忘れられない餃子の思い出
いつから始まった習慣か覚えていないが、家族で暮らしていたころの実家では、土曜の夕飯は餃子と決まっていた。
毎週かならず、だ。
理由は至って単純明快。
ニンニク臭くては、父の仕事に支障があるから。
子供たちが食べ盛りの頃には、母は150個とか200個とか、大量の餃子を包んで焼いていた。
白菜とニラに豚ひき肉。
材料も大量で、野菜を刻むのもひと苦労だっただろう。
毎週それだけの量を作っていれば、上手くもなるし、目分量でも味は安定するらしい。
作り方を教えてと聞いても、返ってくるのは「適当」のふた文字だった。
大きなステンレスボウルに刻んだ野菜を入れ、その上に豚ひき肉をドン。
片栗粉を容器に入ったままの計量スプーンで山盛り一杯。砂糖も同じく。
醤油とお酒は適当にドボリ。
塩コショウはパッパッパ、胡麻油はくるーり1周ぐらい?
ニンニクと生姜を適量すりおろしたら、鷲づかみにするようにしてこねていく。
先にひき肉と調味料を混ぜて、粘りをだしておくとか、正統派な作り方なんてしない。
それでも毎回、ちゃんと同じ味で美味しい。
野菜と豚肉がきれいになじんだら、スプーンと計量カップに入れた水を用意し、皮のパッケージをあけて、包みかた開始だ。
手慣れている母は、皮のフチに水をつけない。
スプーンで多めにすくったタネを皮にのせる。余分な量をボウルへ戻すときに、皮の上を滑らせるように落として、タネの水分でフチを湿らせ、手早く閉じてしまう。
手伝いのわたしたちが、皮に水をつけながらちまちま1個包む間に、2、3個ぐらいは軽く仕上げていた。
皮が余ったら、刻んだハムとチーズを包む。
子供の好きな味で、残った皮の数しかできないので、取り合いだ。
そういえば、タネが余って皮が足りなくなることは一度もなかった。不思議。
焼くのは鉄のフライパン。
もうもうと煙が上がるまで熱して油まわしをし、一度オイルポットにあける。
新しい油を敷いて、餃子を並べていく。
円状に並べるのではなくて、縦にまっすぐ並べていた。
その方が、フライ返しで皿にあげやすかったからだろうか。
底面に焼き色がついたら、水を入れてフタをする。
ジュワッ!
派手な音とともに、炎が上がる時もある。が、母はまったく動じない。
ふたつのフライパンを駆使して、大量の餃子をどんどんと焼き上げていく。
その頃になると、わたしを含めた子供たちはひたすら食べる側だ。
いまでこそポン酢を使うし、酢コショウなんて食べ方も覚えたけれど、あの頃は酢醤油にラー油だった。
母はあっという間に空になっていく大皿に、焼けた餃子を盛っては渡し、盛っては渡しを繰り返す。
そうして最後のひと皿を渡して、フライパンを洗いながら、
「お母さんの分も残しておいてよ」
と振り返った食卓にはもう、餃子の姿は影も形もなかった。
「あのときは愕然としたわ」
餃子が食卓にのぼると必ず母が語る思い出話は、このセリフで終わる。
いまではもっぱら弟が母の味を再現して、大量の餃子を包んでホットプレートで焼く。
具材を刻むところまでは、弟のお嫁さんである義妹の仕事らしい。
タネを作って包んで焼くのは弟と、きっちり分担が分かれている。
「きみの餃子、いつ食べても美味しいよね、お母さんの味だよね」
そう褒めると、弟は、
「テキトーやで」
と笑う。
テキトーでも、ちゃんと美味しく作れるのは遺伝なのか。
私はといえば、結婚してから何度か餃子を作ったが、どう頑張っても納得のいく味にならず、得意料理の看板を返上した。
いまも試行錯誤の真っ最中だ。
(1425字)
こちらの記事を読んで、同じエピソードがうちにもあったことを思い出しました。
どこの家庭にも、あるあるな話なんでしょうか。
