【有料記事】父母から聞いていた祖父・二代吉田玉市の話―海外公演先からの手紙―
「銀行でもないのに頭取?」―幼心の記憶から始まった旅
まずは二代吉田玉市のプロフィールから
明治27年2月6日徳島出身
明治時代は淡路の人形座にいた。
大正2年2月三代吉田玉蔵門 初名 桐竹富十郎
大正7年二代吉田玉松(四代吉田玉蔵)門
大正10年二代玉市襲名
昭和40年5月6日没
祖父が文楽座の人形頭取だったことは、幼い頃から聞いていました。
一度、こんな質問をされたことがあります。
「天野さんのお父さんは、どうして文楽の人形遣いにならなかったのですか?」と。
私は、こう答えました。「文楽の人形遣いをしていたのは母方の祖父です。父方は文楽とは全く関係ないですね。」
母方の祖父・二代吉田玉市。
母はこう言っていました。「お祖父さん(母の父)は、ブンラクの人形遣い。フケ役が専門だった。」と話してくれていました。その話は何度も聞いてきました。実家に三番叟の人形が置いてあったので、ブンラクが人形芝居を意味することは、何とは無しに知っていましたが、「ブンラク」が漢字の「文楽」に変換できるようになるには、数年かかったと思います。
また、母は、こうも話していました。それも繰り返し話していたように記憶しています。
「お祖父さん(母の父)は、文楽の頭取やった。」と。私は、その話を聞く度に「銀行でも無いのに、頭取ってあるんや。面白いなぁ。文楽の頭取って、どんな仕事だろう?」と思ったものでした。
文楽座の裏方を支えた祖父・二代吉田玉市
文楽ファンになって本や、昔の番付を読むうちに祖父・二代玉市の頭取の仕事、厳密に言うと「人形頭取の仕事」が明確に分かってきました。まず、出し物が決まると、どの役に、どの首(「かしら」と読みます。人形の頭部のこと。)を使うのかを決め、役の左遣いと足遣いは誰が担当するか?(専門用語でいうと「小割(こわり)」)を決めます。演目が多い時と、出演者が多い演目は特に多忙だったと想像しています。
また、人形遣いの人事にも関与していたようで、退座していた人形遣いさんの自宅に行って、「文楽座に戻って、もう一度人形遣いにならないか?」と声掛けをしていたようです。
海を越えて届いた、祖父の手紙
母が祖父について教えてくれたことで、一番深く印象に残っているのが、海外公演で遠征に行っていたアメリカから送ってくれたエアメール(正確には、1枚の紙に表を差出人と宛先を記入、その裏に手紙の内容を書くエアログラム)です。私の記憶が確かならば、1度では無く2回以上、見せてくれたと思います。家のどの部屋にある、どのタンスの、どの引き出しに入っていたかも、ハッキリと脳裏に刻まれているのです。
当時の、アメリカから届いた手紙に興奮し、同時に、海外で仕事をする祖父のカッコ良さに憧れていた、自分の心境しか記憶が無かったのですが、親の遺品整理をし、私の手元に届いた手紙を、改めて読み直すと、文楽海外公演の現地での様子や、家族に向けられた慈愛が感じられ、大変、貴重な宝物であったと、驚いている次第です。
手紙が教えてくれた、海外公演のスケジュールと家族の絆
1962年(昭和37年)8月14日に消印が押してある、祖父からの手紙を書き出してみましょう。
私の方で、縦書きの様式を横書きに変えています。
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