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「幸せになりたくて選んだ人生」が、間違っていた話(創作大賞応募作品)

静まり返ったリビングでは、冷蔵庫のうなる音だけが響いていた。

(どうして、こんなに孤独なんだろう)

わたしは膝を抱えて、ソファの隅にうずくまった。

誰もがうらやむような結婚をした。絶対に幸せになれるはずだったのに、一体どこで間違ったのか。

窓の外に広がる庭では、丹精込めて育てたバラやユリが咲き誇る。生い茂った緑が落とす影が、部屋をいっそうひんやりとさせていた。

喉の奥から声にならない想いがこみ上げてきた。誰もいない4LDKのリビングで、わたしは声を上げて泣いた。

離婚という二文字が頭に浮かぶたびに、その考えを打ち消した。何度も打ち消し続けた。

その二文字を選んだ瞬間、自分の人生は完全に失敗だったと認めることになる。そんな気がして、怖かった。


◎何もできなかったわたし


就職先を決めるとき、父はわたしに、「ラクな仕事を選んだほうがいい」と助言した。「女の子は無駄に苦労する必要はない」という親心だったのだろう。

昭和の時代、女性は夫に従って生きればいいとされていた。仕事は結婚までの「腰掛け」でいい。キャリアを積むなんて特別な人のすることだと思っていた。

父に言われるまま、「ラクそうだから」という理由で選んだ企業。それなのに、そこでわたしは毎日叱られた。

「また〇〇さんなの?今週、同じミスするの何度目?」

お茶はよくこぼしたし、コピー機はしょっちゅう詰まらせた。カーボン紙の上でメモを取って下の書類を台無しにしたり、伝票の数字を1ケタ間違えたりするのも日常茶飯事だった。

単純で「ラク」な、誰にでもできるはずの事務作業。それが、わたしにはどうしてもうまくできなかった。

「わたしなんか、どうせ何もできない。どうせ何をやってもうまくいかない」

いつしかそう思い込むようになっていた。


◎結婚して「勝ち組」に


「経済力のある男性と結婚してラクに暮らすことが、女性の幸せ」という昭和の価値観を、わたしは疑いもせず受け入れた。そうした価値観にあらがい続けた女性もいたのだろう。でも、当時のわたしは「おかしい」とすら思わなかった。

もしかすると、逆に両親に「女だから」と縛られなかったからかもしれない。男性が深夜まで飲み歩く一方で、一次会が終わると足早に帰る女性もいたが、わたしは必ずといっていいほど二次会に参加した。我が家は終電に間に合えば叱られなかったからだ。

転職も海外旅行も恋愛も、反対されたことはない。独身時代は、比較的自由にさせてもらえたほうだったと思う。だから自分がその「価値観」にどれほど縛られていたか気づかなかったのだ。


25歳のときに寿退社をして、三高(高学歴・高収入・高身長)の夫と結婚した。両親が喜んでくれたのがうれしかった。当時のわたしは、まわりから見れば、「勝ち組」だったと思う。

プロポーズのとき、彼は言った。
「家にいて、楽しそうにしていてほしい」
そんなの簡単だ。わたしの前には、バラ色の生活の予感しかなかった。

その話を聞いた仲人夫人は、「毎日普通に楽しく暮らすのが、一番難しいのよ」と笑った。そのときは深く考えもしなかったが、わたしはいずれその言葉の意味を、思い知ることになる。

もうこの先は安泰だと、内心ほくそ笑んだ。愚かなわたしは、結婚の意味も幸福の何たるかも、何もわかっていなかった。結婚生活は、ここから先延々と続く日常なのに。


◎名前で呼ばれない女性たち


はじめて「△△さんの奥さん」と呼ばれたときの、気恥ずかしさが入り混じったうれしさは、今も忘れられない。

けれど、その言葉に抵抗を感じる自分にも気づいた。

「奥さん」と呼ばれるとき、わたしは自分でなくなる気がした。夫のおまけになり下がったような、自分に価値がないかのような気持ちにとらわれた。

近所のママたちとの間には壁があった。子どものいないわたしが「○○ちゃんママ」と呼び合う彼女たちの中に、入っていけるはずもない。

とはいえ、わたしは「○○ちゃんママ」と呼ばれたかったわけではない。

結婚するまでは、名前で呼ばれ、自分自身を見てもらえた。けれど、多くの女性は結婚後、「△△さんの奥さん」「○○ちゃんママ」と呼ばれ、夫や子どもを通してしか見られなくなる。その事実に、どうしようもなくもやもやした気持ちになった。

このまま、名もなき存在になっていくのか…。


ある日、鏡の前でひとり、声に出してみた。
「わたしは幸せなんだ」

名もなき存在になることが「ラクに生きること」、そして「幸せ」なのだ、と言い聞かせながら。

自分の声が、やけによそよそしく聞こえた。


◎深まる溝


夫は決して何事も「ダメ」とは言わなかった。けれどその代わりに、遠回しに縛るのが、彼のやり方だった。

「女が飲んで酔っ払うのはみっともないと思わない?」
「どうせいつも家にいるんだから、服はファストファッションで十分だろう?」

彼の言葉は一般論で、世間でも普通に言われていたことかもしれない。けれど、彼の言葉の中の主語は、常に「女」や「主婦」で、そこに「わたし」はいなかった。

少しずつ、夫との間に距離ができていった。

30歳を前に、大手ハウスメーカーに依頼して建てた一戸建てへ引っ越した。表面的な「勝ち組」ぶりは健在だった。けれど、家を買ったからといって夫婦関係が修復するはずはない。むしろ、二人の間の溝は深まっていった。

都心から遠くなり、夫の帰りは遅くなった。「夕飯はいらない」が、毎朝の決まり文句のようになった。休日、彼は抜け殻のように眠り、一緒に過ごす時間は減っていった。


たまに一緒に出かけても、ふと気づくと彼の姿が見当たらない。いつのまにか駅の方へ歩きだしていた彼の背中が、遠くで点になっていた。

彼の服を選びながら「これどう?」と振り返っても、そこには誰もいない。探し回って駐車場へ行くと、彼は車の中で黙って座っていた。理由も言わないし、謝りもしない。

「どうして黙っていなくなるの?」と泣きながら聞いたこともあったが、彼は何も答えなかった。


そんなことが繰り返されるたび、心が削られた。「彼は疲れているのだ」と頭では理解できても、寂しさは埋められない。当時すでに、わたしは予感していた。このままでは、わたしたちはきっと壊れてしまう、と。

一緒に暮らす人がいるのに心に影を落とす「ひとりぼっち」という感覚。それは一人きりで過ごすよりも救いがなかった。


◎父の言葉


住宅ローン返済のためというより、時間を持て余してパートに出ていた時期もあった。わたしは、独身の社員からも主婦のパート仲間からも、「気楽でいいわね」と言われた。

夫からも同じことを言われた。かつて「家の中で楽しそうにしていてくれればいい」と言ったのは一体誰だったのか。

「キャリア女性」でも「母親」でもない「宙ぶらりんな存在」は、誰にも共感されない。わたしを「気楽」だと苦笑いする人は、その裏にある孤独には気づかないのだ。

わたしは何も持っていなかった。キャリアも子どもも、気のおけない友人も。

それなのに、自由であることをうらやまれた。自由であるほど、孤独に押しつぶされるときもあるのに。

年に数回、名古屋の実家に一人で帰省した。すでに定年退職した父がテレビを見る隣で、いつものように水彩画を描いていた。すると、父がこう言った。

「おまえは、人から見たらすごく恵まれた生活をしているように見えるんだろうけど、おまえなりに苦労があるんだろうなぁ」

このひとときを最後に、父は急死してしまった。

父の言う通りに「ラクな道」を選んだはずなのに、なぜわたしは、幸せになれなかったのだろう。


◎孤独の中で描き始めたマンガ


何かが動き出すのは、いつだって最悪のときだ。うまくいっているとき、人は変わらない。変わる必要がないからだ。わたしの人生が動き出したのも、深い苦悩の底に落ちたときのことだった。

夫とはすれ違い続け、そのうち休日も一緒に過ごさなくなり、食事も一緒にとらなくなった。

一人きりのとき、わたしはリビングでむせび泣いた。

幸せになれると思って結婚したのに、なぜわたしはこんなに孤独なのか。どこで間違ったのか。

気づいたら、ペンを持つ手が動いていた。絵を描くことは、いつもつらいときにわたしを救ってくれた。このとき、わたしはひよこの4コママンガを描き始めた。

何一つ楽しいことのない日々。だからこそ、毎日ひとつだけ、「少し笑えること」を探してマンガに描いた。笑えることなんて、ほとんどなかったのに。

でもこのマンガを描き始めたことが、意外な方向へとわたしを運んでいくことになる。


◎予想外の展開へ


人生はたまに、ご褒美のようないたずらを仕掛けてくる。周囲に押し切られるように町内会の役員になり、日々会議やイベント準備などで忙殺されるようになった。そんな場所で、わたしの人生を変える出会いがあるとは。

イベント準備の合間に、みんなで談笑していたときのことだった。理事をしていた男性が、わたしにこう言った。
「あなたのような若い人が社会に出ないのはもったいない。何か勉強してはどうだろう」

そして、ある大学の社会人講座で学ぶことを勧めてくれた。

ブログの文章をうまく書けるようになりたくてライター講座に通い、編集者に出会った。そこで「このひよこかわいいね」と言われ、イラストの仕事を依頼されることになった。

ただの主婦だった自分が、30代後半にして、イラストレーターへの道を歩み始めることになったのだ。自分がイラストを手がけた本が、書店に積まれているのを最初に見たときの感動は忘れられない。

「わたしの居場所はここだったんだ…」
生まれてはじめて「認められた」経験は、大きな自信につながった。


断れずに引き受けた役員の仕事と、つらい毎日の癒しとして描いていたマンガブログが、道を切り開いた。まさかの巡り合わせ。誰がこの展開を予想できただろう。


◎新しい出会い


ライター講座に通い始めて半年後、11年の結婚生活はあっけなく終わりを告げた。

地元には帰らず、都内に部屋を借りてイラストスクールに通った。はじめての一人暮らしは、思いのほか快適だった。

卒業後は、本格的にイラストレーターとして活動を始めた。


2年半ほど経ったころ、飲み会で9歳年下の今のオットと出会った。THE YELLOW MONKEYと美術鑑賞が好きな彼とは、すぐに付き合うようになり、たった8カ月で再婚を決めた。

「かけがえのなさ」は、肩書や収入で決まるものじゃない。その人と一緒にいれば、楽しい思い出が増えていく。ただそれだけでいい。

でももちろん、オットとの結婚を決めた理由は、それだけじゃない。
「ひよこちゃんはどうしたい?」
彼はいつもそう尋ねてくれた。その言葉が、臆病になっていたわたしに決意をさせた。

もしこれが物語なら、ここがハッピーエンドになるだろう。けれど現実は、残酷だった。


◎成功と幸せ


イラストの仕事が停滞し、落ち込むわたしにオットはいつもこう言ってくれた。

「成功しなくてもいいんだよ。ただ、自分が納得できればそれで」

でもわたしは気づいていた。本当はオットこそが、写真を本格的にやりたいと願っていたことを。仲間の誰よりもたくさん写真を撮り、「おもしろい写真を撮るね」とワークショップの講師からも認められていた。

それなのに、なぜ彼は写真を仕事にしていないのか。


何も不平を言わず、多忙な中でひたすら大量の写真を撮り続ける彼を見ていると、苦しくてたまらなくなった。

彼は「家で楽しそうにしているわたし」を丸ごと受け止めてくれた。わたしは「幸せ」だった。

それなのに、自分ばかりがその幸せに甘えているような気がした。彼に申し訳なさすぎて、どうしてもその幸せを受け止めることができなかったのだ。


◎病と転機


そんな中、オットが毎週のように会社を休むようになった。それまでどれほど激務でも休んだことなどなかったのに。

「まさか何か悪い病気?」
不安になるわたしに、彼は笑ってこう言った。
「持病が悪化しただけで、死ぬようなことはないから安心して」

しかし彼の持病は完治が難しく、体調不良が長く続いた。顔が腫れて、別人のようになった。それだけでなく、背中から体液がにじみ出てシャツがびしょ濡れになり、会社のトイレで着替えるのが日常だった。


このまま会社員を続けさせてよいのか悩んだ。でも正直なところ、彼が会社を辞めたら、どうやって暮らしていけばいいのか。まるで先の見通しが立たなかった。

悩んだ末に、二人で人生を大きく変える決断をした。

わたしの実家がある名古屋へUターンし、母と同居することにしたのだ。彼は写真の専門学校に通い、プロのフォトグラファーを目指すことにした。イチかバチかの、人生を賭けたギャンブルだった。

引っ越し後のある日、学校から帰宅した彼が目を輝かせて言った。
「先生に『こんなにたくさん撮る生徒を見たのは、はじめてだ』って言われた」
わたしは、この賭けはきっとうまくいくと確信した。

その予感の通り、彼は在学中から仕事を紹介されるようになった。このまま順調にやっていけると信じていた矢先、思いがけないできごとが我が家を襲った。

ここで人生はまた、足元から崩れ落ちていったのだ。


◎どん底で感じた充足感


卒業間近、彼は再度倒れた。そして、そのまま数カ月の闘病を強いられることになった。

「このまま卒業できないかもしれない」「この先はどうなるのか」と、不安と恐怖で眠れない夜が続いた。

ここまで来てわたしは、はじめて腹の底から決意したのだった。
「自分がどうにかしなくては」

派遣会社に登録して、昼は企業で働き始めた。すると急にイラストの仕事が次々と入ってきて、夜も土日も休まず絵を描いた。


ずっと「自分は何もできない」と、一人で落ち込む「悲劇のヒロイン」気取りだったわたし。でももうそんなことは言っていられなかった。

今もオットの闘病の話をすると「えらいわね」「大変だったでしょう」と言われる。確かに大変だったかもしれない。けれど、不思議と不幸ではなかった。

もうダメかもしれない、と思ったことは何度もあった。お金もない。仕事も不安定。未来なんて何一つ見えない。

でもそれなのに、未来は真っ暗なのに、不思議なくらい「生きている実感」だけは鮮やかだった。

真冬、自転車で坂を漕ぎ上がるとき、頬に刺さる風が痛かった。常に寝不足で疲れていた。それでも、蕁麻疹じんましんや不整脈が出ても、体が悲鳴を上げても、わたしはギラギラしていた。

こんなに充実感を覚えたのは、生まれてはじめてだったのだ。


◎訪れた平和な日々


驚いたことに、20代の頃あんなに「仕事ができない」と言われていたわたしが、どこに行っても「できる人」として扱われた。

コピーはたぶん今も下手だ。けれど、ブログばかり書いていたせいか、文字入力は速いと言われ、イラストの仕事で鍛えられた画像処理のスキルも重宝がられた。

オットには申し訳ないが、わたしは結構幸せだったのだ。「人の役に立てている」と感じられることが、こんなにも心を強くするとは思わなかった。

その後、オットは無事卒業してフリーのフォトグラファーになった。実家から独立して、10年以上フリーランスの夫婦として生きている。

わたしは50歳を過ぎてから本格的に文筆家として活動を始めた。今は新聞社やテレビ局の媒体でコラムを書く毎日だ。


どんなに仕事が忙しくても、妻である自分が家事をやらねばならないと考えていた時期もあった。けれど彼は「手の空いたほうがすればいいよ」と言い、ここ数年は家事のほとんどを引き受けてくれている。

彼の闘病記やひよこマンガの本など、何冊か出版もした。収入はようやく安定するようになり、苦しかった日々も思い出になろうとしている。


◎自分の人生がようやくはじまった


振り返れば、最初の結婚生活は呆れるほど「ラク」だった。あんなにラクだったのにつらかったのはなぜだろうと考えた。

孤独と絶望の狭間で泣いていた35歳のわたし。あの頃のわたしは、自分が何を望んでいるのかさえわかっていなかった。

ラクなことと幸せは違う。大変なことと不幸も違うのだ。


わたしはラクをしたかったわけじゃない、ずっと、命を燃やせるほど何かを頑張りたかった。

誰かにぶら下がって生きるのではなく、一緒に苦労を分かち合いたかった。

自分の名前で呼ばれて自分の足で歩き、自分の人生を選びたかったのだ。

今のオットは、「ひよこさんのご主人」と呼ばれても気にしない。わたしも「宮田さんの奥さん」と呼ばれても平気になった。もう今は、自分自身の名前で立っているからだ。


わたしはこういう人生を望んでいたのだと、ようやく気づいた。

もし父が生きていたら、今のわたしを見てこう言うに違いない。
「今のおまえは、人から見たら大変そうに見えるんだろうけど、それでも幸せなんだろうなぁ」

文:陽菜ひよ子

 写真:宮田雄平

このエッセイは、以下の投稿を大幅に加筆修正したものです


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陽菜ひよ子 / インタビューライター&イラストレーター もし、この記事を読んで「面白い」「役に立った」と感じたら、ぜひサポートをお願い致します。頂いたご支援は、今後もこのような記事を書くために、大切に使わせていただきます。