸が一杯になった。
「恵那ちゃんも飲めるべ」と言って、伯父がお酒を勧めてくれ、恵那もグラスのビールを口にしていた。
伯父は、焼酎の水割りを、ちびちびやっていた。
グラスの表面に、水滴がつき始めている。
気になって仕方がない。
母も、義伯母も、妹も、楽しげに会話をしているだけだ。
従兄弟たちも、まるで気に留めている様子もなく、ビールを飲んでいた。
まあ、当たり前だろうけど。
……
そもそも、ご本人が気にしておらず、嬉しそうに飲んでいた。
伯父の嬉しそうな表情が、幼いころに見た、微かな記憶に残る父の笑顔に重なった。
思わず、ハンカチを取り出して、伯父のグラスの水滴を拭き取った。
伯父が感動して、「東京だど、やること、えれえ、ちがうもんだな」と、庄内弁丸出しで、心底から感心していた。
(いやいや、そこまで感心されなくても……)
グラスの水滴を見ると、つい拭いてしまう、職業的条件反射行動なのだが、と恵那は微笑むような苦笑いをした。
ただ、幾つもの視えない風に、自分が囲まれていることを感じていた。
……
伯父と母が、亡くなった祖母——母や伯父の母だった——の昔話をしていた。
ふと思い出したように、少し酔った伯父が、幼いころに、一度だけ、祖母から聴いたという、曾祖母の話を語りだした——庄内弁でだった。
……
もう、太平洋戦争前の話だった。
医療もさほど進んでおらず、東北地方の気候は厳しく、貧しい寒村での乳児や幼い子どもの死亡率が高かった時代であった。
今なら容易に助かる疾病でも、当時は、命に関わった。
——曾祖母は評判のイチコで、ある日、この辺りで「下の家」(したのや)という屋号で呼ばれていた家の、曾祖母よりも少し若い女性が曾祖母の元を訪ねて来た。
当時、祖母は尋常小学校に入学したくらいの年齢だったそうだ。
……
その女性は、極く最近、尋常小学校に入学したばかりの幼い娘を病気で亡くしたばかりだった。
祖母もよく知っている娘だった。
——下の家のミエちゃんという子だった。
……
あるとき、幼い娘は、腹痛を訴え出したが、治まらず、医師も往診したが、首を傾げるばかりで原因がわからなかった。
痛みは激しくなるばかりで、しだいに娘の下腹部が酷く膨れ上がりだした。
ここに至り、幾度か往診していた医師もようやく虫垂炎の破裂によって腹膜炎を併発しているとわかったようだったが、もはや遅く、幼い娘は痛みで苦しみながら息を引き取った。
……
その女性は、娘のことが諦め切れず、曾祖母に「娘に会いたい」と頼んできた。
その場には祖母もいた。
曾祖母が亡くなった娘の霊を呼び寄せた(ということだった)——口寄せという。
次の瞬間(とき)、曾祖母の口が開き、
——「母ちゃん……もうお腹は痛くないよ……母ちゃん……泣かないで……」
祖母は、曾祖母が発した言葉よりも、曾祖母の口から出た声が、亡くなった娘とまったく同じであったことに愕然とした。
その女性は、わあと泣き崩れながら、娘に
「母ちゃんが悪かった……気づかなくて……母ちゃんが悪かった……」
と、繰り返し、繰り返し、詫びていたという。
……
その場にいる誰もが、伯父の話に引き込まれていた。
恵那だけではなく、義伯母も、母も、妹も、その目には涙を浮かべていた。
義伯母が相槌を打つように
「あなたと結婚したころ……お義母さん、ミエちゃんという子の話、あたしにも、一度だけしてたわ……」
「ほんとうに不思議だったって言いながら……」
と口にした。
義伯母が何気なく静かに呟いた。
——「きっと、ずっと……遺された人を癒してきたのね……不思議なちからで……」
「悔やんでも、悔やんでも……どうにもできなかった人たちを……」
……
義伯母の呟きに、母は、父を亡くした日々を重ねたかのようで、思わず「お義姉さん……」と言いながら、その目からはらはらと涙を溢れさせていた。
傍では、伯父が、涙を流す実の妹を気遣うような眼差しで、静かに水割りをちびちび飲んでいた。
……
恵那は、義伯母が呟いた言葉に涙が止まらなかった。
伯父の家で、トイレを借りた。
トイレは、玄関へ続く廊下の脇にあり、扉の横に洗面台があった。
手を洗いながら、ふと顔を見上げた。
鏡の中には、涙で目元を腫らしながらも、お酒も入って寛いでいる自分の顔が映っていた。
ただ、その首筋から左肩の後ろに、笑う女の半分ほどの顔が視えた。
(……えっ……誰っ?)
(なぜ、女の人が……)
一瞬、背筋が凍りついた。
かつての絶倫一課事件の記憶が過ぎった。
絶倫一家事件とも呼ばれていた。
あの、一家離散にまでなった「一課」だった。
……
思わず振り返ると、そこには、とめどなく涙を流していた姪を気遣った義伯母が、手拭き用のタオルを持って、優しく微笑みながら立っていた。
———
エピローグ
あの日、父の温もりに触れたようで、胸の奥に、優しい風が広がった。
もしかしたら、父も、あちらで、西陽に向かって楽しそうに走っているのかもしれない。
義伯母の言葉が浮かんだ。
——「きっと、ずっと……遺された人を癒してきたのね……不思議なちからで……」
遺された人々の心を救っていた……誰にも、どうすることもできない悲しいことを……。
恵那は、初めて、心の中の根雪がゆっくりと溶け出すのを感じた。
……
東京に戻った数日後のことだった。
夜も遅く、もう少しで午前零時になろうかという時刻だった。
何の前触れもなく、あの人が来店した——だいたい、いつも、あの人はこうした訪れ方をする。
帰りがけ、不意にあの人から白い小箱を手渡された。
……亜希子先生が弾く、あの曲が流れていた……。
ピアノを弾きながら、亜希子先生は恵那に向かって優しく微笑み、静かに頷いていた。
……
仕事を終え、自宅に戻って小箱を開けた。
そこには、真鍮製の金具が付き、ゆるい弧を描く長方形の樹脂製の飾り板部分に、黒地にエメラルドグリーンや薄い赤色、白色でマーブル模様——複数の色が複雑に混じり合いながらも、決して色を変えずに渦や筋状になった模様——が描かれたバレッタ(髪飾り)が静かに置かれていた。
——綺麗という言葉では、とても形容し難かった。
その色合いは、恵那が抱え続けてきた気持ちや想いを、ありのままに、でも美しく描き直しているようで、この夏に見た鳥海山を想い起こさせた。
——八月二十二日の金曜日夜のことだった……あの人は憶えていてくれた。
部屋の灯りの中、そのマーブル模様が涙で静かに滲んでいた。
———
——生明ひかり
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———
御礼
ピックアップしていただき、ご紹介していたただきました。
ありがとうございます。💛💙💖
———
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次回予告
写真随筆新シリーズ《雲渡る季節》・シリーズ紹介篇です。
——『雲渡る季節——そこに年上のお姉さんはいなかった』
里山の空高く渡り雲がたなびき、風が流れ、梅雨の終わりを告げる。
そんなとき、季節の彼方に置き忘れていた懐かしい記憶が甦る。
——「何かの折りには想い出したい」。

きっと、いつか電子出版するであろう写真随筆集『いまも君が現(ここ)にいるようで』(今のところ下巻に収録予定)より。
———
