『指先が嘘をつく夜は』第6章(最終章)ー1:プリズムの夜明け(Prismatic Dawn)【創作大賞2026】#恋愛小説部門
※第6章(最終章)ですが、ボリュームが多いため、3部作くらいを予定しています。それと、少し不適切な表現が多用されています。
第6章(最終章)ー1:プリズムの夜明け(Prismatic Dawn)
カーテン越しに差し込む朝日に、私はゆっくりと目を開いた。
いつもの見慣れた寝室でもない、いつもと違う香り。私の耳に届く規則正しい寝息と鼓動。
そして、頭の下にある少し固く、心地良い体温。見上げると、すぐ近くに海斗さんの寝顔があった。彼の右腕はしっかりと私の頭を支え、左手は私の肩を包み込むように添えられていた。
「…ん…」
私は、彼に腕枕されていることに気づき、一気に心臓が跳ねる。起こさないように息を潜めながらも、彼の身体から漂う洗練されたシトラスの香りと肌の温もりを確かめるように、もう一度その胸に顔を埋めた。
その時、私のお腹には違和感があった。生理とは違うこのお腹の痛み。
ああ、そうか。昨夜、私は彼を、彼の全てを受け入れた。
別れようとしたのに、離れようとしたのに出来なかった。
陽介を弔い、彼の中に遺された呪縛から救おうとしたのに、なぜまた彼の腕の中にいるのか、なぜ、一夜を共にしてしまったのか…
彼を解放するつもりだったのに、どうして受け入れてしまったのだろう…
でも、もう嘘は吐けなかった。私は、こんなにも海斗さんを求めている。
不意に、あの日の朝のことが思い出された。あの狭いソファベッドで、互いの心を隠し合うように迎えたあの朝…
私は、毛布から手を伸ばし自分の頭を支えている彼の、右手の指先にそっと触れてみた。彼は、まだ「陽介」の仮面を被り、私の髪を撫でるその指先は、どこか冷たく何かに耐えるように強張っていた。けれど、今、私の髪に触れるその指先は、驚くほど優しく温かな体温に満ちている。
この嘘偽りのない指先は、間違いなく彼も私と同じ気持ちだと思えた。
…なんて、そんなロマンチックな気分に浸っている場合ではなかった。
私の身体は、静かに、けれど限りなく限界を迎えていた。
海斗さん、ごめんなさい。心の中で謝りながら、私は彼の手首をそっと持ち上げた。起こさないように、その手をそっとシーツの上へ避けると、するりとベッドから抜け出した。
その時、彼が寝返りを打った。一瞬、緊張が走る。が、彼は目を開けることもなく、そのまま規則正しい寝息を立て始めた。
私は、小さく1つ息を吐く。急ぎたい。けれど、なるべく足音を立てないように絶妙な足取りでお手洗いへと急いだ。
パタン、と静かにリビングのドアを閉めた。のだが、私はまだ知らなかった。この私の行動の全てを海斗さんが気づいていたことをー
ウォルナットのローテーブルの上に、コンビニで買ってきたサンドウイッチや、コーヒー、紅茶のカップを並べていると、
「…おはよう、美月」
彼が起きてきた。少し、髪に癖がついているのが可愛らしい。
「…おはよう、海斗さん。朝ごはん、何もなかったから買ってきた。食べる?」
「ああ、ありがとう。ごめんな、気遣わせて」
いいえ、と微笑んでローソファーに腰掛けた。彼は、ローテーブル側の椅子に腰を下ろす。対面は、何だか照れてしまうからこっちにしたのにな…
「ごめんなさい、好みが分からなかったから。おにぎりとかの方が良かったかな?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
彼は、ハムとレタスのサンドウイッチを手に取る。コーヒーカップを手渡すと、一瞬だけ困るように眉を寄せた。
「…コーヒー、嫌いだった?」
「…いや、好きだよ。ただ…」そう言うと、コーヒーを1口飲む。
その、喉の動きを見ていたら昨夜のことが思い出されて、慌てて視線を逸らした。
私は、卵サンドを手に取り、カップの紅茶を1口飲む。
「…一緒に、ご飯食べるの初めてだね」
「…ああ、そういえばそうだな。ご飯どころか、俺たちスマホの番号もLINEアドレスも知らないしな…」
「嘘、本当に⁉︎あ、そういえば交換したことないね…」
そうだった。彼は、「陽介」としてこの数ヶ月間を私と過ごしていた。
彼は、寝室までスマホを取りに行く。私も、バッグからスマホを取り出す。
お互いに番号とLINEアドレスを交換し合う。
「…改めて、星野海斗です。33歳、医師です」
「…香坂美月です。28歳、セラピストです」と、いきなりの自己紹介に2人してクスッと笑い合う。
「…俺、数ヶ月も一緒にいるのに、美月のこと何も知らないんだよな。君が好きな食べ物とか、好きな物…もっと君の奥深いことは知ってるのにな」
…え?今、なんて⁈私の奥深いことって…何?まさか…
「…紅茶が好きなことは知ってる。必ず飲んでるの紅茶だもんな。でもな、美月。朝の身体にとって、実はそれはなかなか危険なんだ。紅茶やコーヒーは、カフェインの含有量が非常に高い」
「え?でも、目を覚ますのには丁度良いよね?みんな、コーヒーとか飲むし」
不思議そうな顔をする私に、彼は淡々と語り始めた。
「確かに覚醒作用はある。だが、同時にカフェインは腎臓の尿細管での水分再吸収を抑制する。血管を拡張させて腎血流量を増やすから、ダイレクトに強い利尿作用を引き起こす。つまり、水分を補給しているつもりでも、身体はむしろそれを外に出そうとしてしまう。それに、睡眠中に失われた水分で乾いている朝の身体にこれを入れるのは、わざわざ刺激するような燃料を投下するようなもので…」
そこまで淀みなく、実に見事な医学的プロセスを説明し、カップに口をつけた時だった。彼の動きが止まる。
「…海斗さん?」
私の問いかけに、彼はカップを少し乱暴に置くと、椅子から立ち上がった。
「……ごめん、限界だ。今語った理論が、プロセスが俺自身の身体で完全に立証された」
いつものクールさを必死に維持しようとしながらも、その姿は完全に早歩きだった。
バタン、とドアが閉まる音を聞きながら、私は呆然とした。その後で、「ふふっ」と小さく吹き出した。
そして、目の前に残されたコーヒーカップ。それはまだ、ほんの1口しか口にしていない。いくら朝一番とはいえ、1口しか飲んでいないのに限界を迎えるなんてことあるだろうか、そんなはずはない。その瞬間、全てが繋がった。
「…もうっ…なんなのよ……」
視界が急激に歪み、涙がポロポロと頬を伝う。きっと、海斗さんは私の今朝の出来事を全て分かっているのだ。その上で、またこうやって自分で羞恥を買ってくれている。本当に、どこまでも不器用で優しい人。私の中で、海斗さんへの深い愛おしさが、何倍にも何十倍にも膨らんでいく。
きっと、彼は今お手洗いの中で、私のこの涙が止まるタイミングを図っているのだろう。
水の流れる音が聞こえてきた。
私は、彼が溢したコーヒーを拭う振りをして、自分の手の甲で涙を拭う。
拭いながら、後でこの事で彼を弄ってやろうというちょっとした意地悪心を胸に、彼が戻ってくるのを待っていた。
「…はい、そうです。【YOSUKE】の事ですが、実は彼はもう亡くなっております。…私は、彼を看取った病院の医師の星野です。それで、彼の生前の絵の事ですがーー」
海斗さんは、あのアトリエで、陽介の所属する事務所のマネージャーの藤原さんに電話をしていた。陽介の死を世間に公表することと、陽介が遺したこのアトリエにある、たくさんの絵の預け先を探すためだ。
私達は、このアイボリーの家に戻ってきた。あの日から、時が止まったままの陽介と共にーー
あの後、朝食を済ませた私達は、陽介を連れて海斗さんの部屋を出た。
この家に戻る道すがら、海斗さんが口を開いた。
「美月、俺のあの部屋は引き払う。これからは、あの家で一緒に暮らそう。陽介と共に」
「え?でも、あの家は…私と陽介の…」
陽介の思いが色濃く残るあのアイボリーの家…そこに一緒に暮らすって…
言い淀む私に、彼はふっと小さく笑うと、
「ずっと暮らしてきただろう、俺たち。この数ヶ月さ」
「…でも、それは「陽介」としてでしょう?今、もうあなたは…」
陽介じゃない。なのに、あの家で暮らすことは嫌じゃないの…?
私の胸の内を見透かすように、
「あの家で、陽介と共に暮らしていくことが、俺たちに出来る陽介への贖罪だと思う。陽介を弔った今、2人で一緒にこれから歩いていくためにね」
それに、俺はもう美月を離したくない。美月もそうだろう?だから、俺を受け入れてくれたんだろう、と。
そうだ、陽介を弔った直後に私は彼を受け入れた。陽介を失った事よりも、彼を失いたくなかった。彼を、この愛を失う方が怖かった。
私は、彼の車のフロントガラス越しに大きく頷いた。
「…はい、…はい、では、また改めてそちらに伺わせて頂きます。はい、美月と共に…有難うございます。失礼致します」
「海斗さん、藤原さんは何て…」
私は、出来上がったうどんをテーブルに並べながら問いかけた。
彼は、これから当直のため軽い食事が良いと言われ慌てて作ったのだった。
「ああ、ありがとう。藤原さん、後で美月と事務所に来て欲しいって。絵の預け先とか一緒に相談させて欲しいって」
「分かったわ。海斗さん、ありがとう。私、すっかり忘れてた…」
「いいさ、それどころじゃなかったもんな。俺も、うっかりしてたよ。陽介として振る舞う事ばっかり考えてて、全然頭になかった」
そう言うと、彼はうどんに七味唐辛子をパラパラかけ、ネギと生姜をたっぷり入れた。その好みは、私と一緒だった。私はここに揚げ玉たっぷり入れるのが好きだけど、そこは違うようだ。
「…ごめんね、有り合わせで。後でスーパー行ってくるね」
「いや、だめだ。君の身体はまだ完全じゃない。買い物はいいからまだ休んでいなさい」と、急に医師らしくお説教してきた。
…休んでいなさいって、休ませてくれなかった癖に。と言う言葉は、うどんと一緒に飲み込んだ。
そして、夜になり彼は病院へ行った。
「何かあったら、遠慮しないで。電話でもいいし、LINEでもしてね」と、もう大丈夫だと言う私の頬を、両手で包み込む。
「分かったね。じゃあ、良い子でちゃんと寝るんだよ」と、私のおでこに口づけすると、名残り惜しそうに寝室を出ていった。
…大丈夫と言いつつも、いざ1人になったら何だか無性に淋しくなった。静かすぎる部屋に、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
眠れなくて、寝室を出る。キッチンへ行き、やかんを火にかける。
お湯が沸くのを待っていたその時、
『身体は大丈夫か?美月。夜は冷えるから暖かくして早く寝ろよ。
それと、水分補給はもちろん紅茶以外でね』
と、LINEメッセージが入った。
…全く、優しそうでいて、さり気なく今朝の私の行動を完全に読んでいる。お前のことは全てお見通しだと言うようなそのLINEに、私はちょっとだけムッとした。
『ありがとう、海斗さん。今、丁度その紅茶を入れたところ』
わざと紅茶の絵文字付きで送ってみる。すぐに既読がつき、また届いた。
『…カフェインはやめなさい。俺が言ったこと忘れたのか?あれは、朝だけじゃなくて、むしろ夜の方がダイレクトに響く』
ちょっと意地悪したくなってきた。あの「カード」を切っちゃおうかな。
『朝だけって、あのコーヒー1口だけで限界を迎えたこと?あなたが、正に身体を張って証明してくれたあのことかしら?』
…数分間、既読がつかない。ちょっと意地悪しすぎたかなと思っていると、
『誤解だ!』
『いや、誤解ではないが…あれは、その…疲労と緊張による一過性のもので、狙ったわけではない。医学的なエビデンスに基づいた生理現象だ』
恐ろしく早いLINEが飛んできた。
『ふふ、じゃあ「身体のプロセス証明事件」って名付けようかな。
帰ってきたら詳しく教えてね♡』
『…変な名前をつけるな!』
『おい、既読スルーはやめろ。美月』
『…回診が始まるから、一旦連絡はしない。帰ったら、そのことについて厳重に抗議する。…覚えてろよ、美月』
スマホの画面の向こうで、あのクールな海斗さんの慌てふためく様子が手に取るように分かって何だか可笑しかった。
「…ふふ、あははは!」
私は、寝室のベッドの中で、1人声を上げて笑っていた。
かつて、陽介の視線に怯えて息を潜めるように、自分の生活音を殺して過ごしていたこのアイボリーの家。
だけど、今、離れた場所にいる愛おしい人を、スマホのLINEだけでこんなに慌てさせ、こんなにも愛おしく想う。
早く、朝にならないかな。
明日の朝、帰ってきた彼をどうやって弄ろうかな。
そんな幸せな意地悪心を胸に抱きながら、私はスマホを抱きしめたままそっと目を閉じた。
第6章(最終章)ー2へ続く
