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罪悪感に悩むあなたへ ーバシャールをご存知ですかー

バシャールという言葉をご存知でしょうか。

私も詳しくは知らないのですが、アメリカのチャネラーであるダリル・アンカが、アラビア語で指揮官・存在・メッセンジャーといった意味を持つ、地球外知的生命体バシャールと交信しているとして、その内容をまとめて出版しているようです。

その地球外知的生命体バシャールは、オリオン座近くの惑星エササニに住み、複数の意識が集まった意識集合体とされており、テレパシーで意思の疎通をするといいます。

ダリル・アンカは、1951年生まれで、元々特殊効果デザイナーをしており、「スター・トレック」「アイ、ロボット」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「ダイ・ハード4.0」「アイアンマン」などを手がけています。1973年にロサンゼルスでUFOを目撃したことをきっかけにチャネリングができるようになったとされています。

まあ少し眉唾物(まゆつばもの)のように感じる方も多いかと思いますが、YouTubeなどで見ていると、なかなか面白くて興味深いことを言っていて、それでいて非現実的でもないなと感じています。宗教や哲学などが言っていることと基本的に同じで、倫理・道徳的にも十分にかなっていると思います。

そのバシャールによると、罪悪感を持ってしまうのは、本来の自分自身が持っている波動に対して、今の自分の波動がズレているからだそうです。

罪悪感という感情は、いま自分がズレているという感情を教えてくれているのだそうです。それを修正すれば、つまり自分の心を正しく入れ替えれば、その後はその罪悪感という感情を持ち続けてはいけないのだそうです。

罪悪感を抱き続けてしまうのは、何らかの理由でそれを手放す方が悪いことになると考えてしまっている(過去に行った自分の悪い行いを忘れることは、責任を放棄したように感じる等)からだそうですが、そうすると本来の学びを得られなくなると言います。

罪悪感という感覚は、本当は整うためのエネルギーが流れる瞬間だそうです。それは、あなたは今ズレていると教えてくれているのだそうです。その時にズレていたという選択をした自分を認め、自分本来の波動に戻る選択をすれば、それだけで良いのだそうです。罪悪感にとどまり続けるべきではないそうです。

過去の責任を背負うのをやめ、過去の悪い行いに自分を縛りつけてネガティブに生きるのではなく、ただ今を自分らしくポジティブに生きることが必要だそうです。

罪悪感というのは自己判断ですが、その自己判断によって自分を裁き続けるのをやめて、自分の心を正しく入れ替えて整えれば、その後はポジティブに生き、自分が楽しいと思うことを周囲の人々と分かち合うことが、最も自分の学びになると共に、最も多くを他者に与えることができ、世の中に貢献できるのだと言います。

罪悪感などの恐怖は、あなたの扉をノックする使者です。それに知らせてもらえた後は、ただ自分の心を整え、それを完了すれば過去に縛られるのをやめ、ただ自分がワクワクすることをポジティブに行えば良いのだと言います。それが過去の罪悪感や将来の不安などの恐怖を乗り越える方法だそうです。

残念ながら、チャネリングによって教示を得る場合は、こうすべきという答えを与えてはくれますが、なぜそうすべきかという論理的説明については、十分さを欠いているのが一般的だと思います。

そこで、そのなぜに当たる論理的説明の部分を、私なりに考えて見ましたので、以下に記していきたいと思います。

人間は、自分のことを一番大事にするように生まれついているので、他者を尊重する気持ちを経験として学ぶまでは、必ず自分を満足させるために、自分以外の存在を傷つけるなどの悪いことをしてしまいます。

それを学んだ後でも、回数は大きく減るでしょうが、自分の意図とは裏腹にであるとか、忙しさにかまけてついというようにであるとか、何らかの理由によって自分以外の存在を傷つけるなどの悪いことをしてしまうものですが、それは置いておくことにします。

このことは、いくら綺麗事を言っても変えることはできません。どれだけ他者のことを大事にする人であっても、やはり自分の方が大事なのではないでしょうか。

仮にもしも、他者のことを自分と全く同じくらいに大事にすることが出来る人がいたとしても、それは極めてわずかで、ほとんど全ての人は自分のことを一番大事にしているというのが、一般論として成立すると思われます。

そして、他者のことを自分と全く同じくらいに大事にすることが出来る人の場合であっても、生まれついた最初のときからそうであった訳ではありません。幼少期や子供の頃は、自分のわがままを通して、他者を傷つけてきたはずです。

それが、人生経験を積むことによって、これではいけないのではないかという気持ちに始まって、他者を尊重する気持ちを経験として学ぶことによって、道徳や倫理を深く考え学ぶことによって、他者のことを自分と全く同じくらいに大事にすることが出来るようになるのではないでしょうか。

このことからは次のことが言えます。人間であれば誰であれ、心が正しく成長するまで(比較的に早く達成する人もいれば、死ぬまで達成しない人もいる)は、必ず自分を満足させるために、自分以外の存在を傷つけるなどの悪いことをしてしまうということです。

また、心が正しく成長しなかったとしても、それは本人だけの問題ではない場合が非常に多いと思われます。自分の生まれ育った環境が、人殺しや盗みなどの犯罪だらけで、職場では弱い者いじめやハラスメントが横行しており、学校でもいじめが頻繁であったならば、そこで育った者の心は、正しく成長などしようがないのではないでしょうか。

このように自分以外の外部の影響によって、自分の心が正しく成長しなかったために行われてしまった悪は、一見すると行った本人に責任があるように見えるが、実はそうではないのではないでしょうか。

更に言えば、外部の影響の良し悪しに関係なく、各々の全ての人間が過去に行った全ての悪いことは、その過去の時々のどうしようもなかった判断に委ねられていたのではないでしょうか。

自分の過去に行った悪いことを思い出してください。その時に悪いことをすることの元となった判断は、その時の自分の価値観を考えれば必然だったのではないでしょうか。もう一度その過去に戻っても、その時の自分の価値観が変わっていなければ、同じ判断をするのではないでしょうか。

このことからは、その時々の全ての判断は、本人では変えることの出来ない必然性を備えており、その判断に基づいて行われた悪い行いは、本人の責任には帰結しないと考えることが出来るのではないでしょうか。

人間が責任を負うべきことは、時々の判断によってもたらされた結果ではなく、人生中を通して、自分の心を正しい方向に持っていこうとしたか否かにあるのではないでしょうか。

このように考えれば、罪悪感を持ってしまう原因の大多数を占めると思われる、過去に行った悪いことに対する罪悪感は、その過去の時々のどうしようもなかった判断に委ねられており、本人の責任に帰結しない訳であるから、それを持ち続ける必要はないことになります。問題なのは、今現在の心の持ち方だけなのです。

それでは、人生中を通して、自分の心を正しい方向に持っていこうとしなかったことに対する罪悪感はどうでしょうか。結論を先に述べると、この場合にも罪悪感を持ち続ける必要はないという理論が成り立つと思われます。

ただし、この場合は少し複雑で、まず自分の心を正しい方向に持っていこうとしなかったことに対して、罪悪感を持つべきか否かではなく、罪があるかないかを考える必要があると思います。そして、罪がある場合と、ない場合に別れるのですが、どちらの場合も罪悪感は持ち続ける必要はないという結論に辿り着くでしょう。

罪があるか否かは、自分の心を正しい方向に持っていこうとしなかったのではなく、自分の心を正しい方向に持っていくということは、どういう事なのかを理解できずに間違った解釈をしていたのか、理解はしていたが怠惰のために実行しなかったかによって別れます。

自分の心を正しい方向に持っていくとうことは、どういう事なのかを理解できずに間違った解釈をしていた場合、罪はないでしょう。それは気付くかどうかの問題であり、本人の意思や努力を超越しているからです。

自分の心を正しい方向に持っていく必要性に気付いていたのに、怠惰のために、それを行う努力をしなかった場合は罪があるでしょう。

ただし、その場合でも、罪悪感を持ち続ける必要はないでしょう。それに気付いて心を正せば、あとは罪悪感を忘れ、ポジティブに生きて行くべきなのでしょう。

人間がこの世で、罪のある行いをしたとしても、それは魂のレベルが低下したからが原因ではなく、魂のレベルが上がらなかったことが原因なのです。人間の魂のレベルは、上昇することはあっても、下降することはないのです。

魂のレベルが上がりも下がりもしないということは、プラスマイナスゼロであり、その上昇しなかった魂の意思によって罪のある行いをしたとしても、何かマイナスのことをしたことにはならず、そうであるからには裁いたり裁かれたりすると考える必要はなく、したがって罪悪感を持ち続ける必要はないからです。

また、罪悪感の原因となっている行いは過去のもので、それを無かったことにすることは出来ないということも考えるべきでしょう。

この世における人間の全ての経験は、一時的にマイナスに作用することがあっても、最終的にはプラスになるのです。一時的にマイナスに作用しているように見えても、それはマイナスに作用しているのではなく、上昇するためには一時的に下降する必要があるだけなのです。

だから近視眼的に短いスパンで考えると、マイナスに作用しているように見えても、もっと長いスパンで考えると、必ずプラスになっているのです。上げ下げを繰り返しながらも、全体としては右肩上がりの線形を描くのです。

なぜそうなるのか。それは人間は善を希求せずにはいられないからです。善を希求するからには、一時的にマイナスに働くことはあっても、グラフは右肩上がりの線形を描くはずなのです。

なぜ人間は善を希求せずにはいられないのか。それは最後には死というものが待ち受けており、死後にどうなるかが分からないからです。たとえ死後の世界は存在しないと豪語する人であっても、死後の自分の魂が幸福になることを望むことは、深層心理にある真の気持ちとしては否定することは出来ないのです。

そうであるからには、何が善なのかということを間違えている人も多く存在し、またどういう間違え方をするのかも多種多様なために、人によって何が善なのかという考え方に大きな幅はあるとしても、善を求めていることには変わらないのです。

魂レベルというものは、プラスにしか働かないのです。プラスにしか働かないのに、マイナスにも働くと勘違いしているから、罪に対する罪悪感という感情が生まれてくるのではないでしょうか。

加点する要素しか存在せず、減点する要素は存在しないのです。マイナスに動いたから悪いことをしてしまったと考えるから、罪に対する罪悪感が生じるのです。

マイナスに動いたからではなく、自分ではどうすることも出来ない元々の自分の中に、悪いことをしてしまう性質を有していたからと考えると、それは罪ではなく必然的に起こる要素となり、罪悪感は持つ必要がなくなるのです。

人間の魂レベルというものは、良くなるか現状維持だけなのです。それなのにプラスにもマイナスにも動くと考えるのは、人間社会のルールが、全ての物事を加点と減点の両方で行っているからです。

しかし、人間社会のルールは便宜上、そうする必要性があるのです。そうしないと社会秩序が成り立たないのです。社会生活上の大多数のルールにおいて、良いと悪いを定義しておかないと、バラバラになり一体感は消えてしまい、大きな損失となるでしょう。

例えば、悪いことをした人間を法律で裁かないと、治安が悪化してしまいます。刑法で人を取り締まるのは、悪いことをした人を裁くためだと考えている人も多くいると思いますが、本来は社会秩序を維持するためだけにあるべきで、人を裁くためであってはならないのです。

なぜなら人間が悪いことをするのは、周囲の環境などの自分ではどうすることも出来ない、つまり自分の責任ではないことを原因とすることが余りにも多いからです。

また、何が悪いことで何が悪いことではないという理解も、生まれ持った頭の善し悪しという才能によって決まってくるが、それも自分ではどうすることも出来ない、自分の責任の範疇の外にあることだからです。

これらのことを考慮すると、人間の心の状態という、本来は最も考慮すべきことも含めた裁きという点で考えると、たとえどれだけ完璧に近い形で罪を犯した人を、人間社会の立法が裁いたと考えても、実は全くそうではなかったということは日常茶飯事となるでしょう。この観点で考えると、人が人を裁くことは全く不可能で、社会秩序を維持するためだけの便宜的なものと捉える必要があるでしょう。

当然、被害者感情というものも考慮すべきではないという結論に辿り着きます。なぜなら、被害者感情は、加害者を強く糾弾したいという意思に基づくものであり、社会秩序の維持とは関係がないからです。

人間社会のルールにおいては、物理的な結果に対して判断が行われます。それに対して、魂レベルというものは、物理的な結果ではなく、その時の心の状態だけを問題としているのです。

この世の人間社会のルールにおいても、人間の心の状態を今よりも格段に重要視すべきなのですが、個々の人々の心の状態を本当の意味において客観視することは不可能なので、便宜的に物理的な結果に重きを置いているのです。

魂レベルや人間の心の成長という観点と、人間社会のルールにおいては、このような本質的な意味において大きな違いがあるのです。このことを論理的に理解することは非常に困難で、結果としてほとんど全ての人が理解することが出来ないでいるので、不必要な罪悪感を持ってしまう人が多く出てしまうのではないでしょうか。

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