一緒に進みたいのに、誰を信じればいいのかわからないことがある
前回は、
「自走」という言葉について考えた。
自走とは、
誰にも頼らずに、
一人ですべてを解決することではない。
必要な支えや、
周囲の知恵を受け取りながら、
自分で考え、
自分で選び、
自分で次の行動へ進んでいくこと。
そして、
一度走り始めたあとにも、
自分の走り方を振り返る。
問題が見つかったら、
原因を考える。
必要であれば、
誰かに相談する。
自分の走り方だけではなく、
走るための環境や仕組みまで、
少しずつ整え直していく。
誰かに用意された道を、
一人で走れるようになるだけではない。
走りながら見つけた問題を、
自分や周囲の人と一緒に見直し、
よりよい形へ更新できるようになる。
そこまで進んで、
持続する自走になるのかもしれない。
そんなことを考えていた。
けれど、
自走について考えたあと、
もう一つ気になることがあった。
一人ひとりが、
自分で考えて動けるようになれば、
すべてが自然にうまくいくのだろうか。
それぞれが、
自分の役割を理解している。
誰かから指示されるのを待たずに、
必要だと思うことへ動いている。
問題にも気づき、
よりよくするための改善も続けている。
誰も怠けていない。
誰も投げ出していない。
それぞれが、
自分なりに一生懸命取り組んでいる。
それなのに、
なぜかうまくかみ合わないことがある。
目指している場所が違う。
優先しているものが違う。
同じ仕事を、
別々の人が進めている。
反対に、
誰かが行うだろうと思い、
必要な仕事が残されたままになる。
一人は、
速さを大切にしている。
もう一人は、
正確さを大切にしている。
どちらにも、
それぞれの理由がある。
けれど、
その理由が共有されていないために、
相手の動きが理解できない。
自分は全体のために動いているつもりなのに、
相手から見ると、
勝手に進めているように見える。
相手も相手なりに、
必要だと思うことをしているのに、
自分から見ると、
こちらの仕事を増やしているように感じる。
どちらか一人が、
明らかに間違っているわけではない。
それでも、
少しずつずれていく。
そんなことがある。
今日は、そんな流れから、
「協働」という言葉が気になった。
今日AIとほどいてみた言葉は、
「協働」
です。
協働とは、
立場や経験の違う人たちが、
同じ目的に向かって、
それぞれの力を持ち寄りながら、
一緒に取り組んでいくことなのだと思う。
これからの複雑な社会では、
一人だけでできることには限界がある。
一人の知識だけでは、
見えないことがある。
一人の経験だけでは、
判断しきれないこともある。
一人でできることを増やしていく自走も大切だけれど、
自分とは違う力を持つ人と、
どのようにつながっていくのかも必要になる。
けれど、
協働には難しさがある。
一緒に取り組む相手によって、
生まれる結果が大きく変わることがあるからだ。
誰と進むのか。
どのような人へ仕事を任せるのか。
何を信じ、
どこまで共有するのか。
どのような時に、
少し距離を取るのか。
そこには、
人を見ることや、
人を選ぶことも関わってくる。
一緒に進みたいと思っていても、
誰を信じればよいのかわからないことがある。
最初は、
協力的に見えた人がいる。
話し方もやわらかい。
誰に対しても感じがよい。
「みんなで頑張りましょう」
と、
前向きな言葉も口にしている。
けれど、
問題が起きた途端に、
その人の態度が変わることがある。
うまくいったことは、
自分の成果として話す。
失敗したことは、
誰かから聞いていなかったからだと説明する。
面倒な作業は、
気づかないふりをする。
表に出る仕事には積極的でも、
誰にも見えない仕事は引き受けない。
立場の強い人には丁寧でも、
断りにくい人へは、
少しずつ負担を渡していく。
人は、
言葉だけではわからない。
特別な面接や、
大きな成果の中だけで、
その人のすべてが見えるわけでもない。
むしろ、
人との向き合い方は、
日常の小さな場面に表れることがある。
誰かが失敗した時に、
どのような言葉をかけるのか。
自分には直接利益のない仕事を、
誰かが引き受けている時に気づけるのか。
成果が出た時に、
自分だけの手柄にするのか、
周囲の支えにも目を向けられるのか。
自分より立場の弱い人へ、
どのように接するのか。
意見が違う時に、
相手の話を聞けるのか。
自分が間違っていたとわかった時に、
言い訳を重ねるのか、
認めて次を考えられるのか。
何かが起きた時に、
その人の言葉の主語が、
いつも「自分」だけになっていないか。
自分がどう見られるのか。
自分が損をしないか。
自分の責任にならないか。
そこだけに意識が向いているのか。
それとも、
相手がどのような状態なのか。
なぜ問題が起きたのか。
周囲には、
どのような負担があったのか。
背景まで見ようとしているのか。
そのような小さな違いが、
チームの中では、
少しずつ大きな違いになっていくことがある。
ただし、
一つの場面だけで、
その人のすべてを決めつけることもできないと思う。
人には、
余裕がない時がある。
事情を知らなければ、
自己中心的に見える行動にも、
別の理由があるかもしれない。
だから、
一秒で人を見抜こうとするのではなく、
繰り返される行動を見る。
誰かが見ている時だけではなく、
見ていない時にも、
同じような姿勢があるのか。
自分に余裕がある時だけではなく、
問題が起きた時にも、
相手を人として扱えるのか。
人を判断するということは、
相手を短い言葉で分類することではなく、
いくつもの場面を通して、
その人が何を大切にしているのかを見ていくことなのだと思う。
協働について考える時、
私は、
「いい人」という言葉も気になった。
仲のよい人だけを集めると、
意見が同じになりすぎる。
気の合う人ばかりでは、
新しい考えが生まれない。
波風を立てない人だけでは、
問題を見過ごしてしまう。
そのように言われることがある。
たしかに、
全員が周囲に合わせ、
違う意見を出さないのであれば、
考え方が狭くなってしまうことはあると思う。
けれど、
それは「いい人」が集まったことが問題なのではなく、
「いい人」の意味が、
波風を立てない人になってしまっているからかもしれない。
協働に必要なのは、
何に対しても同意してくれる人ではない。
相手を大切にしながら、
必要な時には違う意見も伝えられる人なのだと思う。
自分の考えを押し通すためではなく、
一緒に目指しているものを守るために、
気づいたことを伝えられる。
相手の意見が違っていても、
すぐに敵だと決めつけない。
自分の考えが正しくなかった時には、
修正することができる。
意見が違っても、
相手の人格まで否定しない。
そのような人同士であれば、
気が合うことや、
信頼関係があることは、
協働を弱くするものではないと思う。
むしろ、
安心して違う意見を出せる、
強い土台になることがある。
信頼できる人は、
自分と同じ考えを持つ人であることもある。
同じ価値観を持ち、
同じ方向を見ているからこそ、
安心して進める関係もあると思う。
けれど、
考えが同じかどうかだけで、
信頼できる人かどうかが決まるわけではない。
むしろ、
考えが違った時に、
その人が相手をどのように扱うのか。
問題が起きた時に、
誰かへ責任を押しつけて終わるのか、
一緒に次の方法を考えられるのか。
そのような場面に、
信頼できる姿勢が表れることもあるのだと思う。
信頼は、
考えが同じかどうかだけで決まるものではない。
考えが違った時にも、
相手を大切にしながら、
一緒に次を考えられるかどうか。
そこに、
その人が大切にしているものが表れることもある。
だから、
協働とは、
波風を立てない人たちが、
静かに足並みをそろえることではない。
お互いの違いを認めながら、
必要な時には、
壊さない形で違いを置けること。
目的のために、
誠実に対話できること。
どちらかが我慢して終わるのではなく、
違いを使って、
よりよい形を探せること。
それが、
協働なのだと思う。
私自身、
仕事をしていた時に、
「他責にしない」
「チームでまとまりを持つ」
「一人ひとりの強みを生かす」
「失敗から学ぶ」
という言葉を聞くことがあった。
言葉だけを見れば、
どれも大切なことだと思う。
けれど、
実際に失敗が起きると、
言葉とは違う状況になることもあった。
問題を起こした人が、
一人で原因を説明する。
その人が、
一人で再発防止策を考える。
周囲は、
「次から気をつけてください」
と伝える。
本当は、
仕事の量に無理があったのかもしれない。
手順がわかりにくかったのかもしれない。
必要な情報が渡っていなかったのかもしれない。
確認できる人がいなかったのかもしれない。
同じ仕組みを使えば、
別の人にも起きる問題だったのかもしれない。
それでも、
起きたことが、
その人だけの注意不足として扱われる。
成功した時には、
チームの成果になる。
けれど、
失敗した時には、
個人の責任になる。
そのような場所では、
人は少しずつ、
自分を守るようになると思う。
余計なことには関わらない。
ほかの人の仕事を手伝わない。
問題に気づいても、
自分の担当ではないと言う。
新しい提案をすれば、
責任も増えるため、
黙っていた方が安全だと考える。
それは、
その人が最初から自己中心的だったからとは限らない。
自分を守らなければならない環境が、
人を自分の範囲だけを見る状態へ、
追い込むこともあるのだと思う。
協働を大切にすると言いながら、
失敗した人だけが責任を背負い、
次の対策まで一人で考えるのであれば、
実際には協働になっていない。
失敗を責めないことは、
何も責任を問わないことではない。
起きたことを曖昧にすることでもない。
何が起きたのかを確かめる。
誰が、
どの判断をしたのかを見る。
そのうえで、
個人だけの問題なのか、
仕組みや環境にも原因があったのかを考える。
そして、
「誰が悪かったのか」
だけで終わらず、
「次に同じことを起こさないために、
私たちは何を変えられるのか」
を一緒に考える。
失敗した人を責めて終わるのではなく、
次にどうするのかを、
一緒に考えられること。
それも、
協働に必要な姿勢なのだと思う。
協働を求めるのであれば、
評価するものも、
成果だけでは足りないのかもしれない。
売上を上げた。
仕事を早く終えた。
多くの案件を担当した。
わかりやすい成果は、
数字として見えやすい。
けれど、
チームを支えているのは、
そのような成果だけではない。
困っている人へ、
必要な情報を渡した。
新しく入った人が迷わないように、
手順を整えた。
誰かの失敗を、
一緒に振り返った。
表に出ない仕事を、
黙って引き受けた。
部署の間に入り、
違う言葉をつないだ。
誰にも評価されにくい仕事が、
誰かの成果を支えていることがある。
協働を求めながら、
個人の成果だけを評価すれば、
人は自分の数字を優先する。
誰かを助けるほど、
自分の仕事が遅れる。
人を支えるほど、
自分の成果が見えにくくなる。
そのような仕組みであれば、
助け合いを続けることは難しい。
協働を大切にするのであれば、
何を達成したのかだけではなく、
誰かが進みやすくなるために何をしたのかも、
見える形にする必要がある。
自分の成果だけでなく、
チームの土台を整えた行動も、
価値として受け取る。
そのような文化が必要になるのだと思う。
協働しやすい人を選ぶことは、
たしかに大切だと思う。
特に、
まだ関係の土台ができていない時に、
相手への尊重を持たない人が加われば、
安心して話せる空気が、
短い時間で壊れてしまうことがある。
意見を笑う。
失敗を責める。
人によって態度を変える。
自分だけが得をするように動く。
そのような行動が繰り返されれば、
ほかの人は、
少しずつ本音を出さなくなる。
技術や知識は、
経験や学習によって、
後から身につけられることが多い。
けれど、
相手をどのように扱うのか。
問題が起きた時に、
どのように責任と向き合うのか。
自分とは違う人を、
どこまで尊重できるのか。
そのような姿勢は、
短い研修だけで、
すぐに変わるものではないと思う。
だからこそ、
何ができる人なのかだけではなく、
どのように人と関わる人なのかを見ることも、
協働には必要になる。
ただ、
人選だけですべてを解決しようとすることにも、
限界がある。
どれだけ慎重に見ても、
人を完全に見抜くことはできない。
よい人だと思っていた相手が、
環境が変わることで、
違う行動をすることもある。
反対に、
最初は話しにくいと感じた相手が、
時間をかけて信頼できる人になることもある。
人は、
場面によって変わる。
立場によっても変わる。
余裕がある時と、
追い詰められている時では、
違う姿が出ることもある。
だから、
協働は、
人を見る力だけに任せてはいけないのだと思う。
人を見誤った時にも、
誰か一人が傷ついたり、
責任を背負ったりしない仕組みが必要になる。
誰が、
何を担当するのか。
いつまでに行うのか。
現在、
どこまで進んでいるのか。
何に困っているのか。
どの状態になったら、
誰へ相談するのか。
そのようなことを、
見える形にする。
それは、
人を監視するためではない。
誰かの逃げ道を、
すべてなくすためでもない。
認識の違いを減らすため。
仕事が、
一人へ集中することを防ぐため。
問題が起きた時に、
誰か一人だけの記憶や説明へ、
すべてを委ねないため。
役割や責任を見える形にすることは、
真面目に取り組んでいる人を守ることにもつながる。
また、
大切な話を、
個人同士の会話だけで終わらせないことも必要になる。
役割が変わった。
期限が変わった。
判断の基準が変わった。
誰かの仕事へ影響する変更があった。
そのようなことは、
関係する人にも共有する。
一対一で話すことが、
すべて悪いわけではない。
一対一だからこそ、
話せることもある。
けれど、
責任や役割に関わる大切な内容まで、
個人だけのやり取りで終われば、
「言った」
「聞いていない」
という違いが生まれる。
一人だけが、
知らないところで責任を背負うこともある。
必要なことを記録し、
必要な人へ共有することは、
相手を疑うことではない。
安心して一緒に進むための、
共通の記憶を作ることなのだと思う。
表面上は協力的に見えても、
負担や責任を、
少しずつ周囲へ移してしまう振る舞いもある。
そのような人を、
短い言葉で分類したくなることもある。
けれど、
誰かを「自己中心的な人」と決めつけると、
今度はこちらが、
その人の行動を一つの見方だけで判断するようになるかもしれない。
大切なのは、
人へ名前をつけることよりも、
起きている行動を見ることだと思う。
手柄を、
自分だけのものにしていないか。
問題が起きた時に、
主語をほかの人へ変えていないか。
立場の弱い人へ、
負担を渡していないか。
人前と一対一で、
態度が大きく変わっていないか。
誰にも見えない仕事を、
いつも同じ人へ任せていないか。
行動が見えれば、
対応も考えやすくなる。
その人が力を発揮しやすい役割を見つける。
得意なことを、
チームの目的につなげる。
よい働きがあれば、
きちんと伝える。
人から認められたいという気持ちは、
特別な人だけが持つものではない。
多くの人にあるものだと思う。
その気持ちを利用して操るのではなく、
チームのために使われた力を、
正しく認める。
何をした人が、
どのように役立ったのかを伝える。
それによって、
自分の力が誰かの役に立ったという感覚が生まれれば、
次の協力につながることもある。
ただし、
誰かの機嫌を取り続けなければ、
仕事が進まない状態は、
健全な協働とは言いにくい。
相手を尊重することと、
相手のわがままを、
すべて受け入れることは違う。
できること。
できないこと。
引き受けること。
引き受けないこと。
その境界線も、
協働には必要になる。
協働には、
多くのよさがある。
異なる知識や経験を持ち寄ることで、
一人では思いつかなかった方法が生まれる。
得意なことを分担することで、
一人へ集中していた負担を減らせる。
自分だけでは持っていなかった情報や、
人とのつながりに触れることができる。
違う考え方に出会うことで、
自分の視野も広がっていく。
けれど、
よいことだけではない。
関わる人が増えるほど、
調整には時間がかかる。
それぞれの予定を合わせる。
言葉の意味をそろえる。
誰が決めるのかを決める。
違う意見を整理する。
一人ならすぐに進められたことが、
何度も話し合わなければ、
進まないこともある。
情報を共有するほど、
外へ漏れてはいけないものへの注意も必要になる。
役割が曖昧であれば、
責任の所在も見えにくくなる。
最初に期待していた成果が違えば、
途中で方向が分かれることもある。
協働には、
一人では得られない力がある。
同時に、
一人で進む時にはなかった負担もある。
だから、
何でも一緒に行えばよいわけではない。
一人で進めた方がよい部分。
一緒に考える必要がある部分。
専門的な判断を任せた方がよい部分。
実際に使う人の声が必要な部分。
それを分けることも、
協働を続けるために必要なのだと思う。
私自身、
社内の仕事を支える仕組みや、
業務の進め方を改善する仕事に関わっていた時、
一人だけで考えても、
気づけないことがたくさんあった。
作る側から見ると、
システムは問題なく動いているように見える。
必要な機能もある。
手順書もある。
大きな問題も起きていない。
けれど、
実際に使っている人へ話を聞くと、
想像していなかったところで、
困っていることがあった。
同じ情報を、
何度も入力している。
説明を読んでも、
どれを選べばよいかわからない。
便利な機能があるのに、
その存在が知られていない。
少しの不便を避けるために、
本来とは違う方法で作業している。
作る側には、
問題なく動いているように見えるものが、
使う側には、
負担の多いものになっていることがある。
だから、
実際に使っている人の声を聞く。
アンケートを行う。
困っていることを教えてもらう。
一緒に働く人の不安も受け取る。
外から見た意見にも耳を傾ける。
その声を、
システムや手順へ反映する。
改善したあとにも、
本当に使いやすくなったのかを確かめる。
その流れを繰り返すことで、
自分だけでは作れなかった形へ、
少しずつ近づいていくことがあった。
専門的な知識を持つ人だけが、
最適な答えを持っているとは限らない。
専門家には、
専門家だから見えるものがある。
利用する人には、
毎日使っているから見えるものがある。
新しく入った人には、
慣れていないからこそ、
気づけるものがある。
長く担当している人には、
過去から続く経緯が見えている。
どれか一つだけでは、
見えない部分がある。
協働とは、
専門性を薄めることではない。
それぞれの専門性や経験を、
相手が使える形へ開いていくことなのだと思う。
専門的な言葉を、
そのまま伝えるだけでは、
相手には届かないことがある。
正しい説明をしていても、
相手が理解できなければ、
一緒に判断することは難しい。
だから、
相手の立場に合わせて、
言葉を置き換える。
どうしてその判断が必要なのかを伝える。
反対に、
利用する人の感覚的な困りごとを、
専門家が扱える形へ整理する。
「なんとなく使いにくい」
という言葉の中に、
順番がわかりにくい。
選択肢が多すぎる。
同じ操作を何度も行っている。
処理に時間がかかる。
そのような、
具体的な問題が隠れていることがある。
違う言葉を使う人同士の間で、
意味をつないでいく。
それも、
協働に必要な役割なのだと思う。
家庭やパートナーとの関係にも、
協働はある。
家事や育児について、
効率を大切にする人がいる。
一方で、
気持ちや過程を大切にする人もいる。
早く終わらせることを、
よいことだと考える人がいる。
一緒に取り組むこと自体を、
大切に感じる人もいる。
同じ家庭の安定を願っていても、
大切にするものが違うことがある。
家事を同じ量に分ければ、
必ず公平になるとも限らない。
使える時間が違う。
得意なことも違う。
疲れ方も違う。
その時の状態を確かめながら、
役割を調整する必要がある。
けれど、
一人だけが相手を思いやり続け、
先回りしてすべてを引き受けている状態は、
協働とは言いにくい。
疲れていることを伝える。
何を手伝ってほしいのかを伝える。
何は自分でできるのかを伝える。
それによって、
相手も初めて動きやすくなる。
支え合うことは、
何も言わなくても、
相手の気持ちを読み取ることではない。
わからないことを、
確かめ合えることなのだと思う。
教育や研究にも、
異なる分野の知識を持ち寄る協働がある。
医療にも、
一つの専門だけではなく、
さまざまな立場から人を支える協働がある。
アートや創作にも、
違う感性を重ねることで、
一人では作れなかったものを生み出す協働がある。
けれど、
どの分野であっても、
協働の基本は似ているのだと思う。
何を目指しているのかを確かめる。
お互いの立場や専門性を尊重する。
誰が何を引き受けるのかを明確にする。
必要な情報を、
一方通行ではなく交換する。
問題が起きた時に、
責任を曖昧にしない。
それでも、
誰か一人へすべてを背負わせない。
協働は、
善意だけでは続かない。
人を見ること。
仕組みを整えること。
文化を育てること。
その三つが必要になるのだと思う。
人を見る。
日常の中で、
その人が失敗や手柄、
負担や意見の違いを、
どのように扱うのかを見る。
仕組みを整える。
役割や責任、
情報や進み具合を見える形にし、
誰か一人へ負担が集まりにくくする。
文化を育てる。
失敗した人を責めて終わるのではなく、
次にどうするのかを一緒に考える。
成果だけではなく、
周囲を支えた行動にも目を向ける。
この三つのどれか一つだけでは、
協働は安定しにくいのかもしれない。
よい人を集めても、
役割が曖昧であれば、
負担は偏る。
仕組みを整えても、
相手への尊重がなければ、
人は声を出さなくなる。
対話を大切にしていても、
失敗した時の扱いが変わらなければ、
本音は少しずつ隠される。
協働とは、
いい人たちが自然に助け合うことではない。
人の違いや、
人が持つ弱さを前提にしながら、
誰か一人へ負担や責任が集まらないよう、
信頼と仕組みの両方を整えていくことなのだと思う。
人は、
いつも協力的でいられるわけではない。
疲れていることもある。
不安なこともある。
自分を守りたくなることもある。
認められたいと思うこともある。
間違いを隠したくなることもある。
そのような弱さを、
持ってはいけないと否定するのではなく、
弱さが誰かを傷つける形にならないようにする。
人の善意だけに、
すべてを任せない。
それが、
続いていく協働なのかもしれない。
今日AIと、
「協働」という言葉をほどいてみて、
私は、
一緒に進むことへの見方が少し変わった。
協働とは、
誰とでも仲よくすることではない。
すべての人を、
無条件に信じることでもない。
一度も人を見誤らないことでもない。
相手の言葉だけではなく、
繰り返される行動を見る。
自分と同じ意見かどうかだけではなく、
違う時にも誠実でいられるかを見る。
そのうえで、
人だけに頼らず、
役割や責任を見える形にする。
失敗した時に、
一人を責めて終わらない。
見えないところで、
誰かを支えた行動も大切にする。
そして、
何かがかみ合わなくなった時には、
誰が悪いのかを探す前に、
もう一度確かめてみる。
同じ目的を見ているだろうか。
必要な情報は、
届いているだろうか。
役割は、
曖昧になっていないだろうか。
一人だけが、
見えない負担を抱えていないだろうか。
失敗した人だけに、
すべてを背負わせていないだろうか。
助けているように見えて、
相手を利用していないだろうか。
自分の考えを守るために、
相手の声を聞いたことにしていないだろうか。
答えは、
すぐには見つからないかもしれない。
それでも、
自分の正しさを少しだけ横へ置き、
相手が見ているものを知ろうとする。
自分の考えも、
曖昧にせず伝える。
違いがあれば、
どちらかを消すのではなく、
何を一緒に残せるのかを考える。
その小さなやり取りから、
ばらばらだった動きが、
少しずつ一つの流れへ変わっていくのかもしれない。
信頼があるから任せられる。
配慮があるから言葉を選べる。
尊重があるから境界線を大切にできる。
距離感があるから、関係を無理なく続けられる。
安心があるから、自分の言葉を出せる。
粘りがあるから、もう一度立て直せる。
ごみ捨てがあるから、次に進む場所を整えられる。
手放すことがあるから、新しい余白をつくれる。
受け取ることがあるから、その余白にあたたかいものを入れられる。
組み立てることがあるから、受け取ったものが自分なりの形になっていく。
立て直すことがあるから、うまくいかなかった時間も次に進む材料に変えていける。
突破することがあるから、越えられないと思っていた壁の先に、新しい景色が見える。
品格があるから、その景色の先でも、人を人として大切にしながら進んでいける。
違和感があるから、自分の大切な感覚を見失わずに、進む方向を確かめることができる。
更新があるから、過去の自分を否定せずに、今の自分に合う形へ進み直すことができる。
定着があるから、その変化を一時的なものにせず、自分や誰かの日常の中に根づかせていける。
波及があるから、自分の中に根づいたものを、言葉や行動を通して、誰かの心や場の空気へ少しずつ届けていける。
循環があるから、届けたものや受け取ったものが、形を変えながら巡り、また次の言葉や行動につながっていく。
還元があるから、巡ってきたやさしさや学びを、自分だけのものにせず、誰かが使える形へ変えて次へ渡していける。
自走があるから、必要な支えを受け取りながら、自分で考え、選び、自分なりの一歩を進めていける。
そして、協働があるから、
それぞれの一歩を、
ばらばらなままにせず、
違いを持ったままつなぎ合わせ、
一人では届かなかった場所へ、
一緒に進んでいけるのかもしれない。
協働とは、
相性のよい人を集めれば、
自然に完成するものではない。
人を正しく見抜けば、
必ず成功するものでもない。
誰と進むのかを丁寧に考えながら、
それでも人を見誤る可能性を受け入れる。
そして、
問題が起きた時に、
誰か一人だけが傷ついたり、
責任を背負ったりしないようにする。
人を見る。
仕組みを整える。
文化を育てる。
その三つを何度も見直しながら、
違う人同士が、
同じ目的へ進める形を作っていく。
それが、
協働なのだと思う。
一緒に進みたいのに、
誰を信じればよいのかわからないことがある。
そんな時は、
すぐにすべてを信じなくてもいい。
反対に、
一つの場面だけで、
すべてを疑わなくてもいい。
その人が、
日常の中で何を大切にしているのかを見る。
失敗した時に、
どのように向き合うのかを見る。
自分には利益のない場面で、
どのように動くのかを見る。
そして、
信じることを、
気持ちだけに任せない。
役割を言葉にする。
大切なことを共有する。
困った時に確かめられる場所を作る。
信頼と仕組みを、
どちらか一方にせず、
一緒に育てていく。
その積み重ねの先に、
誰かを疑い続けなくてもよく、
誰か一人が我慢し続けなくてもよい協働が、
少しずつ生まれていくのかもしれない。
これからも、気になった言葉をAIでほどきながら、
そこから見えてきたことを少しずつ残していきたい。
それは、言葉の意味を知るためだけではなく、
今の自分をもう少し丁寧に知るための記録でもある。
