やくざい師の叶え薬~ケアテイカー優の場合~ 【九】終
こころ
母の顔を見た瞬間、張りつめていたものがふっと緩んで、思わずほっとしてしまう。
けれど、そのすぐあとに、胸の奥にピリリと緊張が走った。
「ちょっと近くまで来る用事があって。急に来てごめんね」
「ううん。もちろん良いのよ。でも……何かあったの?」
薬のこと、SNSでの騒ぎ、異動、そして恋人のこと。
それをお母さんに話したら、どんな顔をするだろう。気味悪がられるだろうか、叱られるだろうか、がっかりされるだろうか。
……それとも、何も言わずに受け入れてくれるだろうか。
リビングのテーブルに着きながらも、優は黙っていた。どう切り出せばいいのか分からないまま、沈黙していると——
「そうだ、真琴がね。先週帰ってきてさ、また仕事辞めたいって言い出してて…。あの子どうしていつも、ああなのかしら。私どこで育て方を間違ったのかなぁ…」
母の愚痴が、当たり前のように始まった。
優は話すタイミングを逃してしまい、「うんうん」と相槌を打ちながら聞き役に回っていた。
「あとね……こないだお父さんから連絡があって」
「えっ、お父さんから!?」
「そう。いま一人なんですって。今さら戻ってきたいなんて言ってきて。都合がいいわよね。でも、優も真琴も出て行って一人暮らしって、やっぱり不安だし寂しくて……。
ねえ、優はどう思う?私どうしたらいいかな……?」
母の目に涙が浮かび、そのまま泣き出してしまった。優は慌てて立ち上がり、キッチンで紅茶を淹れてきて、差し出した。
「お母さん、温かいもの飲んで。落ち着いて…」
「ありがとう、優。ああ、やっぱり優がいてくれてよかった……」
まただ。
自分の話をしに来たはずなのに、気づけばまた、聞き手になっている。
差し出す側に、なってしまっている。
この関係に、もううんざりしていた。だからこそ実家を出たはずだった。
けれど、周囲の人間関係でも恋人との関係でも、気づけば同じことを繰り返してしまう。
そして、わかっているのに。
傷つくたびに帰ってきてしまう。今度こそ、無条件で受け止めてもらえるかもという淡い期待がどうしても捨てられない。
でも、また思い知らされるのだ。
私は我慢して、与える側でいなければならない人間なのだと。
それでも優は、母のために言葉を選ぶ。
「私はお母さんがしたいようにすればいいと思うよ。お母さんが幸せなのが、私たち子どもにとっても一番だから」
「優……」
「優がいてくれたら…」
という母の言葉に、胸の奥が、ドクン、と大きく脈打った。
「優が一人暮らしするって言ったときもね、通勤のこともあるし、それが一番いいって頭では分かってたけど、やっぱり寂しかったのよ。
優がいない家で一人でごはんを食べるの、すごく辛かった」
やめて。
「優がいてくれたら、お父さんとやり直すかどうかで悩む必要なんてなかったと思う。あなたが出て行ってから、お母さん、心にぽっかり穴が空いたようで……」
やめてよ、もう……やめて。
『差し出す身体の面積が全体の半分を超えるような場合、あるいは、重要な臓器。脳、心臓、“心”そのものを差し出してしまうと、再生が追いつかず命に関わります……』
釉薬の声が、頭の中で再生される。
死にたくない。
死にたくなんか、ない。
でも。
もしお母さんの胸に穴が空いているのなら。
その空洞を、心で埋めてあげるしかないのなら。
あなたが目の前でそれを望んでいたら
やはり私は、差し出してしまうんだ。
「お母さんが……傷ついてて、足りなかったのは、“心”だったんだよね」
そうつぶやくと、優は胸に手を差し入れた。ゆっくりと静かに指が皮膚に沈んでいく。
次の瞬間、掌に乗っていたのは——
“心”だった。白く丸い形状のそれは、柔らかく温かく、確かに脈を打っていた。知らないはずなのに、すぐにわかった。
これが、私の“心”。
優の胸には、ぽっかりとした黒い穴が開いていた。
「ゆ、優!?きゃあああ、それ、なに?なんなの!? それに胸に穴が……!」
母の悲鳴にも動じず、優はそのまま淡々と語りはじめた。
「お母さん、今度は私の話を聞いて」
「……え?」
「私ね、最近すごくいろんなことがあって、すごくつらかった。でも、全部自分が我慢しすぎたせいだって気づいたんだ。
いつもそう。誰かに何かをしてあげないと、私はここにいていいって思えないの。人の笑顔のためなら、自分のことを後回しにしてきた。でも…
本当は…ただ、いるだけで愛されたかった」
母は言葉を失い、顔が強張る。
「これ、私の心。
取り出しちゃったから多分、私……死ぬと思う」
「な、何を言ってるの?!嘘でしょう、そんな……っ」
「わかんない。でもね、こんなふうに大きな穴が空いちゃって、生きていけるわけないよね」
優が苦笑まじりに言うと、呼吸がだんだんと浅くなっていく。胸が苦しい。意識が遠くなる。
ああ、死にたくない。怖い。
生きたい。
「お母さん、わたしに……生きてほしい?」
「なに言ってるの!当たり前じゃない!!子どもに生きてほしくない親なんて、この世にいるわけないでしょう!
優が……優がいなくなったら、お母さんは生きていけないわっ!」
その瞬間。母の胸から、“心”がボコリ、と飛び出した。
「……ありがとう、お母さん」
優は目を細め、その母親の身体から飛び出した“心”をそっと手に取り、自分の胸に当てる。じんわりと温かみが広がり、黒い穴がすこしずつふさがっていく。
「……っ、はあ、はあ……!し、死ぬかと思ったぁ……!」
その場に座り込み、息を整える優。
母は自分の胸の穴を見下ろし、口を開けたまま呆然としていた。
「ひ……いったい、これなに……?」
優は立ち上がり、自分の掌に残っていた自分の“心”を、そっと母の胸に押し当てる。それはすんなりと馴染んで、母の胸の穴を埋めていった。
胸の穴が埋まり、なお青ざめながら呆然とし続ける母に向かい、優ははっきりと告げた。
「お母さん。お互いに心を差し出し合って、やっと生きていけるような関係。そんなの、間違ってると思うの」
「え……?」
「私も自立しないと。しばらく、この実家には帰りません」
「し、しばらくって……?年末年始は帰ってくるでしょう?」
優は、答えなかった。
ただ、少しだけ微笑みを浮かべると、まっすぐに玄関へと向かった。
薬瓶を返却しに
ーエピローグー
「えっ、お母さまに、あの叶え薬を飲ませてしまったのですか……!?」
釉薬が珍しく驚愕の表情を浮かべた。
いつもは淡々としているのに、と優は内心ちょっとおかしくなって、思わず口元がほころぶ。
「はい。こっそり紅茶に混ぜて。でも、ちゃんと効きました。おかげで私、死なずにすみました」
「いや、それは……。あれは春田様専用に調合した特別仕様の薬です。同じ効果が他者に出る保証はありません。たまたま近しいDNAだったから良かったものの前代未聞です。危険な真似は二度とおやめください」
そう言いつつも、釉薬はぶつぶつと呟きながら【叶え薬の記録帳】に何やら熱心に書き込んでいる。
「母娘なら、同様の薬効が出る可能性……今後の研究材料に……」
「でも、そのおかげで私は気づけました。ああ、私、ちゃんと生きたいんだなって」
「それは、何よりですね」
「それで、実家にはしばらく帰らないってきちんと宣言してきました」
「よろしかったのですか?」
「はい。物理的な距離も必要だなって思ったんです」
優の顔には、以前よりずっと清々しい表情が浮かんでいた。
「それに、仕事も変えようと思って。異動先でしばらく働きながら、資格を取ろうかなって。介護士とか……人の役に立つ仕事を」
「人の役に立てることが、やはり嬉しいのですね」
「はい。でも今度は、ちゃんと自分の軸を持ったうえで。そういうふうに在りたいんです」
釉薬は、うなずくと柔らかく微笑んだ。
「それはとても素敵なことだと思いますよ」
「もしかして、叶え薬の1番の効果は“呪いに気付かせること“なんじゃないですか?」
「どう捉えていただいても構いません。
でも、気づくことは何より大切な薬かもしれませんね」
優も小さく笑い、バッグから空になった薬瓶を差し出した。
「ところで、この薬瓶を返しにきたんですけど。使い切ったはずなのに、中に何か紙みたいなものが残っていて……」
「ええ。それでよいのです。
どうぞこちらへ」
釉薬はそう言うと、優を店の裏手にある庭に案内した。そこには黒い一斗缶のような器が置かれており、釉薬は静かに火を灯す。
「何を……?」
「これから、この中の紙を焼きます。最後の工程です」
「この紙って、一体何なんですか?」
「これは“罪”です。春田様が、自らに課していた罰のようなもの」
「罪……?」
優はゆらめく炎を見つめながら、小さく呟いた。
モリちゃんがそっと釉薬の肩にのり、その黒い瞳にも火の光が映っている。
幻想的で、どこか神聖な時間だった。
「まぁ、大方は“母子共依存に気づけなかった愚かさ”とか、そういう罪ですかね…?」
優が苦笑まじりに言うと、
「いえ。
“自分を、幸せから遠ざけていた罪”です」
そう言って、釉薬は薬瓶から小さく折りたたまれた紙を取り出し、炎の中へと落とした。
火は一瞬、ぱちりと音を立てて燃え上がる。
それを見つめながら、優は肩の力がすっと抜けていくような感覚を覚えた。
「春田様を縛っていたものは、もうありません。
私の“焼罪師”としての役目も、これにておしまいです」
炎が静かに鎮まり、風がふっと抜けていく。
釉薬は丁寧なお辞儀をして言った。
「それでは、春田様——どうぞ、お大事に」
